赤茶けた広大な大地を、二つの小さな影が歩いている。烈しい風に翻弄され、一つの影はふらふらとしているが、もうひとつの影は揺るぎもしない。ふらふらとしている影から、悲鳴のような叫びが聞こえてきた。 「ちょっと待てよ。何なんだよ、この風は」 「だから神呼び風だと言っている。この風はこの地方でこの季節にしか吹かない。このあたりでは、朝は山に向かって風が吹き、夕は湖に向かって風が吹く。だが、この風だけは必ず山に向かって吹く。何かが神を呼んでいるのだという」 「誰も聞いてないって、講釈は。何でこんなに巻き上げるような強い風が、昼間ッから吹いてんのか、ってことを知りたいんだ」 「わからんし、知ろうとするものもいない。やり過ごせば済むことだからな。神の意志は、いちいち忖度しないのが常識だ」 「神の意志って、誰が決めたんだよ」 「人に制御できないものは、すべて神の意志だ」 「なあるほど。じゃあ、朝と夜の風は何で神の意志じゃないんだよ」 「いつも変わりなく、そのように吹くからだ。神の意志ではないというわけではない。ただ、常に決まっている約束事には、その約束事通りに吹く限りにおいては、そこに神の明確な意志は感じられない。神呼び風だけは、吹くこと自体に、神の意志が感じられるということだ」 「じゃあ、その神さんのために、俺はこんなにきりきり舞いさせられてるってことか?」 「バランスが悪いのだろう。私はそんなに煽られない」 「ほんっとに、何で大丈夫なんだよ、おまえは」 「だからバランスがいいのだ」 「ああ、そうかい。俺はどうせバランスが悪いんだよ。だからこんな風で、真直ぐ歩けないでいるんだ。悪かったな」 「別に悪いことはない。バランスをとるようにすればいいだけだ」 「どうやったらとれるんだよ」 アノクはしばらく考えて言った。 「...うまくとればいい」 メドウは首を強く振って言った。 「おまえ、それで誠意を持って答えてるつもりだろ」 アノクは少し眉間に皺を寄せて言った。 「右と左に、力を分散すればいい」 「その仕方がわかってれば、今こんなに俺は揺れてるか?」 アノクは、今度はメドウの方をしばらく見て、不思議そうに言った。 「なぜ揺れる?」 メドウは右手をぶんっと振った。 「おまえ、自分が何で煽られないでいられるのか意識してないんだな」 アノクはしばらく考えて言った。 「どうやら、そのようだ」 ふんっ、と鼻を鳴らして顔を背けたメドウのマントが煽られ、翻った。その一瞬に、マントの奥に鮮やかな赤い色が見え、またすぐにマントに隠された。 「もう風も止むだろう。もうしばらく歩けば、里がある。そこで、今後の道筋について相談しよう」 メドウはめんどくさそうに手を振った。同意のしるしのつもりなのだろう。アノクはそう受け取った。また、ひときわ風が渦巻いた。 「くそっ」 メドウの罵り声が風に呑まれていった。 メドウは、アノクがマントの裾の隠しポケットから、石を取り出して捨てているのを眺めて、言った。 「何だよ、それ」 「石だ」 「それは、わかる。何のために捨てるんだ」 「風が逝ったからだ」 「なぜ、風が逝くと捨てるんだ」 アノクは捨てようとした石のひとつを手に持ったまま、メドウの顔を見た。 「重いからに決まっているだろう。風もないのにこんな重いものを持ち歩いてはいられない」 「だから、なぜ風があるとそういうものを持ち歩くんだ。うすうす答えはわかったような気がするが」 「マントが広がると、風に煽られる。風に煽られるとバランスが崩れる」 メドウは苦虫を噛み潰したような顔になった。 「おまえ、俺がさっき風の中で聞きたかったのは、そういうことだったんだが」 「え?」 アノクの顔に呆然とした表情が広がった。 「風の中で?」 「俺が煽られている時に聞いただろう。どうやってバランスをとってるんだって」 「あ、ああ」 アノクは思い出しているようだ。