微量毒素

白の魔歌 〜大学祭〜 p.13


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★ 須臾しゅゆに、夏は過ぎる

「1回50万や。びた一文負からん」

 アリサは、ケイと一緒にカタコンベの控え室に座っていた。先の言葉は、ドグ・ラ・マ・グラのリーダーの言葉である。今日は学園祭に出演をお願いするに当たり、出演料の交渉である。要求金額は想定範囲内であり、問題はない。インディーズとしては高めであるが、知名度からいえば安いとも言える。依頼者側としては、否やはない。今回は、出演料自体の話より、それに付随して発生する諸費用についての確認を取りに来たのだ。

「了解しました。お礼については、持ち帰って検討させていただきますが、問題はないと思います。」

「あんたらでバシィーッと決められへんのかいな」

「申し訳ございません。まだまだ若輩者でして...」

 アリサは深々と頭を下げた。顔を上げると、リーダーが退いている。

「...やっぱり何ぞ怖いな、あんた」

「学生さんだからね。難しいでしょ、お金の扱いは」

 メンバーの一人がフォローしてくれた。

「そら、そうかもしれんわな。じゃあ、今日はそれでええのんか?」

 ケイが手帳を開いて言った。

「ええと、きょうはそのほかにかかる費用について、ご相談しようと思っているんですが、マネージャーさんみたいな方がいらっしゃらないので、ちょっと困っているんですが...」

「捌けなくなるほど仕事が来たら別やけど、今のところは間に人を入れると、やりたくない仕事までやらされそうな気がしてな。ほんで、付き人はおらんのや」

「本当は、直接お聞きするようなことじゃないんでしょうけど、リーダーさんにお聞きするしかないんです。よろしいでしょうか?」

「付き人はおらんから、今はわいが丁稚や。何でも聞いとくれ」

「お願いします。音響は、専門の方にお願いした方がいいんでしょうか」

「これは要るな。ヤマシタ音響に頼んだらええ。照明も込みでな。うちはイベントの時によく頼んどるけど、安くて仕事もちゃんとしとる。会場によるけど、15万から20万はかかるで」

「わかりました」

「もし、高いこと言うようやったら、わいに言うてや。ちょっとは口聞いたるさかい」

「ありがとうございます。それと、控え室にしていただく部屋には、加湿器をセットしておきます。あとは姿見と、ハンガーラックにティッシュとスナック類とおしぼりを用意します。飲み物は熱いのと冷たいのを両方用意するつもりですけど、どのようなものがよろしいですか?」

「缶かペットボトルがええな、色々気を使うのは嫌やから。冷たいお茶と水だけでええから、たっぷり用意したってな。おしぼりとかはいらんで。マイ手拭があるから、それで十分や」

「アルコール類は用意しますか?」

「学校のイベントやろ。酔っ払いが舞台に上がってたら洒落にならんがな。元々、演奏のあるときはうちらは飲まんから。うちらは酔っ払って演奏して、客を満足させられるほどの域には達してへんからな。まだまだ若輩者やさけ」

 リーダーはアリサを見やる。アリサはにっこりと笑った。ケイは手帳をチェックしながら続けた。

「後はお食事と、移動の手配ですね。楽器の運搬と、設置は別費用で専門家にお願いする必要がありますね」

「食事は頼むわ。弁当でええから。2食分な。2時間前に入るから、やる前に腹ごしらえして、後は終わってからや。けっこう体力使うによってな。移動は、うちのバンで来るからええわ。ただし、駐車場はええとこにしてや。荷物運びはうちらでやるから。積み下ろしがあるから、2台分の場所は必要やで」

 ケイははっとして顔を上げた。

「楽器は運んで下さるんですか?それはこちらで頼みますから」

「他人に触られたくないちゅう奴が多くてな。ええよ、出演料は負からんけど、労働奉仕はするんや。設置もこっちでやるから、心配せんでええで」

「!...ありがとうございます」

 ケイは目を潤ませている。リーダーは少し困った顔をして、そっぽを向いて考え込むふりをした。

「他にやらなきゃならんことやな...」

 メンバーはにやにやしてリーダーを見ている。

「まあ、そんなもんやろ。頑張って、やることをやりいな。仰山あんのやろ」

「ありがとうございます」

 ケイもだいぶ固さが取れてきて、今日の交渉はほとんどケイ一人で仕切ることが出来た。アリサは横でケイとメンバーの会話を聞いている。暇になったリーダーは、アリサに話しかけた。

