微量毒素

白の魔歌 〜大学祭〜 p.16


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★ 学園祭、初日

 早朝。朝日が出る前の、まだ暗い時間の朝靄の中、車が停まっている。車の中で、ノダが渦巻くように流れていく朝靄を眺めている。となりに座っている男に言うともなく、ノダは呟く。

「ついに、今日という日がきてしまいましたわ。」

「いい天気になるな。」

「ねえ、何で車を駐車場に持ってかないのよ。入れておけばいいでしょ。」

「学園祭に来る、お客さんに使ってもらうさ。俺は戻って、バスで来る。」

「このやろ...」

 ノダは、思わず胸がいっぱいになり、運転席の男ににじり寄って、顔を引き寄せようとする。が、男はその手を握って、言った。

「ちょい待ち。ほら...」

 男は顎をしゃくる。朝靄の中からシルエットが近づいてくる。靄が割れ、エリカが現われた。黒いミニに黄色いシャツ。黒いデニムジャケットを羽織っている。いつもと変わらないいでたちである。

「おはようございます、ノダさん。」

「はよっ、と。ずいぶん早いね。」

 エリカは微笑んで、言った。

「皆さん、もう、いらしてますよ。ノダさんをお待ちしてます。」

 ノダは、嬉しそうに溜息をついた。

「これだよ...あんた、あたしは行くわさ。ありがとう。」

 ノダは運転席に身体を伸ばし、キスをする。エリカはどぎまぎしている。ノダは助手席のドアを開け、車から降りた。膝が隠れるくらいの丈の深い若草色のスカートに、枯れ草色のブラウス。上に臙脂のジャケットを羽織っている。初めて見るノダの女らしい装いを、エリカも眩しそうに見た。ノダは後ろの席から大きなバッグを引っ張り出し、ずさっと肩にかけた。これでもフェミニンさを失わないのは、人徳というやつだろうか。

「楽しむんだぜ、マリン。」

 男は声をかけた。

「ここを先途と、楽しみまくったるわ。ちゃんとおいでよ。」

 男は片手を上げた。ノダは車から離れ、エリカと一緒に朝靄の中を進んだ。車はゆっくりと回頭し、朝靄の中に消えて行った。朝日が射し、朝靄が払われていく。校門の中で、実行委員のみんなが待っていた。


 一通り学園内を見回り、細かいところを掃除したり、飾り付けを直したりしているうちに、あっという間に7時を過ぎた。そろそろ一般の学生や職員も来始めている。クレハが言った。