メドウはいまいましそうにその様子を見ていた。 「ああ!」 どうやら理解に達したらしい。 「そうか、済まない。このあたりでは、当たり前のことなので、おまえがこうしていないということに思いが到らなかった」 「まあ、いいけどね。また神さんが気まぐれを起こした時のために、よく覚えておくことにする」 メドウは言い捨て、先に店に入って行った。アノクは、まだ持っていた石をしばらく眺めて、言った。 「そうか。あれはそういうことだったのか」 アノクは心から得心したという顔をして、石に向かって頷いていた。 アノクが飯屋に入ると、メドウは既にカウンターに座っている。マントは着たままだ。アノクは入口で、マントを外した。マントを開くと、その下は薄手の黒い服である。変わっているのは、マントの留め方だ。首に巻いているのではなく、左右の肩に生えた扇形の刃に結び付けられている。結び目をほどいていると、飯屋の主人は、その奇形の刃に目を止めた。 「お客さん、破壊者かい」 主人も飯屋をやっているくらいだから、さすがに目に見えてうろたえることはないが、言葉の端に畏れが滲んでいる。アノクが口を開く前に、メドウが割り込んだ。 「ちゃうちゃう。こいつは矯正者。ほんとに、理屈っぽくてまいっちまう。俺だ。俺が破壊者」 以前、アノクはメドウがなぜわざわざ自分から言うのか疑問に思ったが、今はわかっている。誰が畏れるべきかを教えて、人の不安を早く始末させているのだ。わからないままだと、不安が長引く。早く気づけば、不安も早く消える。或いは麻痺する。メドウなりに気を遣っているのだ。これも、アノクがメドウについて来ている理由のひとつである。 通常、破壊者は他人に気を遣ったりしない。自らの好むがままに振る舞う。その点について、アノクはメドウに質したことがあるが、答えは、「わからん。おまえ、よくそんなに他人のことを気にしてられんな」だった。どうやらその振る舞いは学習したものではなく、先天的なものか、自然に身についたものらしい。 通常、矯正者は破壊者を見張り、その振る舞いを抑えるために存在している。逆にまた、破壊者に対する調整者のゆき過ぎた対応を抑えるためにも行動する。しかし、メドウについていえば、矯正が必要な場面は今のところ一回もない。ついている必要もないのだが、アノクは個人的な興味のようなものから、メドウと行動を共にしている。矯正者としては特殊な行動だが、逸脱しているというわけではない。監視が必要な破壊者もいるのだから。そして、メドウは明らかに監視が必要な破壊者であるのだ。なにしろ、メドウの目的は、「天と地の目を潰す」ことなのだから。 1時間後、飯屋の中はお祭り騒ぎになっていた。メドウがその長い旅の間に出会った物事を、面白おかしく語って聞かせたからだ。主人は途中で家の者も引っ張り出してきて、メドウの話を聞かせている。観客が増えて、メドウの話にはいっそう熱が入ってきている。ここはそれなりに豊かと見えて、子供が大勢いる。そのなかでも、7歳くらいの男の子は、メドウの話に魂を奪われ、メドウの一挙手一投足を見逃すまいと、目を皿のようにして話に聞き入っている。 アノクと連れになってからの出来事もたくさんあるが、アノクにはメドウのようにその物事を受け取ってはいない。アノクには当たり前に思えた出来事も、メドウにかかるととんでもない変わった事象であり、興味の対象になっているのだ。そして、それを実際に経験したアノクにすら、メドウの目を通して語られる事象が、メドウの語りそのままに面白いものとして追体験することが出来る。嘘はないし、誇張もない。事実のままでありながら、視点を変えるとこれほど新鮮なものに感じられるというのは、アノクにとっていつも驚きであった。もちろん、先ほどの神呼び風と、アノクの頓珍漢さも話しに織り込まれている。 「まったく、俺が何できりきり舞いしてるかわかりそうなもんなのにさ。