微量毒素

白の魔歌 〜大学祭〜 p.20

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★ 祭りの中で

 人の溢れる混乱の中で、フーはあの男と再会できた。フーと話がしたいと言っていた、あの背の低い男である。どういう加減か、混乱の中でフーが見たその視線の先に、その男がいたのである。男もフーを見ていた。フーは躊躇いなく、男に向かって歩き出していた。フーが近づくと、男は耳を指差して、フーの手を取った。フーは、心臓がどくんとするのを、新鮮な思いで受け止めた。不整脈じゃないわよね、これ。フーは男に手を引かれて、踊りの輪の外側に出た。

 植え込みのそばに来て、男は手を離した。フーは何かなくしたような気分になると同時に、ほっとした。男は腕を組み、フーを眺めた。フーは言った。

「見つけられて良かった。私も話がしたいの」

 男は首を傾げた。

「ボーイフレンドは?」

「ふった。あいつ、あなたのことをちびだって」

 男は驚いたように腕を解いた。

「俺はちびだよ。事実だ。そんなことで彼と喧嘩したんなら、君が彼に謝るべきだ」

「何よ、それ」

「彼は君をとられるかもしれないと思ったから、そんなことを言ったんだろう。そんなことでふったら、彼がかわいそうだ」

「あんた、けんか売ってんの?」

「いや、彼のことだけじゃない。君が同情で俺に会いにきたのなら、俺も面白くないってことだ。彼の失策で俺が選ばれるんじゃ、面白くない」

 フーはこの男のプライドの高さと、その高さを表に出してみせる率直さに好感を持った。

「同情じゃない。同情なら、彼を連れてきて謝らせるよ。ふったのは、たとえ牽制でも、そういうことを言う彼が嫌になったから。ここに来たのは、あなたと話をしてみたかっただけ。それ以上じゃないよ。これでいい?」

 男は頷いた。

「それ以上を期待するほどうぬぼれちゃあいないが、嬉しいね」

「じゃあ、話が出来るかな」

「OK。でも、その前に踊らないか。せっかくの演奏だ。こんなに心臓が騒がせられることなんて、そうそうないだろう」

「私が、あんたと?」

 フーは立ち上がる。男も立ち上がる。男はフーの肩のあたりまでしかない。見おろすフー。にやりと笑う男。フーも、ドグ・ラ・マ・グラの「衒楽始終奏」の響きが身体の中を飛び跳ねだすのを感じた。フーはこくんと頷いた。

「踊ろう。エスコートしてよ」

「もちろん、そうさせていただく。嬉しいね、あなたにエスコートを頼まれるとは。今まで会った中で、最高にいい女だからねえ」

「その割に、突っ張ってたじゃない」

「下手に出てうまくいっても、その先がつまんないからな」

「それくらいなら、うまくいかないほうがいいって?」

 男はフーの手を取った。低音で響き渡るリフよりも激しく、フーの心臓が脈打った。やっぱり、これは不整脈じゃないわ。男は言った。

「踊っていただけますか?」

「喜んで」

 フーは男の手を握り返す。男はにやりと笑い、フーを引っ張った。フーは脈打ち始める身のうちを抑えることもできないまま、踊りの渦の中へ引き込まれていった。


「エリカ、こんなところで何してんのよ」

 喧騒の中で、エリカはクレハに声をかけられた。隣りに男の人がいる。

「ああ、これは私の連れ。ショウって言うの」

エリカは会釈をした。

「エリカです。クレハさんにはお世話になっております」

「こちらこそ。この人と付き合うのは大変でしょう」

 クレハは男の耳を引っ張った。

「いてて」

 クレハは上気した顔で喋った。

「フーを見かけた?自分より20センチは背の低い男と踊っているの。面白いのは、その男が少しもびびっていないこと。なかなか面白いことになりそうよ」

「フーさんが...」

「あいつ、とんと男に興味なかったからねえ。ちょっと、わくわくするわ」

 エリカも最新情報をクレハに提供した。

「ヤンさんがさっき、10人ばかりの男の人を引き連れて、噴水の縁で踊ってましたよ。すごく、綺麗でした。乗り過ぎて、足を滑らせて落っこちてましたけど。アリサさんも一緒にいました。楽しそうでしたよ」