「やっぱり、例年より出足が早いわね」

「感心、感心」

「あ、学園長だわ。よくこの時間に来たわね」

「年よりは朝が早いって言うから」

「アリサ、自重しなさい」

「失礼しました」

 アリサとクレハは学園長の方に歩み寄った。

「おはようございます、学園長」

「きょうも早くから来ていたんだね」

「きょうは学園祭本番ですから」

「ご苦労様。と言っても、大変なのはこれからかな」

「そうですね。間違いのないように、目を光らせていますわ」

「まあ、そんなに無理をしないで。教職員も全員来ているから、何かあったら声をかけるんだよ。遠慮などしないで」

「起こさないように努めますが、万一手に余るような事態が起こったら、すぐに連絡します。ご迷惑をおかけすることになりますが...」

「迷惑なんかじゃないですよ。同じ学園の人間なんだからね。それじゃあ、よろしく頼みますよ」

「ずっとお部屋にいらっしゃらないで、よく見て回ってくださいね。みんな、一生懸命やってきましたから」

「存じていますよ。じゃあ、また後で」

 学園長は会釈をして、教職員棟の方へ向かった。アリサとクレハは深くお辞儀をして見送った。顔を上げると、クレハが言った。

「そろそろ、教職員の方々がいらっしゃるわね。アリサ、ここで待機よ。」

「見回りも問題なかったし、後はみんなに任せて大丈夫ね。手の空いたメンバーがいたら、ここに集めて、9時までは皆を迎えましょう。エリカ、エリカ!」

 ちょうど通りかかったエリカを呼び止め、伝言を任せた。エリカは張り切って、回りを見回しながら歩いて行った。エリカを見送りながら、アリサは言った。

「それにしても、学園長は早かったわね。もう少しでご挨拶できないとこだったわ。やっぱり、お年を召していらっしゃるから...」

「アリサ、言葉を丁寧にしても、失礼なのは一緒よ。ばかねえ、学園長は心配でしょうがないのよ。今回の学園祭は、本当に学生の好きなようにやらせてもらってるんだから。せめて、早めにバカな学生の尻拭いをできるように、早くいらしてるのよ、お気の毒に」

「違いない。ほんとうに、有難いことだわ。クレハ、もうひとふんばりよ。絶対に、成功させるんだからね」

「当たり前よ。頑張るしかないわね」


 二人が話していると、教頭が守衛所に来て、何かを話している。頷いてこちらに歩き始め、アリサとクレハに気付き、しゅたっと片手を上げた。アリサは思わず片手を上げそうになるが、横で深々とお辞儀を始めたクレハに気付き、慌てて頭を下げる。

「ごくろうさま。いよいよ、始まるね」

「おはようございます。ええ、いよいよ始まりです」

「いろいろ気を揉ませられたけど、よくここまで漕ぎつけたね。きょうは学校中を回るのを楽しみにしてるから」

「ありがとうございます。本当にお楽しみください。それが一番嬉しいです」

「そう言えば、学園長はもう先ほどいらっしゃいました。一緒に見て回って下さいね」

「もう来てるのか、学園長」

 教頭は驚いたようだった。

「たぶん、心配していただいているんだと思います。今回の学園祭は、ずいぶんと学生のわがままを聞いていただいていますから」

「そうだね。でも、あの人は心配はしていないと思うよ」

 教頭はそう言ってウインクした。あまりに見事なウインクだったため、アリサとクレハは言葉が出なかった。

「あの人は誰よりも君たちを買っている。言うまでもないだろうが、その期待を裏切らないようにお願いするよ」

 アリサとクレハは、返す言葉を思いつかず、深々と頭を下げた。二人が顔を上げると、教頭は頷いて、せかせかと振り返った。

「じゃ、頑張ってくれ」

 教頭は二人の方を向き、しゅたっと片手を上げた。今度はアリサもしゅたっと手を上げてしまった。クレハはアリサを睨んだが、教頭はにやっと笑って、そのまま教職員棟の方へせかせかと歩いていった。

「アリサ...」

「いいのよ、クレハ。でも、意外だわ。教頭は一番頑固に反対していたからね」

「そうね...」

 クレハはしばらく視線を泳がせていたが、顔を伏せて言った。

「いちばん、心配してくれてたってことなんじゃない?」

「うん」

 アリサは力強く頷いた。そして、勢いよくクレハのほうを向いた。

「でも、びっくりしたよね」

 クレハも顔を上げた。

「ええ、あれ」

「あの、ウインク!」

 二人は同時に言って笑い出した。しばらく笑いあって、顔を見合わせた。クレハが言った。

「ほんと、完璧だったわね。今までたくさんの男の子を見てきたけど、あんなに完璧なウインクが出来る奴なんていなかったわよ」

「私、ぞくっと来ちゃったよ。あれで、若い頃はけっこうブイブイ言わせてたのかもね」

 二人はまた笑い出した。笑い続けているところに、エリカとヤンが歩いてきた。

「みんな、そろそろ来るそうです。何を笑ってるんです?」

「ああ、あのね、今いい男を見かけたんで、そのことで盛り上がってたのよ」

「生きてる時代がずれてなければ、惚れちゃったかも。ブイブイで」

 二人はまた笑い出した。ヤンは呆れたように二人を眺めていた。エリカも毒気を抜かれていたが、気を取り直して、持っている包みを示した。

「差し入れです。朝ご飯に食べてくださいって。お握りを、ノダさんからです」


 実行委員たちは、入り口の近くで来る者を迎えながら、入れ替わり、腹ごしらえをした。立っているバラの繁みの後ろにベンチがあり、そこでおにぎりを食べたのだ。フーもサンドイッチに紅茶を持ってきており、みんなで賞味した。8時半ころから入ってくる人間の数は格段に増え、学園の中の方も活気を呈してきていた。

