微量毒素

白の魔歌 〜大学祭〜 p.19

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★ 祭りの支度

 クレハは時計を見た。そろそろ5時を過ぎようとしている。つかの間のデートを終え、男を後夜祭まで待たせて、クレハはパトロールに戻っていた。アンコールを何回も繰り返して、予定を1時間以上オーバーして、ようやくドグ・ラ・マ・グラのコンサートが終わった後、しばらくは講堂前に人が集まって混雑していたが、それもようやく解消し、そろそろ祭りの終わりが見えてきた。

「おおむね、山は越したな」

 家族連れはほとんど帰宅の途についた。残っているのは学生たちがほとんどである。元気よく歩いているヤンを見つけて、教室企画の各サークルへの連絡を頼んだ。そろそろ後夜祭の支度に入るようにという連絡である。ヤンは受けて、元気よく校舎に向かった。

「なんか、すごく元気なんだよな、ヤン」

 クレハは呟いた。フーはこれまでのアンケートを持っていって、集計をしている真っ最中のはずである。

「アリサはどうしてるかな」

 たぶん、フーを手伝って、アンケート入力をしているのだろう。クレハは屋外企画のサークルに、後夜祭準備の連絡をするために歩き出した。途中でフーとすれ違う。

「集計、終わりましたよ」

「ご苦労さん。アリサは?」

「自治会室でっす」

「そう。そろそろ後夜祭の準備に入るから。教室企画のサークルへの連絡は、ヤンに頼んだ。私はこれから、屋外企画のサークルに連絡して回るから」

「私がやりますよ、それ。アリサさんのところに行ってください。ドグ・ラ・マ・グラが何か言ってきてて、アリサさん、思案してましたから」

「あら、そう。わかった。行ってみる」

 クレハは首を傾げた。何か揉めてるのかしら。時間がオーバーしたから、余分にギャラよこせとか。それはないわね、けさの感触なら。でも、揉め事なら、アリサは困らないだろうし。ま、ちょっと見てくるか。クレハはフーに手を振り、自治会室に向かった。


「ま、ちょっとは驚いたわよね、この私でも」

 アリサは言った。クレハも椅子にだらしなく凭れて、腕を組んでいた。

「確かにね。前代未聞の要求じゃないのかしら、こういうのって。逆出演依頼って言うのかしら。契約外で後夜祭に出演させろっていうのは」

 クレハの言葉を聞きながら、アリサはイモちゃんを見つめていた。イモちゃんは水の中で身を翻す。赤い、アーティスティックな模様が一瞬見える。

「しかも、音響さんも残ってボランティアで手伝ってくれるなんてね。」

「私が思うに、あの人たちもお馬鹿なんじゃないかしら」

「それは、他人を信じすぎてるんじゃないかね」

 アリサは大きな目を見開いて、クレハを見つめた。クレハはアリサのこんな様子が苦手である。この目があるから、いつまでもアリサと離れられないのだ。アリサがこの目をするのは、滅多に表に出てこない本音が紡ぎ出される時なのだ。

「私は信じる。他人を。何度裏切られたって」

 クレハは両手を上げて、降参のポーズをとった。

「ああ、わかった。私だって、ドグさんたちがお馬鹿だと思うのに吝(やぶさ)かじゃないわよ。なにせ、後夜祭に参加したって、どう考えてもほとんどメリットはないからね。契約もないし」

「ドグさんたちもそうだし、今度の学園祭を進めていきながら、とっても大勢のおばかさんたちに会うことができたわ」

 アリサは歌うように言った。

「違いない。自分たちを筆頭としてだよな」

「私はそんなおばかさんたちと会いたくて、こんなに頑張ってるんじゃないかと思うのよ」

 クレハは何も答えない。

「こんな、おばかさんたちが大勢いるところは、きっととても住みやすいところになるでしょう。わざわざ天上の国まで行かなくても、大勢の人が楽しく、活き活きと生きていけるところに」

 クレハは同意のしるしに大きく頷いて見せた。そして、わざとそっけなく言った。

「そしたら、天にまします我らが神様は怒るだろうねえ。天国に閑古鳥が鳴いてさ」

「いいえ。神はきっとそう言っているのよ。天上ではなく、地上に楽園を創れと。ひとが自らの手で、楽園を創れと。それがきっと、あの方の考えていることではないのかしら」

 クレハは立ち上がった。

「あんたって、そんなに信心深かったか?何かに与えられたものをそのまま受け入れてしまうのは、私から見るとどうかと思うけどねえ」

 アリサはクレハに顔を向けて微笑んだ。その笑みは、クレハが総毛立つほど、イノセントで、聖的な何かに満ちていた。

「もちろん、私は与えられたものなんて受け入れる気はないわ。私がするのは、私がしたいことに理屈をつけて正当化したいだけ。でも今は、私は神様を信じている。私の回りの全ての人間を愛することができる考えを吹き込んでくれた、この神様を。クレハ、あなただってわかってるんでしょ?」

