微量毒素

白の魔歌 〜エリカ〜 p.3


魔歌

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 ムサシもイガもいい気分で酔っている。ムサシは歩きながら本屋を見つけた。

「ちょっと待っててくれ。捜してる本があるんだ。」

「わかった。変な本買うなよ。」

「よけいなお世話だ。」

 イガは本屋に入らず、4月の夜気に身体をさらしていた。飲酒が、感覚を鋭敏にしている。道を行く、一人一人の人間の表情や、手振り、服装、歩き方まで、すべて見えている。しばらく夜の町を構成する要素を眺め、楽しんでいたイガは、彼女を見つけた。

「ありゃ、あの子だ。間違いない。」

 その子はいつか、イガが道に迷っていた時に、川辺ですれ違った女の子だった。彼女はちょうど、クラブから出てくるところだった。後ろから男たちが何人かついてきている。男の一人が、後ろから女の子の手をつかんだ。女の子は、何か言いながら、その手を振り払った。声が聞き取れない。飲酒による感覚の向上は、聴覚には作用しないのかもしれない。

 男たちはさらに迫り、女の子を囲むように広がった。女の子は、何か言いながら男たちを見回した。女の子の顔が、こちらに向いた。怒りを秘めた、凄まじい瞳。男たちが睨み殺されないのが不思議である。瞳だけだなく、全身から怒りを噴き出させて、女の子は立っている。夜の町を構成する、すべての要素から、彼女だけが浮き上がって見えた。

「...惚れた...」

 イガは、呆然とした顔で呟いた。ムサシのことなど頭の中からふっ飛び、イガは歩き出した。



 10人はいないな。そう思いながら、イガは輪の中に入り込んで行った。

「はい、ごめんよ。」

 男たちは、自分たちに身体をすりつけながら入ってきたイガを、敵と見ていいのかどうか、わからないまま、立っていた。女の子は、凄まじい敵意を秘めた瞳を、今はイガだけに向けていた。イガはかまわず女の子に近づいた。女の子の腕に力がこもるのを見ながら、イガはすばやく囁いた。

「困ってんだろ。手を貸すから、逃げろ。」

 女の子の目が開くのと同時に、それを聞きつけた男が詰め寄ってきた。

「何だ?おまえ。横から入ってきて何を言ってやがる。」

 イガは襟を掴まれた。ぐいっと引き寄せられると、そのまま勢いをつけて、相手の身体にぶつかっていった。そのまま、いっしょに倒れた男の首の横に、両手の親指を押し付けた。男はすぐに意識を失った。イガはゆっくりと立ち上がり、振り向いた。両手を左右に少し広げ、うれしそうに微笑んでいる。

「っのやろ!」

 いきなり殴りかかってきた男の拳を、身を沈めて避ける。途端に膝蹴りが飛んできたが、これもイガは予期していた。膝を受け止め、そのまま上に持ち上げる体勢を崩したところに、今度はイガの思い切り良く振り上げた足蹴りが、顎に入り、男はひっくり返った。その途端、後ろから蹴られて、イガはつんのめった。前の男が足を振り上げる。イガはそのまま前方に回転し、蹴りを避けて、男の胸に乗る形になった。勢いがついているので、相手に乗ったまま地面に倒し、また首の急所を責めて、気を失わせ、すばやく立ち上がり、振り向いた。

 振り向いた途端、顔の中心に拳がきたので、上体を倒して避け、そのついでに相手の腹を蹴った。相手は後ろにふっとび、体勢を崩している。周りを見ると、まだ4人ほど、戦闘可能のようだ。女の子はと見れば、まだそこにいる。イガは声をかけた。

「何やってんだ。さっさと行け。」

「でも、私が...」

「危ないだろ。怪我するぜ。」

「しかし...」

 話をしている隙に、目から火花が散った。振り向くと、街頭宣伝の幡を引き抜き、その棒でイガの頭を打ったらしい。棒が曲がっている。

「こンのやろオ!」

 イガも切れた。武器を持ち出すなら、最初から持ち出しやがれ!

「いいから、とっとと行け!」

 イガは頭をさすりながら、背後の女の子に怒鳴り、近くの居酒屋のものらしい、狸の置物を持ち上げた。回りで見物している者達から、おおっというどよめきが上がった。イガは、狸を前に突き出し、男の棒を受けながら、男に迫った。イガは男の棒を狸のひょうたんで受け、すかさず肘ではさんだ。相手が棒を引っ張ろうとした瞬間に離し、体勢を崩した男の頭を、たぬきの置物で張り飛ばした。男は居酒屋の中に転げ込んだ。イガは置物を戻そうとして、振り向くと、別の一人が殴りかかってきた。イガが少し腕を持ち上げると、狸が男の拳を受けてくれた。鈍い音がした。

「うわあ、痛そう...」

 イガは狸を下ろして、目の前の男を眺めた。イガは相手が殴りかかってくるのを待っていた。こちらから攻撃することはない。女の子を逃がしたら、自分もすぐに逃げるつもりだった。右からきた男をあしらい、そのまま左に送り出した。男は見物人の中に突っ込んでいった。

 春の陽気は、人の頭のたがを緩めてしまう。あっという間に野次馬が集まってきた。その中には、参加したくてたまらないほど、いい気持ちになっている酔っ払いが山ほどいる。参加するための切符は、すぐに手に入る。突き飛ばされてきた男がぶつかってくればいいのだ。

「何すんだよォ。」

「邪魔だァ。」

 で、こちらでも乱闘の輪が広がる。瞬く間に、騒動の輪は拡がった。

「こらァ」
「おまえが」
「げぶ」
「あいつだ」
「うしろ」
「ったら」
「もぺぺ」
「あかみそ」

 こうして、この静かな文教都市で、突如巻き起こった大乱闘事件は、歴史にとどめられることになる。その歴史的乱闘事件の、発端はこんな具合だったのだ。


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