「そろそろ始まりね」

 クレハが言う。アリサが空を見上げて言った。

「バルーンは?」

「ヤンとエリカが行ってる。もうそろそろ揚がるんじゃないかな」

「あっ、ほら」

 フーが声をあげた。ずっと屋上の方を見ていたのだ。紅白のバルーンが揚がり始めた。その下に、「宮木学園祭」の文字の入った、垂れ幕がつながっている。

「よおし」

 よく晴れた空。雨を心配したが、きょうはよく晴れた。その空に紅白のアドバルーンは高く上がっている。いよいよ、時は訪れたのだ。


 ヤンとエリカが戻ってきたのを確認して、アリサはみんなを見回した。

「じゃあ、そろそろ戦闘態勢よ。打合せどおり、私とクレハのどちらかは、必ず自治会室にいます。みんなは常に学園内をパトロールしていて。もちろん、用事があれば抜けても構わないし、男が来たらそっちを優先していいわ。ただし、必ず私かクレハに連絡してね。みんなが男と一緒にどこかに行っちゃったら困るから」

 笑いが起きる。ヤンが言った。

「俺は男がいないから、俺でもいい。言ってくれれば、お二方に伝える」

「私でもいいです」

 エリカが言うと、アリサが押し留めた。

「みんながそう言ってると、せっかくの出会いの機会を失っちゃうから、それはいいわ。私とクレハだけで。ヤン、いい男を見つける最後のチャンスなんだからね」

「そんな気はないって言ってるのに...」

「いいから男をお探し。それがあんたの第一職務よ」

「そんな無茶な...」

「私も男探しですか?」

 エリカが張り切って言った。アリサは首を傾げて、エリカを見た。

「エリカは...イガさんが来たら、エスコートしなさい。それまでは受付勤務に付き合うこと。イガさんを使って、あそこの学校の人間を盛り上げてちょうだい。これがあなたの第一職務。いいわね」

 不満そうな顔のエリカを無視して、アリサは続けた。

「もうすぐ9時になる。みんな、最後にぐるっと回って、問題が起きてないか確認しておいて。そして、そのままパトロールに入る。30分毎くらいに、自治会室に電話を入れてちょうだい。神経を張りつめている必要はないけど、細かい気を使って、不自由そうなところを見つけたら対応して。個別で手に負えなければ、自治会室へ連絡すること。いいわね?」

 アリサは全員を見回した。みな頷いている。

「それでは、散ってください。私は放送室に行って、その後自治会室に詰めます」

 みんなはバラッと散り、思い思いの方向に向かった。ぶすくれているエリカに笑顔を投げ、アリサは放送室に向かった。


「宮木学園のみなさん、おはようございます。本日はお天気にも恵まれ、とてもいい日になりそうです。暑くなるかもしれませんから、屋外企画の方々は注意してください。それでは、宮木学園 学園祭の開会をここに宣言します。みなさん、よろしくお願いします」

 学園中にアリサの声が響き渡った。校門の前では、既に9時の入場を待ちかねている来訪者が集まっていた。アリサの放送を受けて、校門が大きく開かれた。いよいよ、学園祭の幕が切って落とされたのである。その最初の来訪者の中に、イガとムサシの姿もあったので、エリカはそれほど受付勤務を手伝っている暇はなかった。

