微量毒素

緑の魔歌 〜帰郷〜 p.3

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 「泣き虫ルー。泣いてもしようがないでしょ!」目の前のクーはきつい言葉をルーに向かって放った。ルーは泣きながら、クーは他の子供たちとは少し違うと感じている。クーの言い方には、なぜかお母さんの言い方を思わせるものがあるのだ。ルーにも、クーの言っていることがルーをいじめるためではないということがわかる。クーは味方なのだ。でも、ルーは泣くのを止められない。どんどん、涙が溢れてくるのだ。なぜなら。

 お母さんが来ない。いつもなら、とっくに迎えに来ているのに、きょうは来ないのだ。それは。

 お母さんがご用事があるから。お母さんが言っていたし、先生にもお母さんがお願いしていた。だから、もう少し待たなければいけないのはわかる。しかし。

 ルーはお母さんが来ないので、泣いているのだ。

「だから、泣いちゃだめって言ってるでしょ。ルーのお母さんはもうじき来るの。だから、泣いちゃだめ。」クーの言うことはわかる。でも、今お母さんはいないのだ。

「だって...」ルーは必死で自分の気持ちをクーに伝えようと試みる。

「だって、お母さんがいないの。」

「だからあ、お母さんはご用事なんでしょ。」

「だって...」

「クーのお母さんはね、いつも遅いんだよ。」ルカははっと顔をあげた。

「でもね、クーは我慢するの。」そう言ったクーは、ルーよりずっと寂しそうに見えた。

「どうして?」

「お母さんが来た時に、クーが泣いてたら、お母さんが悲しいでしょ。」

「...そうか」ルカはいつの間にか泣き止んでいた。

「じゃあ、ルーのお母さんが来た時に、ルーが泣いてたら、お母さんは悲しいね?」

「そうだよ。」

「わかった。ルーは泣かない。」重々しくうなづくクーに先生が近づいてきた。

「クミちゃん!だめじゃない、ルカちゃんを泣かしたりして!」クーは大きく目を見開いた。

「ちがうの...」クーは抗議しようとしたが、先生は有無を言わさずクーをルーから引き離そうとした。

「ルカちゃんはいい子でお母さんを待ってるのよ。いじめたりしたらだめでしょ。」

「ちがうの...」クーの顔がくしゃっとなった。先生は、クーを抱っこして連れて行こうとしたが、そのスカートのすそをつかむ手があった。先生がびっくりして振り返ると、ルーが先生を見上げていた。

「先生、クーはね、違うの。ルーが泣いちゃだめって言ってたの。」クーがルーを見た。涙をいっぱいに溜めた目が大きく見開かれている。

「だから、ルーはクーと遊ぶの。いいでしょ、先生。」クーはじっとルーを見ていた。先生は、ルーが怖くて言っているのではないということがわかるだけの経験は持っていた。クーを降ろし、二人を見比べた。

「大丈夫?仲良く遊べる?」

「うん。」ルカは言った。

「じゃあ、お母さんが帰ってくるまで、仲良く遊んでいるのよ。」クーとルカはうなづいた。先生は二人の頭に手をおき、軽く撫ぜた。クーが走り出した。ルカは後を追った。クーはくるりと振り向いていった。

「塔の上に行くの。そこは秘密基地なのよ。」クーの頬には涙の流れたあとがあったが、それは泣く前の涙が零れただけのものであり、泣いた跡ではないことがわかっていたので、二人とも気にしていなかった。それでも、ルーはクーの言ったことが気にかかっていたので、ハンカチを出してクーの頬を拭いた。ハンカチをポケットに戻そうとして、ふと気づき、慌てて自分の顔も拭いた。びっくりした目で見つめているクーに、ルーは言った。

「おかあさんが見たら悲しいでしょ。」

クーはニッと笑ってうなづき、塔のはしごを登り始めた。ルーはこの塔は怖くて、今まで登れなかったのだが、一所懸命くーについていった。ルーのお母さんは、ルーが塔の上から嬉しそうに手を振っているのを見て、驚いた。てっきり泣いているだろうと思って、急いで帰ってきたのだが、それでもけっこう遅くなってしまったのだ。