「いんや。私はまだ、俗世への未練が山ほどあるし、男と番(つが)うのも好きだしね」

「男と番うのも、神の祝福よ」

 クレハは少し考えて、言った。

「違いない。産めよ、増やせよ、地に満てよ、か」

「それだけじゃない。人間は何をやってもいいのよ。それでも、神は人間を慈しんでいる。それが、今現在の、私の啓示だから」

 クレハは不安になって言った。

「おいおい、あちら側に行っちまうなよ」

 アリサは笑みを深めた。

「大丈夫。これは私だけが感じていることだから。ほかの誰にも言えない、私の内宇宙の言葉だから。あなただから話すのよ、クレハ。あなたなら理解してくれるから」

 アリサは口を閉じた。クレハも何も言わない。しばらく経って、電話が鳴った。クレハが機敏に受話器を取った。

「はい、実行委員です。ああ、フー?大丈夫、ドグさんは、ボランティアの後夜祭の演奏を引き受けてくれたのよ。そう。バカだよねえ。うんうん。やっぱり、女子大の夜を経験したかったんじゃない?冗談よ。それで、連絡は...OKね。ありがと。じゃあ、こっちもそろそろ動くわ。うん、本部はアリサに任せる。連絡はここで。じゃあ、後夜祭準備、始めましょう」

 クレハは電話を切った。顔を上げてアリサを見る。

「もう、5時を過ぎた。片付けの段取りはだいたいついたから、これから後夜祭準備に入る。学園祭終了の放送は5時30分だね。それまでに回って段取りしてくるから、留守居を頼む」

 アリサは頷いた。クレハはアリサの肩をぽんと叩いて、大またで歩いて、部屋を出て行った。そろそろ夕闇が迫っている。窓の外はまだ明るさが残っているが、部屋の中は急に暗さを増している。クレハを見送ったアリサが、どんな表情を浮かべているかも定かではなかった。


 ヤンに声をかけられ、仲良しカップルを演じていたエリカは、改めてイガの手を握った。

「ありがと。ずっと付き合ってくれて」

「いやいや、これ以上はないくらいの時間を過ごせたよ」

 エリカは頷いて、イガの元を離れた。エリカは2−3歩歩いて立ち止まり、イガを振り返った。

「イガさんは、後夜祭、出るよね」

 当たり前のことだが、一応確認しておくという様子で聞くのがエリカらしい。

「ああ、もちろん。エリカさんのお相手役として、外すわけにはいかんでしょうが」

「わかった。じゃあ」

 エリカは軽く頷いて言い、そのまま校舎の方に歩み去った。イガは少し納得できないような顔で、エリカを見送った。

「なんか、変な感じ。いつもなら、きつい返しがくるんだけどな」

 首を振りながら、イガはムサシを探しながら、ぶらぶらと歩き去った。


 アリサは、身を投げ出していた机から顔を上げ、時計を見た。時計は17時24分を指している。疲れきったアリサの顔に、翳るような笑顔が浮かんだ。

「そろそろ、おひらきの時間か...」

 アリサは回りを見回した。みんな出払っている。クレハも、後夜祭の準備の最終確認をしているのだろう。自治会室には、アリサ一人しかいなかった。いつも綺麗に片付いている自治会室も、さすがに雑然としている。アリサは立ち上がり、テーブルの上に散乱しているものをまとめ始めた。見る見るうちに、テーブルの上は秩序を取り戻していく。

「そして、みんなは、何事もなかったかのように、いつも通りの暮らしを続けていくのでありました、か...」

 アリサは片付ける手を止めた。しばらく、じっと動かずに、テーブルのそばに立ち尽くしていた。

「うん、大丈夫。ここは泣く場面じゃない。早くここを片付けて、閉会宣言をしに行かないと。みんな、爆発したくてうずうずしてるんだから。」

 アリサは片付けを再開した。テーブルの上を片付けて、ファイルを棚にしまい終え、コンピュータの回りに散乱している資料を片付ける。ふと、画面に目を留めたアリサは、マウスを動かして、実績の入った資料を次々に開き、確認する。部屋の中は次第に暗くなってきており、ディスプレィの光に青白く照らされたアリサの顔が、真剣に資料を確認している。