「おはよう、エリカさん」

「イガさん!おはよう!」

 イガは嬉しそうにエリカに言った。

「なんか、エリカさん、俺に会えて嬉しそうじゃない」

「うん、イガさんが来たら受付をやめてもいいって言われてるんだ。早く来てくれてよかったよ」

 イガは少し落ち込んだようだった。

「ああ、そう。そっちで嬉しいのね...」

「いや、それだけじゃない。来てくれて嬉しいよ」

 にやけるイガとは別に、ムサシは冷静に聞いてきた。

「イガが来たら受付をやめてもいいって?委員長のお言葉かな?何かありそうだね、その後に」

「ああ、イガさんたちの大学のメンバーが来たら、盛り上げるのを手伝ってもらえって。よろしくね、イガさん」

「俺は宴会要員かい...」

「ぴったりじゃないか、頑張れよ」

 ムサシは言いながら、委員会のメンバーも、何かと理由をつけて、イガとエリカの仲をとりもとうとしているのを知った。ムサシは、夏にルカが言った言葉を思い出していた。

(まったく、どうしてここから進まないんだろう。機は熟しているし、お互いの気持ちも十分に盛り上がっているように見えるのに)

 何か、障害になるものがあるのなら、この学園祭でそれがなくなるのを願いつつ、ムサシはエリカとイガの後をついて、校内に入っていった。


「パンフがなくなりそうなんです、まだ午前中なのに」

 受付から泣きそうな声で第一報が入ってきたのは、10時30分過ぎだった。始まりのごたごたが収まって、ほっとして差し入れのビスケットをつまんでいるときだった。部屋にはアリサとクレハ、それにフーが居た。フーはその受付から入場者数を記入したシートを持ってきて。ついでに入力しているところだった。受付の後ろに入場者をカウントするメンバーがいて、10分毎にその時点の入場者数をシートに転記している。2名でカウントし、大きなカウントの間違いが起こらないようにしているのだ。

「おかしいですね。」

 フーは顎の先をつまみ、入力したばかりのデータを眺めながら言った。

「現時点の入場者数は、去年より大幅に増えているとはいえ、こちらの想定した入場者数との乖離はそう大きくありません。パンフレットは、10時に持っていくことになっていますが、不足が出るとは考えられません」

「もうちょっと、わかりやすく言いなさい。出足はいいけど、まあまあの線だから、段取り通りなら足りてるはずだってことね。だったら話は簡単だわ。段取りが狂ってるのよ。フー、次に運ぶ分のパンフを受付に運んでおいて。10時に持って来る分が来てないってことね」

 アリサは倉庫に使っている教室に電話をかけた。倉庫の当番の話だと、パンフ便は10時には予定通り出ているとのことである。それでは、それがどこかで止まっているのだ。フーが向かうので、次の分を渡して欲しい旨を伝え、アリサは電話を切った。

「フー、お願いね。たぶん、運ぶ途中に前の便の分が見つかると思うんだけど、対応をよろしく」

「ラジャ」

 フーは大またに出て行った。クレハが言った。

「まあ、順調ね。そろそろ、何か起きると思ったけど、その通りだし」

「起きると思うと、起きちゃうのよ。いいこと?思っちゃ駄目よ、思っちゃ」

「はいはい」

 クレハは笑った。


ほどなく、フーから連絡が入った。前の便の台車は、トイレの近くに置いてあったそうだ。追跡調査をしてみると、トイレの中で気分が悪くなった女性が居り、運搬担当者がその人を救護室に連れて行ったためとわかった。すでに次の便を届けていたので、前の便の分は倉庫に戻して、一件落着したとのことである。

「オッケー!」

 アリサは言って電話を切った。

「悪くない顛末だわ。次の定期連絡の時に、みんなにここに来るようにいいましょう。そろそろお茶して、リラックスしないと。そうそう、起こりそうな悪いことは、一切考えないように言っておかないとね。」

 クレハは笑って言った。

「マーフィーの法則の逆用ね。ええ、そうしましょう」


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