「アリサも踊ってた?」

「地面の上ですけど。男性も女性も引っ張り回して、ものすごいノリ。テレビ出演の時みたいでした」

「ああ、あれが地なんだろうなあ。まあ、よかった」

 クレハはそう言って、エリカの回りを見回した。

「それで、あんたは?」

「私ですか?」

「あんたよ。イガさんは?」

「それが、見つからないんです」

「いちおう、探してるの?」

 エリカは首を振って、真面目な顔で言った。

「一所懸命、探してるんです」

 クレハは楽しそうに笑った。笑い終わって、優しい目をエリカに向けた。

「そうなの。頑張ってね」

「はい。もう、どこに行ったんだか...」

 エリカは会釈をして、また人込みの中を捜し始めた。クレハはその様子を目で追った。

「妬けるな、その瞳」

 男が言った。

「バカ。あの子って、本当に純粋なのよね。裏も表もなく、突き進んでいくの」

「アリサと似てるな」

「そうね。確かに似てる」

「おまえは、昔からその手の奴に弱いからな」

「そうかね」

「そうだね」

 クレハは、男を見つめた。その瞳が、闇を走る光を映して、濡れている。

「違うのはあんたくらいだね。あんたは、私を外側から包み込んでくれる。大きな、大きなお布団みたいに」

「おれはモモンガかムササビかい」

「そんなに可愛くはないわよ。でも、とても、とても大好き」

 クレハは自分から男の腕の中に巻き込まれていった。ビートが弾け、闇を振動させる。この闇の中で、空気を震わす音楽の振動が、参加している者それぞれの鼓動と溶け合い、大きな律動を起こしている。これはこの場に、リアルタイムでいるものしか味わえない空気であり、この場を形造るものである。ここに居た者は、誰一人として、ドグ・ラ・マ・グラと自分たちの作り上げた、音楽を遥かに超えたセッションを忘れることはないだろう。これは、人が忘れようにも忘れられない、人生の中で数少ない永遠を形造る要素の一つなのだ。


 エリカは、ビラ投げ捨て男を見かけた。二人は視線を交わし、手を上げて微笑みあった。エリカはなおもシルエットになった人と人の間をすり抜けながら、イガを捜していた。

「よお、嬢ちゃん。」

 乱舞する光を遮る闇の中から、イガがするりと現われてきた。

「この、ナンパ男。この滅茶苦茶な中で、よく私を見つけられたね。」

「まあ、俺はずっとあんただけを見つめ続けているからねえ。」

「あ、は。ごくろうさま。その割りに遅かったんじゃない?ムサシさんは?」

「あそこ。」

 ムサシは女の子たちと踊っている。

「ムサシさんが女の子と遊んでいるのを見るのって初めてだ。どうしてイガは行かないの?」

 エリカはまったく邪気のない眼で、じっとイガを見つめた。

「きっついな。俺はもうずーっと、ずーっとあんたを待ち続けてるんだぜ。」

「おまえが仕向けたんじゃないか。ああ、でもありがとう。すっごく楽しかった、おまえの言った通り。ぜんぶ、おまえのおかげだよ。」

 イガは少し照れて横を向いた。

「そういうのは、もう少しオブラートに包んだりしないと、受け取る側が大変だぜ。」

「それが無理なのはわかってるだろ?素直に受け取ってよ。それじゃ...いいや。なんでも、好きなことに付き合うよ。どこにでもついて行く。何がしたい?」

「な、ナニって...本気か?そんなこと言うと、お持ち帰りしちゃうぞ...」

「いいよ。おまえはいいヤツだ。私は嫌じゃないよ。」

 闇を裂いて、光が走る。演奏にあわせるかのように揺れる光と、それのもたらす影。イガとエリカの上を、交錯する光と影が覆い、二人のシルエットが闇に沈み、また光に捕えられた。

「こんな、お返しに、みたいなのは好きじゃないんだが。」

 エリカは動かない。言葉も発しない。

「でも、もう止められない。ごめん!」

 エリカは柔らかい口調で返した。

「なんか、武道トーナメントにでも参加しようとしているみたいだぞ。」

「それより、きついわい。」

 エリカはついとイガの腕を避け、イガから離れた。イガは傷ついたように見えた。エリカは噴水の縁に座り、イガを手招いた。イガはぎごちなく歩いてきて、少し離れたところで立ち止まった。エリカはかすかに首を傾げた。

「どうしたの...?」

「ものすごく、おっかない。あんたが天使にも、悪霊にも、どっちにも見えちまう。どっちなんだろうね。」

 エリカはくすっと微笑んだ。イガはそばににじり寄り、エリカの手を取って立ち上がらせた。イガは、そのままエリカを自分に引き寄せ、右手を背中に回した。イガはそのまま手に力をこめていき、エリカを自分の胸の中に抱きしめた。やさしく、次第にきつく。エリカはとても安らいだ気持ちだった。いい気持ち。ずっと、ずうっとこのままいたい...イガは半分死にかかっていた。心臓は今にも口から飛び出しそうなほど脈打っているし、あらゆる自律神経が、まったくイガの意図しない方向へ向かおうとしている。イガの左手が、エリカの腰に回り、イガはさらにきつくエリカを抱きしめた。そして、そのまま、永劫とも思える時間が過ぎた。

