青の魔歌2 〜黄色い人形〜 p.1
魔歌 | start | next |
1 | シアトルの少女 | p.1 |
2 | 家族の食卓 | |
3 | ブルー・マンディ(憂鬱な月曜日) | |
4 | 人形ではなく、ロボット | p.2 |
5 | スクール・ライフ(楽しい学校生活) | p.3 |
6 | ねずみよ、ねずみ | p.4 |
7 | ナイト・オン・ザ・ヒル(騎士が丘に立っている) | |
8 | クラスメイト | |
9 | 触れてはいけないところ | |
10 | ファントム・レディ(亡霊淑女) |
青の魔歌2 〜黄色い人形〜 |
李・青山華 |
シアトルの少女。 |
初老の夫婦が地図を手に、途方にくれている。もっとも、途方にくれているのは妻の方だけで、夫の方は周りを見回しながら、悠然としている。ここはシアトル。どうやら観光客らしい。 「もう、どっちに行ったら駅に行けるのかしら。この町は迷路みたいよねえ」 「うむ、そうだな」 痩せた夫は、そういいながら、それほど慌てている様子もなく、ふところからタバコを出してくわえる。火をつけようとする夫に、太り気味の妻は指を振って注意した。 「あなた。タバコは控えるんでしょ」 「ああ、そうだな」 相槌を打ちながら、夫はあせる様子もなく、タバコに火をつけ、煙をふかぶかと吸い込んだ。 「ほんとに、どうしましょう」 妻はもう一度、地図を眺め、あらためて大きなため息をついた。その時、のんびりとタバコを吸っていた夫が声を出した。 「あの子だ。あの子に聞いてみよう」 夫は通りのむこうを歩いている女の子を指し示した。通りのこちらに幾人も人がいるのに、と思いながら、妻は声を張り上げた。 「あのう、すいませえん」 女の子はすぐにこちらを向いた。黒い髪に黒い眼。水色のジャンパーに、黒いミニスカート。アジア系かしら。手を振っている妻を認め、通りを渡ってきた。 「どうなさいました?」きれいな発音である。 「ああ、あのねえ、私たち、ここが初めてなんだけど、地図を見てもさっぱり道がわからなくて…」 「どこかに行かれたいんですか?」 「ああ、そう。駅よ。駅に行きたいんだけど」 「それなら、バスに乗っていくんですよ。この下り坂を降りていったら、そこが駅です。ついてきてください」 「ああ、ありがとう。どうしようかと思ってたのよ。さあ、あなた、いきましょう」 「ああ、そうだな」 夫は荷物を持ち上げ、小走りで進む妻の後ろから、ゆっくりと歩き始めた。少女はほとんど身体を上下させずに歩いてゆく。時おり、振り向いて、ついてくる2人を確認している。すぐにバス停が見えてきた。ちょうどバスが止まっている。少女は、バス停まで走ってゆく。入り口から乗り込み、すぐに顔を出した。ステップから飛び降り、夫婦に向かって走ってくる。 「あのバスで大丈夫です。運転手さんに確認しました。お二人が来るまで、待っててもらってますから、大丈夫ですよ」 「ああ、ありがとう」 「ほんとに、助かったわ。お礼をしないと...」 妻がバッグの中を探ると、女の子は、それを押しとどめ、言った。 「お礼なんていりませんから、またシアトルにいらしてくださいね。シアトルはいいところですから」 バスがホーンを鳴らした。少女は振り返って手を振り、2人をせきたてた。2人はバスに乗り込み、席に落ち着いた。窓の外で少女が見ている。妻はバスの窓を開けて、少女に言った。 「ほんとにありがとう。きっとまた、シアトルに来るから、見かけたら声をかけてね」 「ぜひ、また来てくださいね。それじゃあ、お気をつけて」 少女は手を振り、来た道を戻り始めた。妻は隣に座った夫に言った。 「きれいな子ねえ。中国人かしら」 少女はその囁きが聞こえたらしく、スカートを翻しながら夫婦に向きなおり、にこりと笑いながら言った。 「いいえ。私は日本人です」 バスは動き始め、手を振る少女を残して、スピードをあげていった。少女はバスを見送ってから、くるりと振り向いて、戻ってゆく。弾むような足取り。少女の名はエミと言った。 |
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★ 家族の食卓 |
エミは、10歳の時に、米国に来た。前年に両親が死に、しばらく親類の家に兄と2人で世話になっていたが、10歳になった時に、どういう理由か、エミ一人だけがアメリカに連れてこられた。言葉の通じない異国で、エミはある夫婦の家で世話になっていた。夫婦はエミを実の娘のように育ててくれている。 連れてこられた当時は、すぐに来ると言われていた兄が、いつまで経っても来ないので、部屋に籠って泣いて、養父母を心配させた。1ヶ月が過ぎる頃になって、部屋から出て、心配をかけてしまったことを謝り、それからは快活に暮らしている。エミは、この生活に馴染んでいるが、ある野望を持っている。15歳になったら、日本に戻り、別れ別れになってしまっている兄を捜すのだ。兄の名前は、コジローという。 |
