微量毒素

白の魔歌 〜大学祭〜 p.21

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1 ムサシの決意
2 彼女の事情

★ ムサシの決意

 机上の検証は、これ以上不要だ。調査を進めれば、より明確な形が明らかになってくるだろう。しかし、ムサシは論文を書こうとか、研究をまとめようとかいうことのために、これを調べてきたわけではないのだ。この先、必要なのは、現場の生の情報に当たって、その方向性を確認するだけでいい。

 フィールド・ワークの実施に際し、ムサシは、とりあえず、自らの退路を断たなければならない。退路があると、おそらく見えざる手は、その姿を現さないだろう。誰にでも納得できる、まっとうな理由以外で大学を休学し、この国の法律・経済システムの外側の立場になって、この国を放浪しなければならない。

 また、これは最悪の場合だが、命を落とすケースも考えられるし、これから先、ずっと、通常の社会システムの、外側で生きることを余儀なくされるかもしれない。ムサシは後ろを振り返った。

 ムサシの背後、20メートルくらい離れたところに、ルカが立っている。ルカは怒っている。当たり前だろう、帰らないかもしれないと知っていながら、ルカを置いて、ムサシはどこやら得体の知れないところへ行こうとしているのだから。その理由も、ただ、知りたいから。

 知ってしまったことが、自分の想像どおりだったら、それを正したいという気持ちもあるが、おそらく動いた途端に叩き潰されるだろう。見得ざる手によって。そして、ムサシは元々存在しなかったように扱われ、社会は今のまま、動きつづけるだろう。それでも、そうだとしても、ムサシは知りたいのだ。自分を含む、この社会を包み込む手の存在を。

 ルカは怒っている。烈火のように怒っている。炎が、これだけ離れていても、ムサシの身体を煽る。ムサシはルカの方に歩いていき、肩を抱いて一緒に歩いていきたい。でも、それは出来ない。この20メートルばかりの距離は、既に絶望的なまでに遠く、到達不可能な距離なのだ。

 それに、もしムサシがルカの元に戻ったら。ルカの怒りは、今の百倍くらいに高まるだろう。そんなことをしたら、ルカは二度とムサシの前に現われない。ルカが、ムサシがやろうとしていることを妨害するような破目になったとしたら。ムサシは微笑を浮かべた。そして、前を向き、自分の研究結果のまとめに入った。フィールド・ワークの実施は、次年度の頭から。ムサシはそう決めていた。



★ 彼女の事情

 アユミは教室に入ってきて、全体をぐるりと見回す。目的物を見つけ、大またに近づいていく。アユミはエリカの横に立った。

「イガくんのこと、どうする気よ」

 エリカは答えず、アユミの目をまっすぐに見つめている。

「イガさんをいつまでほっとくんだ、って言ってんのよ」

 エリカはふいに立ち上がる。アユミから目はそらさない。エリカはアユミの目をじっと見つづけている。アユミも負けずに見返している。

「え?」

 アユミはふいにきれいに整えられた眉をひそめる。

「まさか...ひょっとしてあんた、泣いてる?」

 エリカの目はうるんですらいない。ひたすらに澄み切っている。

「泣いてんのね...」

 アユミは目をそらす。自らを恥じるかのように。ふせた顔の上から、エリカの乾いた声が降ってくる。

「わたしはね、できないのよ」

「だめなの...?」

「死ぬほど望んでもね、できないの」

「わかった。だめなのね。わたしが受ける。話して。全部。受け止めてみる」

 エリカは同意のしるしのように頭を振った。そして話し始める。彼女の約束と、決定について。

「わたしの親はわたしが自分の町に帰ってきてほしいと思っている...」


 エリカは両親に愛されて育った。父親は事業を営んでいる。順調に業績を拡大してきたのだが、エリカが高校生になった頃、資金難に陥ってしまった。両親はそれを隠していたが、ある夜、両親を驚かそうと思って、扉の陰に隠れていたエリカはそれを聞いてしまった。

「ヤナカさんのところの総領息子がエリカを気に入っているらしいんだ。もしエリカも彼を好いてくれたらいいんだが...ヤナカさんとつながりができれば、何かと助かるんだがな...」

「あなた!エリカの将来を、そんなことで狭めてしまうつもり?」

 後ろから押されるようにして、エリカは両親の前に出て行った。母親は驚き、目を見張った。

「...エリカ!」

「ヤナカのお兄ちゃんなら大好きだよ。ヤナカさんのお兄ちゃんのお嫁さんなら、私、なってもいいよ」

 母親は危ぶんだが、エリカは、ヤナカさんのお兄さんと、人を介して何度か会った。ヤナカさんのお兄さんは、高校生のエリカを、大人のように扱ってくれるので、くすぐったいような気持ちを覚えた。お話しをしていても、エリカを一人の大人として、対等の立場で話をしてくれる。楽しい思いこそすれ、けして嫌な感じはしなかった。