「今日は聴いてくんかい」

「もちろんです。大勢連れてきていますから」

「じゃあ、ぎんぎんに張り切っていこうかな。しょんべん、ちびるんやないで」

「あ、しまった...」

 アリサは呆然とした。

「どないしたん」

「替えのパンツ、忘れました...」


「あの女には、どうしても勝てんわ」

 二人が出て行った後、リーダーは首を振りながらぼやいた。

「リーダー、やっぱり弱いな」

「あの娘に惚れたかな」

「だあほ、女に惚れて媚びるかい。おれはな、あの子に根性を見たんや。だから手伝うてやりたいんや。男が男に惚れる、ちゅうかな、そんな感じや」

「やっぱリーダー、惚れたな」

「間違いない。いつもああだぜ」

「なにごちゃごちゃ言うてんねん。そろそろ出番やで」

「わかってますって」

「いつでもOKっす」

 リーダーは立ち上がった。

「ほな、ドグ・ラ・マ・グラ、行くでぇ」

「うぃっす」

「あいよぉ」

 メンバーも立ち上がり、リーダーに続いて出て行った。ベースは弦の調子を見ていたので、一人残った。そのまま調子をとり続け、ようやく納得して立ち上がった。ベースは急ぐでもなく悠々と出て行き、控え室には誰もいなくなった。


「やっぱり逃がしてこようぜ」

 ヤンが提案した。

「だめ。学園祭までは、見守っていてもらうの」

 アリサは頑固に主張した。

「だってあねさん、未だにイモちゃんに餌もやれないじゃないかよ」

 イモちゃんの餌のミールワームを生物部に分けてもらったのはいいが、アリサはその芋虫を割り箸で掴むことが出来ず(だって、動くんですもの)、度胸を買われて、ヤンがずっと餌やりを任されているのだ。ヤンだとて、好きでやっているわけではない。実はかなり嫌なのだ。放流を提案してくるのも無理はない。しかし、今日はアリサも退くだけではない。

「ふっふっふ」

「おや、何だい、その笑いは」

 クレハが言うと、アリサは鞄の中から、30センチはあろうかという箸を取り出した。

「じゃーん」

「それ、中国のお箸ですね」

 フーが言った。

「大当たり。これだけの長さがあれば、いかに私でも、イモちゃんのご飯をつまめると思うのだ」

 得意そうに言うアリサに、クレハは懐疑の目を向けた。

「あんた、そのためだけにそんなものを買ってきたわけ?」

「駄目だと思うぜ、姉御前」

 ヤンも否定的である。エリカも批判的な目を向けている。

「ふん、見ていなさい!」

 アリサは言い放ち、言葉の勢いとは裏腹に、箱のふたをおそるおそる開け(ふたの後ろに貼り付いてたらどうすんのよ)、箸の先をおそるおそるおがくずの中に突っ込んだ。おがくずの山が、ぴくぴくと動く。

「ひっ」

 既にアリサは蒼白である。見守る4人はやはり、というように頷いたり、溜息をついたりしている。

「むっむっむ」

 アリサは眼を瞑って実体を探り当てた。それを挟み、そっと持ち上げた。

「おお」

 4人の見守る中、芋虫君はイモちゃんの水槽に近づいていった。その時、芋虫君が苦しかったらしく、グルンと動いたのである。

「ひっ、ひぃー」

 アリサは箸を投げ出した。自治会室は阿鼻叫喚の坩堝と化した。

「きゃあ!」

「いやあ!」

「馬鹿アリサ!」

「だから言ったじゃんかよ」

 ヤンが溜息をつきながら、床に落ちて、必死で逃げようとする芋虫を割り箸で摘み上げてイモちゃんの水槽に落とし込んだ。ご飯の気配を察して、イモちゃんが嬉しそうに近寄ってきた。

「あねさん、あんた動くのが嫌だって言ってたじゃねえか。2メートルの箸を使ったって、動きは伝わってくるだろ。箸ってのは、それを感じ取れるように出来てんだからさ」

「まったく、破滅するなら一人で破滅しろよ。こっちまで巻き込むなっていうの」

 クレハも息が荒い。

「うう...大丈夫だと思ったのに...」

 アリサはかなり落ち込んでいた。まだ指先に感触が残っているらしく、指をこすり合わせて感触を落とそうとしている。フーが提案した。

「東洋のカトラリーは繊細な料理を味わうように出来ていますからね。西洋のものなら大丈夫じゃないでしょうか」

「西洋のって、スプーンとか?」

「フォークとか、ナイフとかですね。あれなら、感触は伝わってきませんよ」

「フォークで芋虫を...」

「ああ、大丈夫か、姉御!」

 崩れ落ちるアリサを、ヤンが慌てて支えに走った。

「駄目に決まってんじゃないのよ。余計キモチ悪いわ」

 クレハが溜息をついた。エリカも心配そうに言った。

「アリサさん、失神癖がついちゃったみたいですね」


 ここは喫茶店「ハルモニア」。報われない立ちんぼを続けた結果、ようやくエリカの空き時間をつかんで、久しぶりに、イガはエリカと会うことが出来た。エリカはイガの前ですっかりくつろいでいる。