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「おとうさん、起きて。もう起きないと、会社に遅れちゃうよ」 エミは、両親の寝室の外から、父親に声をかけた。なにやら意味不明の言葉を発しながら、父親が起き上がる気配がした。 「早く降りてきてね。ご飯が冷めちゃうよ」 エミは声をかけて、階段を駆け下りていった。キッチンでは母親がスクランブル・エッグを取り分けていた。 「おとうさんは、今降りてくるよ」 「ありがと。エミーも早く食べなさい」 「はーい」 エミは椅子に腰掛け、パンにピーナッツ・ペーストを塗り始めた。ネクタイを首にかけ、あくびをしながら、父親が階段を降りてきた。 「おはよう」 「おはよう。パパ」 「おはよう。早くしてよ、あなた。私はもう出ちゃうから」 「ああ、わかった」 父親は、いすに座り、パンをとって食べ始めた。母親はいそいそとドレッシング・ルームに向かった。化粧をチェックするためだろう。エミはピーナッツ・ペーストの塗布作業を再開した。ようやく塗り終わり、ミルクを飲みながらパンを食べ始める。母親が出てきて、エミの頭にキスをした。テーブルを回って、父親の横に回り、口づけをする。 「じゃあ、私は行くから。後片付け、お願いね」 「わかった。気をつけてな」 「ありがと。じゃあ、エミ。遅刻しないようにね」 母親は全身を決めて、颯爽と出ていった。車回しに日本製の240SXが出てきた。小さい車がいいと言って、母親が選んだ車だが、実際はスマートなスタイルが気に入ったらしい。故障がほとんどないのもいい。ゆっくりと表通りに出て行った240SXは、滑らかに加速して行った。むしゃむしゃとトーストを平らげながら、父親がエミに声をかけてきた。 「学校ではうまくやってるかい?」 「ええ。成績は知ってるでしょ。完璧、とはいかないけど、何とかやってます」 「ま、ちょっと心配なんだよ。おまえはお人形さんみたいに可愛いからな。いじめられたりしやしないかってね」 「おとうさんったら。そう言うの、親ばかって言うのよ」 ひとしきり笑いあった後で、父親は顔を引き締めて言った。 「恥ずかしいことだが、アメリカっていう国は、自分で公言するほど平等ってわけじゃないし、マイノリティが差別されないわけでもない。差別は、しないと宣言されるほうが、かえって地に潜って存続するもんだ。だから私は、今のアメリカでエミが差別されないなんて思っていやしない。ある程度は受け入れざるを得ないだろう。でも、度を越すようなことがあれば、すぐにパパに言うんだよ。後戻りができないところまで嵌りこんでからでは、おまえはもちろん、相手もひどく傷つくことになるからね。自分のことだけでなく、相手のことも考えてやれば、告げ口だってそんなに悪いことじゃないんだから。わかったね、エミ」 「ありがとう、パパ。そこまで考えてくれて。大丈夫。ちゃんとわかっているつもりだから」 父親は頷き、腰を上げた。 「よし。じゃあ、片付けの手伝いを頼もう。皿を洗ってくれるね」 「はい」 エミが皿を洗っている間に、父親は食卓の上を片付け、冷蔵庫に戻すべきものを戻し、床をざっと掃いた。エミに学校の用意をするように言いつけ、調理用具を洗い、すべてを片付けてから部屋に戻り、スーツに着替えた。父親が出てくると、エミが足踏みして待っていた。 「おとうさん、遅ーい!」 「すまん、すまん」 二人は外に出た。 「じゃあ、行っておいで。学校を楽しむんだよ」 「はあーい」 エミは明るく返事をして、歩道に出た。スクールバスが止まるのはこの先の角。まあ、時間は十分にある。父親の車が出てきた。父親はにっこりと笑って手を振った。エミは大きく手を振り返した。父親の車は道を遠ざかってゆく。今日は月曜日。エミは地面に目を落とし、とぼとぼとバスの待ち合わせ場所に向かって歩き始めた。 |
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★ ブルー・マンディ(憂鬱な月曜日)。 |
父親にはああ言ったが、エミは学校ではいじめられていた。露骨なものではないのだが、何かと当てこすられたり、意地悪をされたりするのだ。まあ、それくらいなら無視していればいい。問題は、"いい子"のジョン・タジディ。何となく彼女を目の敵にしている節がある。そのうち、何かを仕掛けられるかもしれない。心の準備はしておくこと。 いちばん問題なのは、この学校には東洋人がほかに一人もいないので、友達がいないところ。友達がいれば、多少のいじめなんてどうって事ないんだけど。エミがお人形のように端正な作りなのも問題なのかもしれない。女の子は、何となくつんけんして、なかなか友達を作れない。きらめくような金髪や、小学生なのにメリハリのあるスタイルなんて、羨ましいくらいなのに、なかなか理解してもらえないらしい。赤毛のメリッサなんて、最高にクールだと思うんだけど、鼻も引っかけちゃくれない。友達になれたらいいんだけどな。 