 だから、エリカは、短大を出たら、しばらくヤナカさんの会社で働いて、何年かしたら、ヤナカさんのお兄さんのお嫁さんになることにしている。父親の会社は、今は幸い持ち直しているが、商売に大きなうねりがあったら、持ちこたえられるかどうかわからない。そのためにも、ヤナカという有力者と縁戚関係を結ぶことが、父親にとって、大きな力になることは間違いのないところなのだ。

 そして、エリカはヤナカさんのお兄さんが嫌いではない。エリカは、そうすることで、何も失うものはないはずだし、ないように生きてきたのだ。


「...あきれた。あなた、本当にそうするつもりなの?親のために、自分の人生を捧げるなんて」

「もちろん。私は両親が大好きだし、二人の信頼を裏切るつもりもない」

「本気?これは、あなた自身の問題なのよ?ご両親のじゃなくて。少しは考えないの?」

「私が決めたの。誰の強制でもないし、十分考えての結論だし」

「考えてないわよ、この常識知らず。今の世の中で、政略結婚なんてものを真剣に考えるなんて、バカよ」

 エリカの目に、剣呑な色が宿った。アユミも引いたが、そのまま押されてはいない。エリカは叫ぶように言った。

「私に常識がないのはわかっている。でも、決めたんだ」

「そんな、ご両親だって、本気でそんなこと考えてるわけないわよ。もし考えてたら、そんな親は屑よ!」

 エリカの目が、蒼いような気配を噴き出した。

「うちの親は、私を愛している。そんなことがわからないで、子供が勤まるか?人の家のことだ、他人はほっといてくれ」

「ほっとけないわよ!」

「私は決めたんだ!」

「わかったわよ、あなたは決めたのね。じゃあ、いいわ。よくはないけど、いいわ。だったら、こそこそ逃げ隠れしないで、イガさんに正面から言いなさいよ!あなたが思ってることを、ぜんぶ!」

「おまえなんか、嫌いだ!だいっきらい!二度と近寄らないで!」

「嫌われるのなんて、怖かないわよ!いい、あんたのやってることはまったく、ぜんぶ間違ってるわ!後で泣きまくって死んだって、なんとも思わないわよ。お葬式で、指差して笑ってやるわ!」

「もう、いい」

 エリカは、アユミから目を逸らし、これから授業が始まるというのに、荷物を抱えて、教室を出て行った。エリカの出て行く姿を睨みつけていたアユミは、エリカが出てゆき、足音が遠ざかってゆくと、ゆっくりと、そばの椅子に腰を下ろした。見る間にその両目から涙が溢れ出し、頬を伝って袖の上に落ちた。

「驚いた。2年間一緒にいて、あんなに感情を剥き出しにしたエリカを見るのも、泣いているアユミを見るのも初めてだし。ねえ、アユミ。何か、役に立てることはあるかな?」

 クラスメートの一人が声をかけてきた。何人かが、同意の声を上げて、歩みの周りに集まってきた。アユミは涙を流しながら微笑んで、みんなに語りかけた。

「うん、ありがとう。たぶん、あれがエリカの限界だったんだね。これ以上、耐えられなくなったんだろう。可哀想なこと、しちゃった」

「あなたも、それに近いみたいよ。何か私たちに出来ることがあったら言って。友だち、って言ってもいいよね、私たち」

「うん。頼めることがあったら、お願いする。ありがとう。私も、できるだけのことはやってみるから」

 教授が入ってきた。学生たちはそれぞれの席に散った。アユミは、授業の始まりを告げる、教授の声を聞きながら、きつく指を噛んだ。エリカの席は空いたままで、授業が始まった。


 アユミは何度かエリカへのアプローチを試みたが、エリカは完璧にアユミをブロックしていた。もともと愛想のないエリカが、意識して無視するのだから、これは徹底的であり、アユミも付け入る隙がなかった。卒業まであと4ヶ月もない。

 クリスマス・シーズンは、さすがにアユミも彼との付き合いを優先した。いつのまにか年が明け、もう実質2ヶ月もない。アユミ自身も、就職は決まっていたが、彼氏との今後の付き合い方について検討を重ね、打ち合わせを何度も行わなければならず、自由になる時間があまりなかった。それでも、暇を見つけては、粘り強くアプローチを続けたが、エリカは相変わらず鉄壁の防御で、まったく取り付く島がない。アユミはイガのほうの様子を見てみることにした。


「やあ、アユミさん」

 待ち合わせの喫茶店に入ると、ムサシが声をかけてきた。イガの姿はない。アユミが向かいに腰掛けると、ムサシが話し掛けてきた。

「イガは来ない。どうしても外せない用事があるそうだ。もちろん、まったくの嘘だ。嘘の理由は、アユミさんが持っているのかな」

 アユミは、打ち明けてしまっていいかどうか少し逡巡したが、ムサシもイガのことを心配している様子が窺えたので、話すことにした。

「イガさんが私に会いたくない理由は、ひとつしかないから。私の友達がエリカだっていうことだけ」

 友達、と言いながら、アユミは少し眉を曇らせた。その様子を見て、ムサシはいすに深く腰掛け、ひざの上で指を組み合わせた。

「すごく、入り組んでいるようですな。これを解かないと、卒業したくても出来ないでしょう。こっちも、イガがずっと死んだ魚のようで、見ていて気持ちが悪い。共同戦線を張りましょう。私が信用できれば、ですが」