「・・・?」

 何か、聞こえる。

「・・・したの?」

 エリカが何か言っている。イガは精神を集中した。

「どうしたの?大丈夫?」

 言われて、イガは自分が呼吸をしていない事に気付いた。

「ッヒィッ...」

 妙な音を立てて、イガは呼吸を再開した。急激に取り込まれた酸素は、瞬く間にイガの中に生命を取り戻し、同時にまわりの全てに色が戻ってきた。つい今まで、周りがモノクロームに見えていた事に、今更気付かされた。イガの腕の中で、微妙な振動が発生した。エリカだ。笑っている。

「...イガ...」

 笑われながらも、不思議に嫌な気分ではない。

「もう後数秒で、死ぬところだったみたいだ。」

 くすくす笑いが強まった。

「イガったら...」

「悪かったね。場馴れしていないんで。ちょっと無様なところを見られたな...」

 エリカは抱きしめられたまま、顔をあげてイガを見上げた。

「違うぞ。そんなふうに考えたんじゃない。」

「じゃあ、何で笑うんだよ。」

「バカだな。嬉しいんだ。抱きしめるだけで死んでくれる男がいるほど、自分が魅力的なのかな、と錯覚させてくれる。」

「錯覚じゃあ、ないだろ。」

 ぶっきらぼうに言うイガの中で、エリカが身じろぎし、密着した二人の間から、魔法のようにエリカの手が現われ、イガの首に伸びる。エリカはイガの肩に手をかけて、伸び上がった。そのまま、唇をイガの唇に押し付ける。イガは全身を硬直させた。エリカはイガの唇を味わうように押し付けてきた。イガは、ちょっと待て、と言おうとしたが、開こうとした口に柔らかいものが滑り込んできた。ほの甘い味わいと、柔らかなものは、イガの全身に新しい何かを満たしてきた。イガも同じように返し、二人は身体の境目をなくし、夏の真昼のたゆたう海に揺られているように、彼岸と此岸の間を漂いつづけた。

 イガと溶け合いながら、エリカは今までまったく経験したことのない感覚を覚えていた。既に自分自身を見失い、どこにいるのか、どこに行きたいのかすら、わからなくなっていた。突然、エリカはびくっとした。新たな感覚が脊椎を駆け上ってくるのに気付いた。イガの手が、腰から滑り降り、もっと下のほうを彷徨い出しているのだ。

「あ、あの...」イガは答えない。

「あの、イガ?」

 イガは手に力をこめ、エリカを思い切り抱きしめた。エリカは身体中がばらばらになるほど、きつく抱きしめられながら、激しい流れが荒れ狂うのを感じた。エリカは、まったくそれを制御することができず、流れは一斉に扉に向かった。濁流は扉を一瞬にして破壊し、破壊された扉の中から、真っ白い光が爆発するように溢れ出してきて、視神経を焼き切った。エリカは暗黒の中に落ちて行き、そして、その中に飲み込まれていった。


 エリカは目を開けた。目の前にイガの顔があった。イガは、エリカの目を心配そうに覗き込んでいた。エリカはのろのろと体を起こし、座った。まだ、意識が飛んでいる。自分がなぜ、ここにいるのかがわからない。

「大丈夫か?」

 エリカは差し出されたイガの手を、頼りなく握った。なんだろう。すごく大事なことを思い出せていない気がする。エリカは、ゆっくりと回りを見回した。闇の中に、音楽と、叫びと、大きなうねりがある。

「疲れたのかな。」

 イガが気遣わしげにエリカに話し掛けてくる。好ましい。このシチュエーションは、とても、好ましい。もう少し、何かがしたい。さっきまで、やりかけていた、何か。

 最後にエリカはイガの顔を見た。いつも、そばにいてくれる人。見守ってくれている人。エリカの目が、イガの唇で止まった。

「...エリカ?」

 イガの声を聞き、エリカは眼を見開いた。眼に光が戻る。エリカは立ち上がり、爪が食い込むほど強く、イガの腕を掴み。一瞬後、エリカはイガを突き飛ばし、子鹿が逃げるようにすばやく、低い植え込みを飛び越えて走って行った。イガは追う事もできず、そのままそこに立ち尽くしていた。


 エリカは走っていた。泣きながら、飛ぶように。自分が今、どう感じているのかもわからなかった。エリカは惨めだった。エリカは孤独だった。エリカは今、初めて自分がまったく一人きりで、頼るべき何者もないことを理解していた。自分の後ろに流れていく景色も見えず、エリカは走っていた。


 イガはムサシのそばに来て、地面に座り込み、踊っているムサシを見ていた。ムサシはイガの様子をチラッと見て、一緒にいる女の子に手を振り、イガのそばに腰を下ろした。

「どこに行っていたんだ?魔宴はいまや最高潮に達せんとし...」

「...俺が無神経すぎて、天使を見失っちまった...」

 パーティは、いよいよ明るさを増し、華やかに、回りを包み込んでいた。イガとムサシのシルエットは、その明るさに染まず、黒点のように、パーティを彩っていた。


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