何で気が利かないんだろうね、矯正者っていうのは。皆こうなんかな」 「いや、だいたいそうかもしれんよ。うちに来る客でも、矯正者は特別だ。笑いも泣きもしない。いつも次の町までの距離と、金の計算をしてるから」 店の主人はそう言ってから気づき、慌ててアノクを見て頭を何度も下げた。アノクはうっすらと微笑み、気にしていないと主人に伝えた。少し大きい娘が、店の主人の失言を気にして、アノクのほうにやってきた。日に焼けて色の黒い、目の力の強い娘だ。 「ごめんなさい、お客さん。失礼なことを言いまして」 「謝ることはない。あの男の話を聞いていると、みんな失言をしまくるんだ。言葉だけで酔っ払うらしい」 「それも破壊者の力なんでしょうか」 娘は真剣に訊いている。アノクは微笑んだ。 「いや、違う。あれは単にお祭り好きなだけだ。何の害もないよ」 「でも、破壊者なんでしょう? 破壊者はあらゆる秩序を憎んでいるって聞きました」 「少し、違うね。秩序に織り込まれるのが嫌いなだけさ。まあ、人によって色々あるが」 「でも、矯正者の方はみんな礼儀正しいですね。矯正者のお客さんが来ると、安心していられます」 「そうかもしれないね」 「矯正者の真似―!」 メドウは鼻の下を延ばした妙な顔をして、帳面をつける真似をし始めた。大いに受けている。娘も思わず噴き出し、慌てて表情を繕った。 「あの人、本当に破壊者なんですか?」 「ああ」 メドウは、矯正者が神経質にマントを畳んでいる様子を熱演している。娘は首を傾げて、その様子を見ている。 「矯正者の方と一緒に旅をしている破壊者なんて珍しいですよね。私は初めてです」 「珍しいね。私も他に会ったことがない」 「なぜ、一緒に旅を?」 アノクはそこで初めて娘の目を覗き込んだ。目を通して心を覗き込む。そこには畏れに慄きながらも、真実を見るのを畏れない、強い心が見える、アノクは頷いて言った。 「彼には監視が必要なんだよ。とても強い破壊心を持っているのでね」 「強い破壊心?」 「彼は、天の目と地の目を潰そうとしている」 「ええっ?」 娘は身を退きながら、アノクの腕を掴んだ。手が震えている。 「まさか、そんな...」 「私は彼が啓く人ではないかと思っているんだ。だからついてきている」 「啓く人...」 娘は畏れを持った目でメドウを窺った。メドウは喋り疲れてジョッキからごくごくと果実酒を飲んでいる。飲みながらふいに娘の視線に気づき、アノクに向かって言った。 「おい、そこ。人の話を聞き流して女を口説いてんじゃねえぞ」 娘は見る見る真っ赤になった。アノクは微笑み、木製のジョッキを持ち上げ、中身を飲み干した。 「すまん、親父」 アノクは店の主人に声をかけた。親父が不得要領な顔を見せる中、アノクは片手を振り上げ、思い切りジョッキを投げた。ジョッキはかなりの勢いでメドウの額に当り、メドウはひっくり返った。 「これも矯正者としての務めだ。すまんな、メドウ。娘さんに失礼だろう。親父、ジョッキが壊れていたらすまん。矯正者の務めだから、泣いてくれ」 親父は少し怖れるような目でアノクを見た。 「ジョッキは構わんが...あんたも矯正者にしちゃ、相当変わってるな」 「こいつについていたら、だんだんこうなってきた。まあ、こうでもしないと、どこまでいくかわからないんでな。時々軽く矯正してやるんだ」 メドウは額をさすりながら起き上がろうとしていた。倒れた弾みにマントが乱れて、肩口から赤いものが見えている。 「あ、けがを?」 娘は言って、アノクに一礼してメドウに駆け寄った。 「お客さん、大丈夫? 血が...」 マントを開こうとした娘の手が止まった。メドウは娘を手で制し、起き上がった。 「大丈夫。これが徴(しるし)だ」 娘は魅入られたように見ている。マントがはらりと開き、肩口から生えている棘のある緑の茎と、幾層にも重なり合った鮮やかな真紅の花弁を持つ花が露わになった。店の中が一瞬ざわめいた。