微量毒素

白の魔歌 〜エリカ〜 p.4


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 イガ自身、これには驚いた。自分の周りだけでなく、この通り全体で喧嘩が始まっているのだ。突如始まった大乱闘に見とれているうちに、左の頬を殴りとばされた。

「っこのォ!」

 あやうく体勢を立て直し、下から突き上げるように、掌底を顎に打ち込んだ。男はふっ飛び、動きを止めた。次の敵を捜して見回すと、まだ女の子が、少し身を引いて立っていた。イガはそちらに向かって叫んだ。

「ばっかやろォ、とっとと逃げろ。」

 女の子は、少し逡巡しているようだったが、一瞬イガの顔を見て、「どうも。」とだけ言い、歩き出した。一瞬受けた視線の冷たさに、イガはゾクリとした。早足で、乱闘を巧みによけながら歩いてゆく。あえて走らないところも、イガを感心させた。こういうところで下手に走り出すと、かえって回りの注目を集める。わかってやっているのかどうかはわからないが、乱闘を避けてゆく身のこなしは、どうにも美しい。イガが感心していると、腹に蹴りがもろに入った。さすがにイガもふっ飛ぶ。飛びながら、イガは片目をあけて、次の相手の行動を見た。追ってくる。片膝をついて止まったイガに、さらにもう一発の蹴りが飛ぶ。しかしイガは予期していたので、身を沈めてやり過ごし、相手の軸足を蹴った。相手は派手に舞い上がり、背中から落ちて悶絶している。だいたい片付いたかな、とイガが回りを見回すと、一人残っていた。しかも、女の子を追っている。イガは乱闘を縫って走り、男を追った。



「よかった、ここで買えて。」

 ムサシが書店の袋を抱えて出てきた。イガがいない。それどころか、いつの間にかそこら中で喧嘩が起こっている。喧嘩と言うより、乱闘だ。殴りあう相手が決まっていない。手当たりしだいに殴り合っている。ムサシは、いきなり殴りかかってきた男を、上体をそらして避け、言った。

「人違いでは?」

 冷静なムサシの指摘を受け、男は忌々しそうにムサシを睨み、他の獲物を求めて乱闘の輪の中に戻っていった。

「なんでこんなことに...」

 ムサシはぼう然として回りを見回した。気配を感じ、また殴りかかられるかと思い、振り向くと、イガが立っていた。体中から闘った後の気配を漂わせている。

「イガ、おまえ、喧嘩をしたな。」

 イガはにやりと笑い、言った。

「喧嘩もしたが、恋もした。すごい女の子を見つけたんだ。」

「なんだ、そりゃ。だれかの墓碑銘みたいだな。」

「なんとでも言え。女房持ちにゃ、わからん。」

「その言い方、好きません。」

「ともあれ、ここから離れよう。警察につかまりたくない。」

 なるほど、商店街の者が通報したのか、パトカーの音が近づいてくる。

「その本屋の袋はいいな。すごく無害に見える。」

「いいから、行くぞ。無害に見える必要のないところまで行こう。」

 ムサシとイガは、横道に入り、暗闇の中に消えた。さとい者は、同じように姿を消してゆき、通りには酔っ払いと、頭に血が上ったものと、動けなくなった者だけが残った。それでも、通りはほとんど人が減ったように見えないほど、盛り上がり、狂乱のお祭りのようなものが続いていた。警察官が残った者を止め終わるころ、ムサシとイガは人気のほとんどない、アパートへ向かう道を歩いていた。このあたりは、猫の歩く音も聞こえるほど静かで、平和だった。

「恋をしたって?」

「ああ、それ、それ。今まで生きてきて、こんなに胸がときめいたことはない。これは本物だよ、ムサシ君。」

「酒が入ってるからな。どんなもんだか。」

「ぬ?妙にしつこいな。ひょっとしておまえ、俺に惚れてるのか?」

「100%、あり得ない。おまえ、悪い酔い方をしてるな。」

「飲んだばっかりで動きすぎたかな。」

「ずいぶん喰らったようじゃないか。」

「ま、少し。多人数相手だと、ちょっと戦い方を考えないといけないな。残心をしてると、後ろから蹴られる。」

「ふん、少しはいい実戦経験になったようだな。」

「それより、彼女の事を聞いてくれ。目は黒く、髪も黒い。」

「日本人の90%はそうじゃないか?」

「全身から、噴き出る闘気がすごいんだ。」

「?。女子プロレスラーみたいな人?」

「近づくのが怖いほど、冷たい瞳なんだ。」

「嫌われてるんじゃないのか。」

「もう、いい。ムサシ。おまえとは話さん。」

「まあまあ。もっと聞かせてくれ。おもしろいから。」

「おれはお笑い芸人じゃない。」

「いやいや、ほとんどそうだぞ。」

 やくたいもないことを話しながら、寝静まった町を二人は歩いていった。


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