「アドバルーンは一週間前からあげるんだってさ」

「ほう。結局上げることになったのか」

「地元の業者の人が、採算度外視で協力してくれることになってさ。いよいよ、アリサさんが大車輪で動いてるよ。こっちもしばらく本当に忙しかったからね。こんな風にゆったりするのって、なんか、すごく久しぶりな感じだよ」

「そんなにきついのかね。まあ、ここしばらく会うことが出来ても、ちょっと立ち話をして、すぐに用事があるって、かさかさっと消えていってしまう感じだからねえ」

「何よ、そのかさかさ、ってのは」

「見つけた途端に足早に消え去る、ある種の昆虫の足音のイメージだね」

 エリカは剣呑な目をしてイガを睨みつけたが、すぐにまた表情を和らげた。

「まあ、いいか。きついってのとは少し違うな。やることがあって、生活がみっしりと詰まっている感じ。大学生活で、こんな感じの充実感があるとは思わなかった。中学校や高校に比べても、自由な時間がはるかに多かったから」

「実家を離れてるせいもあるんだろうな。一日全部が自分だけの時間だからね」

「しかも、働かなくちゃいけないわけでもないから、本当に自分の好きなように使える時間だね」

「確かに、今だけだな、そんなのは」

「考えて見れば、夢のような時間だね。小学校の夏休みがずっと続くような感じ。宿題だけするならそれでもいいし、ものすごい自由研究をしてもいい。自分のやりたいことに熱中して、昼も夜も忘れてもいいんだ」

「そうだな。本当に、その通りだ」

 エリカは、少し黙った。黙って目の前の紅茶のカップを見つめている。いや、そこから立ち上る湯気を見つめている。イガはコーヒーをごくりと飲んだ。まだ熱いコーヒーが、喉を焼いて腹の中に滑り込んでいく。

「イガさんのおかげ、かな」

 エリカは独り言のように言った。

「その通りだよ。ようやく気がついたかね、エリカ君」

 イガは姿勢を正して言って、またすぐに背もたれにもたれ込んだ。

「そんなわけないだろ。あんたにやる気がなけりゃ、これほど熱中は出来なかったんじゃないか?あんた自身の手柄だよ。まあ、まだ3合目くらいだからな。本当に大変になるのはこれからだろ。頑張ることだね」

 エリカは紅茶のカップを両手で包むようにして持ち上げ、頷いた。紅茶をひと口飲み、唇から離して、そのまま紅茶の表を見つめた。

「でも、もう半分近くは過ぎちゃったんだよ。夏休みの間は、こっちでやることはあまりないんだし...」

「休みの間に、鋭気を養っておくんだね。休み明けからはほんとに大変だと思うぞ」

 エリカはカップに口を寄せ、もうひと口、ついばむように啜った。エリカはピンクの口紅をひいている。そこがやけに目に付いて、イガは少しどぎまぎした。

「でもさ」

 エリカは言って、紅茶のカップをゆるゆると下におろした。

「なに?」

「夏休みがそれほど楽しみでないのは、生まれて初めてだよ。もっとこっちでみんなと仕事をしてたいな、なんて思うんだ」

「それが一番いい学校生活だろ。それに、実家に帰ると俺に会えなくなるからってのもあるんじゃない?」

 エリカは顔を上げて、真正面からイガの顔を見た。イガはどきんとした。エリカは人を見るとき、人に食いつくような目をするのだ。でも、きょうの目は、少し気弱なような気がした。

「それはない」

 言葉がきついのに、それほどぐさりと来ないのは、いつの間にかエリカの言葉から、完全な拒絶がなくなったからだ。イガは嬉しくなって、つい突っ込んでしまった。

「本当にそう?」

「心の底から、そう思う」

「あ、そう」

 そこまで受け入れてくれる気はないらしい。しかし、イガは楽しくて、エリカの表情を読み取り切れなかった。エリカは短大生であり、残された学生生活は、あと半年余りなのだ。エリカはこの時に、胸をえぐられるほどの寂しさを感じ、そしてイガに憎しみすら覚えたのだ。あと数年はこの生活を続けられるということで。いずれ、どちらも同じ境遇になるとはいえ、学生の間の1年はものすごく長く感じられる。エリカにしてみれば、イガはもう永遠に近い時間、大学の友人たちと時間を共有していけるのだ。エリカは、初めて大学生活をかけがえのないものと認識したのだ。