娘は魅入られたように手を伸ばし、花弁に触れた。メドウはその手をそっと払い、マントを巻きつけた。 「ま、これが俺が破壊者だって徴(しるし)だ。少しは納得出来たろ?」 メドウは照れ隠しのように言った。 「しかし、それは...そんなのは見たことがない...」 宿の主人は畏れるように言った。 「そうかい。じゃ、見聞を広げたな。客相手のいい話のネタになるだろう」 「花なんて...普通はもっとおぞましいものが...」 なおも言う主人をじろりと見て、メドウは言った。 「俺にとっちゃあ、十分おぞましいけどな。おい、女。やめろって」 娘がメドウの肩の花を見ようとして、マントに手をかけたのだ。 「あ、ごめんなさい。私...」 娘は顔を赤らめて奥に走りこんだ。平身低頭する主人をなだめてメドウは言った。 「いや、いいって。女にまとわりつかれて怒るほど野暮じゃない。でも、何でか女はこれを見るとむしりたがるんでな」 アノクは柔らかく言葉をはさんだ。 「まあ、この世界には美しいものが少ないからな。どうしても欲しくなってしまうんだろう」 アノクの言葉に、メドウは反論した。 「美しいものは山ほどあるだろう。今の女だってなかなかのもんだ」 「その花で飾れば、もっと美しくなるだろう」 「ああ、そう? そういうことね...」 メドウは納得した。 「美しいものを見たい気持ちは誰にもあるが、普段は目にすることが難しい。だからたまに見るとずっと見ていたくなるんだろう。もっと見せてやればよかったのに」 「女に近づかれるのが嫌いなんだよ」 ぶすっとした顔でメドウは言った。アノクは微笑んで言った。 「まあ、いいさ。親父、もう一杯くれ。同じものを。壊れていなければ、同じジョッキで」 メドウはぶすっとしたまま後ろからジョッキを拾い上げ、店の主人に突き出した。男の子はキラキラした目でメドウとアノクを交互に見つめていた。 食事を終え、次の町への情報を仕入れて、二人は次の町へ向かうことにした。アノクがマントをつけ終わって出てくると、メドウの前にさっき聞き入っていた少年がいる。メドウは座り込んで、その子と熱心に話を続けていた。 「遠くの、ずっと遠くだ」 「そこへ行って、何をするの?」 「天の目と、地の目を潰す。そうしたら、世界はもっと面白くなるはずだっていうからな」 「もっと、面白く?」 「ああ。おまえもいつか旅をするようになったら、色々なものを見る。飯屋の息子なら、ここにいてもたくさんのものを見られるだろう。見逃すんじゃないぞ、すべてを。全部のことに、山ほどの意味が隠れてる。それを見つければ、おまえの勝ちだ。見つけられなけりゃ、ずっとつまんない暮らしをすることになる。いいか、目を開いて、いつもほんとのことだけを見つけるようにするんだぞ」 男の子は大きく頷いた。アノクは笑って言った。 「また種を蒔いているな」 ふん、という顔をしてメドウは立ち上がった。 「じゃあな」 「さよなら、お兄ちゃん」 メドウは歩き始め、後ろを見ずに手を振った。アノクが見ると、男の子は大きく、腕の付け根から手を振っている。メドウは振り向かない。歩きながら、メドウはマントをはねあげた。異形のバラが露わになる。 「?」 アノクは不審に思ったが、もう一度振り向いて謎は解けた。さっきの娘が窓から身を隠すようにしている。メドウはもっと見せてやればよかったのに、というアノクの言葉を、結構気にしていたらしい。アノクはもう一度微笑み、娘に手を振って歩き出した。 まだ道は遠い。追手のことも気になるが、とりあえずはいい調子で進んでいる。アノクは、その場に臨んだとき、自分がどういう行動をとるのかを知りたい。矯正者としての自分は、メドウを認めるのか、否定するのか。アノクはそれを知るためだけに、この道を進んでいるのだ。アノクにはまだ、まったくわからなかった。「啓く人」をどう評価していいのか、ということが。 |