「オールコレクト。目標は十二分に達成してるわ」

 後ろの方で、小さく水を撥ねる音がした。アリサは振り向いた。

「イモちゃん...?」

 アリサは机の方に向かった。机の上の水槽の中で、イモちゃんが水槽の壁に手をかけて、上ろうとしている。アリサは、横にある小さな箱を開けると、中に米ぬかが入っている。アリサはその中に指を突っ込み、何かを取り出した。アリサの指先で、2センチほどの芋虫が、逃れようと身体を動かしている。アリサは箱のふたを閉め、それを持って、水槽の中に手を入れた。イモちゃんが気配を感じて、指の方に来る。アリサが、イモちゃんの顔に指を近づけると、イモちゃんはアリサの摘んでいる芋虫にかぶりついた。そのまま水の中に芋虫を引っ張り込み、食事を始めたようだ。ようだというのは、部屋の暗さが増して、水槽の中の様子がはっきりと見えないからである。

「イモちゃんも、沼に帰してあげなくちゃね...」

 アリサは呟いた。突然、机の上の資料に水滴が落ちた。続けて落ちる。

「あら、やだ」

 アリサはティッシュをとり、水滴を吸わせた。

「ここは泣く場面じゃないって。あら、それとも泣く場面なのかしら。わかんなくなってきちゃった...」

 アリサは指先もティッシュで拭い、机の上をまとめた。そして、また動きを止める。そして、随分長いこと、アリサの影はそのまま動かなかった。やがて、部屋の外で、騒がしい音が近づいてきた。

「どこにもいやがらねえ。もう6時になるってのに...」

「自治会室に決まってるでしょ」

「だって、電気がついてないんだぜ。ほら」

 足音が止まり、軋むような音と共に、ドアが開いた。

「あ」

 まっ暗な部屋の中で、窓の外の灯りを背景に、誰かが立っている。

「アリサ...?」

 クレハが止めるまもなく、ヤンが電気を点けた。アリサは少し眩しそうに手を翳した。

「何やってんだよ、ボス」

「部屋を片付けていたの」

「この呑気もんが。もうすぐ6時だ。みんな、待ちかねてるぜ」

「ごめんなさい。すぐ行きましょう。」

 クレハは少し気がかりそうにアリサを見た。手を下ろしたアリサの目は力強く輝き、涙の後などどこにもなかった。アリサは二人について行き、出掛けに電気を消した。部屋はまた闇に包まれた。その闇の中で、水が撥ねる音がした。


 アリサは睫毛を伏せ、マイクに向かっている。じっと動かず、何かを祈っているようにも見える。そしてアリサは顔をあげ、深呼吸をして、マイクのスイッチをオンにして喋り出した。

「皆さま、午後6時を持ちまして、大学祭を終了いたします。お出でになられたお客様も、遠いところをありがとうございました。お気をつけてお帰り下さい。
天候にも恵まれましたことを、父なる神に感謝いたしたいと思います。おかげさまで、来客者数も過去最高記録を大幅に更新できましたことを御報告します。すべて、大学祭のため、貴重な時間を費やして準備して下さった皆さんと、学校当局のおかげです。まことにありがとうございました。
皆さまの御尽力に感謝しつつ、ここに宮木学院女子大学の学園祭の終了を宣言します。本当にありがとうございました。」

 スピーカーは沈黙した。しかし、誰もが続く言葉を待っていた。帰ろうとする者もなく、騒ぎ始めるものもいなかった。泣くような沈黙の後、再びアリサの声が空気を震わした。

「...みなさん。私の仲間たち...みんな。」

 張りつめた沈黙。

「...この、くそったれ野郎ども!やったわよ、あたしたちは!みんな、大好き!あたしは...」

 沈黙。抑えた声で、アリサは放送を続けた。

「これから、後夜祭に入ります。お祭りはこれから。皆さん、一晩中、踊り明かしましょう!それから、まだやらなければいけないことのある人たち、最後まで、よろしくお願いします。これで、すべての連絡を終わります...みなさん、楽しんでください。」

 マイクが切れ、放送は終了した。それに呼応するかのように、地響きのように音楽が流れ始めた。ドグ・ラ・マ・グラの「かどっちょの望郷」である。ドグ・ラ・マ・グラは、頼まれた仕事はとっくに終わったのだが、さらなる演奏を申し出たのである。

「徹底的なバカって、好きやねん。若さゆえのバカさってやつ。なんせ、俺らも若いから。」

 30を過ぎなんとするリーダーの言葉に、メンバー一致で参加を決めたのだ。

「参加やから、金はいらへん。でも、そのかし、楽しませてもらうで。」

 ドグ・ラ・マ・グラは、いつもの演奏にさらにアドリブを織り込んで、底なしのパワーをぶちまけ始めた。その音を聞いて、全ての学生や来客が、中央広場に集まり始めた。
全員が広場に食べ物や飲み物を運びだす。