 お母さんに連れられて帰るとき、ルーはお母さんの手を離して、塔の上の子に手を振った。これも今までにないことだった。

「バイバイした子はだあれ?」

「クーだよ。クーはまだ、おかあさんを待ってるの。」

「そう...仲良しなの?」

「うん。クーはね、ルーに泣いちゃだめって言ったの。だから、ルーは泣かないの。」

「泣いちゃだめって?」

「そう。泣いてるとね、おかあさんが悲しいんだって。そうなの?おかあさん。」

「そう、そうね。ルーが笑っていると、迎えに来たおかあさんは嬉しいわ。」

「そうじゃなくて、泣いてたら。」

「泣いてたら...そうね。おかあさんはすっごく悲しいわね。だから、クーちゃんは泣かないの?お母さんを待ってるとき。」

「そうなの。だからルーも泣かないね。」

「そうね。その方がおかあさんもずうっと嬉しいわ。」

「そうなんだー。」ルカは嬉しそうにお母さんとつないだ手をぶんぶんと振った。

「クーちゃんは偉いね...」

「うん。クーは偉い。ね、ルーは?」

「ルーも偉いよ。ほんとうに、二人とも偉い。」

「ふんっ」ルカは、威張っている恰好をした。おかあさんは幼稚園の方を振り返り、塔の上でお母さんを待っているだろう、クーのことを思った。

「ほんとうに、子供って、どんどん大きく、強く、かしこくなっていくのね...」
 お母さんの声は小さくて、ルーの耳には届かなかったが、ルーの手をぎゅっと強く握ってくるおかあさんの手を感じて、嬉しくなったルーはぎゅっと握り返した。空は次第に夕焼けの色で橙色に染まってきていた。

 その後、ルーはクーとよく遊んだ。ルーはやはりよく泣いたが、すぐに泣き止むようになった。クーはルーのことを泣き虫ルーと呼んだが、ルーは仕返しにクーのことをおもらしのクーと呼んだ。クーはそう言われると、怒りまくってルーと取っ組み合いのけんかをした。ルーが引っ越したのは、長い休みの間だったので、クーとお別れをすることも出来なかった。もう、7年も前の話である。


 ダイエットコーラの缶を二つ持って、困り果てているクー、いや、久美の顔が目の前にあった。ルカはハンカチを強く目に押し当ててから、久美の目を見て言った。

「大丈夫。なんでもない。」ルカの瞳は、涙の翳を残していなかった。心配そうに覗き込んだ久美は、頷いていった。

「なるほど。7年分の進歩はしているというわけか。」

「いいえ。」久美が怪訝そうにルカを見る。

「7年前にここまで来たの。あなたのおかげよ。」不意をつかれて、久美の顔がくしゃっとなる。

「何言ってんだい...」小さい声。

「あのころは、引っ越すってことがよくわかってなくて、お別れも出来なかったわよね。」

「まあ、大昔のことだから。忘れちゃったけどね。」嘘だとわかった。泣かないでいる人間は、泣きたくなる原因を、なかなか自分の中から追い出すことが出来ないのだ。

「うそつき。」

「何がよ。」強がりながら、目を合わせない。あのクーが?

「ごめんね。」ルカはクーの肩に手を回した。

「何だよ。あたしにはそういう趣味はないんだけど。」言いながら、久美ははねのけようとはしない。しばらく、ルカは久美の肩に頭をもたせかけていた。頭を上げ、久美の顔を見る。逆光になり、表情が見えない。

「ねえ、久美は南中なの?」

「ああ、そうだよ。ルカは、この辺りに越してきたのか。」声は穏やかで落ち着いていた。

「道を教えて。」

「仕方ないな。迎えに行こう。家はどこ?」ルカは住所と電話番号を教えた。久美の家も教えてもらう。

「じゃあ、明日の朝、7時半に行くから。」

「よろしく。」

「ああ、私は用事があるんで、きょうはこれでおさらばするよ。」

「うん。じゃあ、明日。」

「了解。」二人は立ち上がった。明るい光が二人に当たっている。ルカは持っていたハンカチで久美の頬を撫でる。

「おかあさんが心配するわよ。」びっくり目をした久美は、7年前のあの時と同じ顔をしていた。


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