「ところでエリカさん、時間は大丈夫?」

 イガはそんなエリカの思いに気付かず、いつもすぐに帰りたがるエリカに合わせている癖が出てしまった。エリカはイガをちらりと見て、呟くように言った。

「まだ、大丈夫。今は」

「そりゃよかった。きょうはゆっくりと身体を休めることだね」

 イガはエリカと共有できる時間を存分に楽しんでいたが、エリカはちりちりするような焦燥を感じていた。炎をあげずに燃えていく紙のように、それはエリカの全身を焦がしていっていた。店を出るとき、エリカはバッグを忘れたのに気付き、戻ろうとした。その肩にイガの手が優しく乗ってエリカを押さえた。

「これだろ」

 イガに手渡されたバッグを持って、エリカはしばらくぼうっとしていた。その間にイガは会計をしてしまい、エリカに言った。

「きょうは奢りね。はじめて奢らせてもらったぜ」

「あ、ああ」

 エリカは、まだぐずぐずしていたが、イガが不審そうな顔をして、出口で待っているので、しかたなくのろのろと歩き出した。エリカは、イガに背中を押してもらいたかったのだ。さっき、イガの手が肩に触れたとき、エリカを焦がしていた焦燥が、嘘のように消えた。イガの手の重みは、心地よかったのだ。もっと、ずっと触れていたいと思いながら、エリカはそれを言えなかった。イガはもちろん気付いていない。エリカはもう一度、イガに烈しい憎しみを感じた。自分でも、理不尽だということはわかっているのだが、どうしようもなかった。エリカは黙って、イガに続いてハルモニアを出て行った。



 職員会議で、学生が最近、学園祭の影響を受けて、変わってきていることが話題に上った。

「最近、学生がかなり専門的なことを聞きに来るんですよ」

「うちもそうです。学園祭の研究展示らしいんですが、それだけで卒業論文として認められるようなレベルでね」

「こちらもうかうかしてられませんね」

「私も最近、アメリカの研究誌をとり始めましたよ。最新の情報が欲しくてね」

「負うた子に教えられ、ですかね」

「いや、まったくです」

 教頭も頷きながら聞いている。教頭のところにも、連日実行委員や経営研究会が来て、いろいろ質問していくのだ。教頭の立場になり、しばらく忘れていた、知識を伝達する喜びを、再び感じることになり、大いに触発されているのだ。


 夏休み前に、イベントの全体像は決まった。あとは、各チームに内容を充実させてもらえばよい。実行委員は一息ついた。自治会室で、夏休み中の段取りを再確認していたクレハが聞いた。

「そうだ。イモちゃんは?夏休みの間はどうするの?」

「生物研究会のボスが預かってくれるって。地元だから」

 アリサが答え、水槽に向かって話しかけた。

「しばらくお別れね、イモちゃん」

 声をかけると、ピシャンと水音がした。イモちゃんが跳ねたのだ。

「おお、コミュニケーションできている...」

 ヤンが感動し、アリサを振り返ると、アリサは蒼ざめて、壁に手をついて荒い息をしていた。クレハが突っ込んだ。

「おーい、ぜんぜん駄目じゃないか」

「いや、イモちゃんに理解されたと思ったら、ちょっと...」

「無理もないですね...」

 フーが腕組みをして頷いた。


 夏休みには、エリカはしばらく帰省した。元々この期間は何も出来ないだろうという予測もされていたので、委員会も休みの始めと終わりに集まるだけである。エリカは、夏の間、アユミやイガ、ムサシを招待して、近くの海で海水浴をした。今まで友人など呼んだことがなかったので、両親は驚いたが、とても喜んで皆をもてなした。エリカ自身にとっても、自分が信じられないような行動だったが、とても楽しかったのは事実である。

「あんた、気づくのが遅いんだよ」

 アユミからはぼろくそに言われたが、エリカは十分に満足していた。休みが明けたら、いよいよ学園祭準備の本番である。そして学園祭が終わったら...

「学園祭が終わったら」

 エリカはそれ以上考えたくなかった。今はまだ、モラトリアム。就職活動もそろそろ始まる。すぐに、モラトリアムの時間は終わる。エリカは、なぜか先のことを考えるのがとてもつらくなってきていた。

「ぼくの 見る夢は 秘密だよ 誰にも言えない 秘密だよ...」


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