「今の放送、少し不穏当なところがあったようですね。」

 B食堂で、教頭が学園長に言った。きょうは休みで、出勤の必要はなかったのだが、ほとんどの教授たちは学校にきており、B食堂に集まっていた。学園長は首を傾げ、言った。

「そうですか?熱意に溢れた、いい演説だったと思いますよ。学園祭が終わってしまって、あの子の走り回る姿が、明日からは見られなくなると思うと、少し残念ですね。」

「確かにそうですな。」

 一人の教授が言った。それを聞き、教頭が言葉を継いだ。

「そんなわけないでしょうが。学園祭が終わったからって、あの子がおとなしくなるなんて、ねずみ花火に静かにしろっていうようなもんです。また、すぐに新しいことをやりだして、私たちを楽しませてくれますよ。」

「それはそうだ。」

「そうにちがいない。」

「まったく、こんなに疲れる学園祭は初めてですよ。」

「老骨が、かたかたなるほど奔走させられましたからね、先生は。」

「そりゃ、ひどい。」

 B食堂は、暖かい笑いに包まれた。

「さて、そろそろ我々は...」

 学園長が言いかけたその時、ノックの音がした。

「どうぞ。」

 教頭が声をかけると、ドアが開き、エリカが入ってきた。

「ああ、良かった。まだ皆さんがいらっしゃって。アリサさんから頼まれてまいりました。先生たちがB食堂でとぐろを巻いているだろうから、とぐろを解いて帰ってしまう前に、伺うように言われました。」

「どうぞ。」

 学園長が促した。エリカは首をかしげた。

「なんか、雰囲気が若いですね、ここ。ええと、伝言は、老木をくべる火をご用意してございます。さっさとお帰りになったりしないで、教会の前に来てください。踊れる方は、みんなと一緒に踊って、青春を謳歌してください。老木は、火にくべると、よく燃え上がりますから、とのことです。以上、お伝えしました!」

 しばらく沈黙が続いた。エリカは知らん顔をして、外を見ている。外では、もう踊りの輪が広がっている。

「...あの子は、どこまで隙がないんだろう...」

 教頭が湿っぽい口を開いた。

「こちらのことまで考えていたら、身体がいくつあっても足りないだろうに...」

「せっかくですから、言葉どおりに、枯れ木も山の賑わいで、参加させてもらいましょう。」

「まったく、何から何まで型破りですな、あの子は。」

「ほんとうに。あの子は満足できたんだろうか。」

 学園長は、エリカがずっと立っている事に気付いた。

「わかりました。すぐに行きますから、君も行って、楽しんでいてください。」

「それが...」

 エリカは困ったような顔をして言った。

「油断すると、逃げ出されちゃうから、間違いなく拉致してくるように、と言われているので...」


「エリカはうまくやったみたいね。おじ様の一団が教会に向かってるわ。」

 クレハは小さな窓から広場を見下ろして言った。アリサはまだ、放送卓に突っ伏したままだった。クレハはアリサを静かに見守っている。嵌め殺しの窓の外は、音が爆発し、脈動しているが、放送室の中は驚くほどの静けさだった。二人はそのまま動かない。静寂の中で、ずいぶんと長い時間が過ぎてから、アリサは重いものを押し上げるように、ゆっくりと顔をあげた。

「おめでとう、アリサ。」

 アリサはゆるゆるとクレハに顔を向けた。

「あなたにも。ありがと...」

「あんたはやったよ。ここまでやらなくても、って言うくらい、よくやったよ...」

 アリサは、ゆっくりと首を振った。

「いいえ。私たちが、やったの。それがいちばん、うれしいのよ...」

「そうね。あたしたちがみんなでやったのよ。どう?あの混沌の中に呑み込まれに行きましょうよ。」

「ええ。でも、ちょっとだけ待って...もう、ほんの少しだけ。もうちょっとだけ、あなたとここにいたいの。」

「いいよ。男は焦らせたほうが喜びも大きいからね。もう少しだけ、待ってあげよう。そしたら、行くんだよ。あの宴会を、乗っ取りにいかなきゃならないからね。いいね?」

 アリサは素直にこくんと頷いた。二人は小さな窓から、外の光と動きを眺めた。そこは、掛け値なしの喜びに満ちていた。どんどんと放送室のドアを叩く音がした。二人は顔を見合わせた。バンとドアが開き、ノダが顔を出した。

「ああ、いたいた。なにやってんだよ。早く行くぞ。今なら男もより取り見取りだぜ。」

 アリサとクレハは、顔を見合わせ、微笑んだ。クレハが言った。

「ほんじゃ、一発どばーっと。」

「行ってしまいまひょか。」

 アリサが答えて、二人は立ち上がった。ノダに抱かれるようにして、二人は連れ出された。またドアがパンと閉じ、再び放送室の中は沈黙と静けさに包まれた。しかし、小さな窓から入る光の乱舞は尽きることなく、放送室の壁や天井に、複雑な模様を描き出していた。


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