 アユミはムサシを見つめた。軽いようだが、明るい目の中に確固としたものを持っているのがわかる。彼はほんとうにイガのことを心配している。

「いっしょに考えてもらえますか?」

 ムサシは頷き、あごを指でつまんだ。

「どちらから?私からにしましょうか」

 アユミは頷いた。ムサシはあごをつまみながら、言葉を選んでしゃべり始めた。

「おかしくなったのは学園祭の時からです。後夜祭のときに、イガが俺のそばにきて、手がどうしたとかで、天使が逃げた、とか言ってました。その時は、なにか悪いことをして、エリカさんのご機嫌を損ねたのかな、と思ったんだが、その後は一切エリカさんと会っていないようで。イガの性格からすれば、ひどくおかしいんで、気になってたんですよ。こっちではそれだけ。クリスマスはこちらも約束があったんで、それからずっと放ってあります」

 アユミは、クリスマスは自分も彼氏と過ごしていたので、なんとなくエリカに対して申し訳ないような気分を覚えていた。ムサシもそうなのかもしれない。

「こちらは話すことがたくさんあります。とりあえず、かいつまんで話しますね」

 アユミはエリカに婚約者がいること、エリカは両親を大事に思っていること、イガの話をすると、常になく逆上して、今はアユミも絶交されてしまっていることなどを話した。

「絶交されているんですか...じゃあ、本物だな」

「そう。もっと傷が浅いと思ってたから、やりすぎちゃったのよね」

「エリカさんも依怙地では定評があるから。でも、ここからの対応はとても難しいな」

「そうね...」

「エリカさんは確かに変わって見えるけど、実はきわめてまともなものの考え方をしている。あまりにストレートすぎるんで、受け入れにくいけど」

「ああ、それはそう。ものすごく堅くて、古臭い考え方をしてるのよね」

「人を傷つけるような行動も、実はとても慎重にとらないようにしている」

「ええ。その通り」

「それが、今回は、二人もの人間を傷つけている。しかも、一人は公衆の面前で、絶交するという行動までとっている。何か、未だかつてない異常事態が起こっている、ということだな」

「それくらい、エリカはイガのことが好きになっている、ってこと...」

 ムサシは頷いた。

「好きだから、これ以上近づけない。両親との約束は、エリカさんにとって、神聖なものだから」


 アユミは考えた。滅茶苦茶なことを言っているようだけど、エリカは一度約束をしたら、絶対に破ることはなかった。エリカの怒りと涙のわけが、ようやくアユミにも見えてきた。

「そういうことか...」

「たぶん。約束を破らせようとする何かを、エリカさんは必死で排除しようとしているんでしょう。だから、イガは拒否され、あなたは絶交された」

「ばかな!そんな馬鹿なことって...」

「バカなんだよ、エリカさんはね。悲しいくらいに融通の利かない、バカ正直なんだろ?」

 アユミの目に、ぼあっと涙が盛り上がった。

「バカな子...本当に、馬鹿!」

 ムサシは考えながら言った。

「でも、この場合、どうするべきか。エリカさんにとって、どちらを選んだほうがいいか...」

 アユミは涙を振り飛ばしながらムサシをにらみつけ、言った。

「そんなこと、決まってるでしょ!」

 ムサシは涙を振り飛ばしながらしゃべるアユミを見て、遠い記憶を刺激された。あれは、中学校のときだったか...しかし、ムサシは冷静に言った。

「決まってませんな。エリカさんは、自分の気持ちをつぶしてもいいほど、両親に応えようとしている。それをだめだ、と決め付けることは出来ませんよ」

「出来るわよ。親なんて、自分より先に死んじゃうのよ。自分の気持ちを大事にしなくて、どうするのよ」

「自分より先に死んじゃうから、大事にしたい、ということもあるでしょう」

 アユミはムサシをにらみつけた。

「この、冷血漢!」

「そっちは熱いね」

「熱いわよ!ホット、ホッター、ホッテストよ!エリカは初めて本当に人を好きになったのよ?それをつぶしていい訳がないでしょうが!」

 ムサシは眉間にしわを寄せて考えこんだ。

「確かに、このままあきらめても、エリカさんにいいことはないだろうな。でも、どうします?アプローチの方法がないでしょう。私がしてみてもいいけど、たぶんイガがらみ、ということで、拒否されるんじゃないかな」

「やってみて。お願いします」

 ムサシは片眉を吊り上げた。

「お願いされてしまってはね。やりましょう」

「ありがとう。とりあえず、ほかに方法を思いつけないの」

 ムサシは苦笑した。

「やらないよりまし、ってレベルだな。まあ、やってみましょうか」


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