パパ、お人形はきれいに着飾って、幸せそうに見えるかもしれないけど、お人形をパチンコの的にして遊ぶ子や、いじめて遊ぶ子もいるのよ。ぜんぜん、いいことじゃないみたいだわ、お人形みたいなんて。 いろいろと考えているうちにバスがきた。 「あはようございまーす」 挨拶をしながら乗り込む。運転手のダグは無愛想で、挨拶をしても追い払うように手を振るだけ。エミは中に入り込み、空いている席に腰を下ろした。エミは一人きりでいる時は、いつも同じ事を考える。それは、おにいちゃんのこと。今の両親が悲しむので、今はけして言わないが、エミは忘れたことがない。 もう、考えすぎて、新しい考えが浮かんでくる事はないのだけれど。なぜ、エミがおにいちゃんと別れてアメリカに来なければいけなかったのか。なぜおにいちゃんは来ないのか。悪い想像をしそうになると、いつもエミはきつく頭を振って、その想像を追い払う。それに、エミはわかっている。おにいちゃんが今も元気でいること。もしお兄ちゃんが死んでいたら、毎晩エミの所にくるはずだからだ。ファントムは、生前会いたかった人のところに来るものなのだから。 それはなかなか魅力的な想像だ。腐りかけたおにいちゃんが、2階の窓から入ってくるのは。少し気味が悪いけど、お兄ちゃんと会えたら、エミはいろいろしてあげるつもりだ。ピザを焼いたり、ジュースをあげたり。でも、おにいちゃんが死んでしまっているのはいやだし、とにかく今はファントムは来ていないのだから、お兄ちゃんは大丈夫。 そしてエミの乗ったところから三つ目の停留所で、ジョンたちがバスに乗ってきた。 |
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「おや?こんなところにお人形があるぜ。誰が忘れたのかな」 バスに乗ってきたジョンは、いきなり仲間に声をかけた。仲間たちもニヤニヤしている。エミは窓の外を見て、何も聞こえないような顔をしていた。その態度がジョンの癇にさわったらしい。 「おい、こっちを向けよ」 エミはできるだけ感情を出さないようにしながら、ジョンのほうを向いた。 「何ですか」 「おまえ、いつも何を考えてるんだよ。澄ました顔をして」 エミは答えられない。相手が自分に悪意を持っていることがわかっているときに、こういう質問にまともに答えられる人間は、よほど度胸のある人間か、人間というものを知り尽くしたような者であろう。または、相手とことを構えたい場合か。エミはそのどれにも当てはまらない。 「おい、返事をしろよ。それとも、やっぱりお人形なのか?」 ジョンの揶揄に、エミは唇をかみ締めて黙っているしかない。それが、またジョンのいらつきに油を注ぐ。ジョンの口調がきつくなる。 「いいから、返事をしろよ」 エミは怯えを見せない目を、ジョンに向けている。ジョンの中で、凶暴な感情が沸き起こった。 「このガキ、いいから何か言え!」 声に凶暴さをにじませ、ジョンはエミに手を伸ばす。エミが口を開こうとしたとき、声がかかった。ジョンの動きが止まる 「やめな、ジョン」 低い、どすの利いた声。誰の声か、誰もわからなかった。わかったのは、信号待ちでダグが振り返ったから。 「ジョン、このバスの中で問題を起こすつもりなら、ここで降りな。後は自分の足で行くんだな」 「やだなあ、ダグ。問題なんて起こしゃしないさ。なあ、みんな」 取り巻き連中は口々に同意の声をあげ、前の席に移った。ジョンは一瞬振り返ってエミを睨み、仲間と一緒に前の席に座った。 バスを降りるとき、エミはダグにお礼を言ったが、ダグはいつも通り、うるさそうに手を振るだけだった。でも、ダグはちゃんとジョンを窘めてくれた。エミを降ろして、走り去るバスに、エミは思い切り手を振った。そして、くるりと向き直り、学校の入り口の階段を上って行った。ちょっとだけ晴れた、ブルーマンディの朝だった。 |
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エミは背筋を伸ばして教室に入った。流れるように歩き、自分の席の所に行く。既に来ている何人かの女の子たちが、ちらりとエミを見て、またすぐに自分たちの会話を続ける。ここで、すぐに椅子に座ってはいけない。何がついているかしれないからだ。エミはティッシュを出して椅子と、椅子の背を拭く。机を開けると、中にケチャップやマスタードのついた、ホットドッグの包み紙と、ドリンクの紙コップが入っている。もちろん、エミが入れたものではない。 エミはすべてを取り出し、中を拭いた。入っていたものをごみ箱に捨て、手洗い場で手を洗い、教室に戻る。にやにやしながらエミを見ているものもいるが、エミは何事もなかったかのように静かに席に戻り、あらためて机を開け、中を確認してからエミは席に座る。エミはそれこそ美しい人形のように、まったく表情を動かさず、静かに座っている。 《大丈夫。これくらいなら、注意していれば大した害はない。気にしなければいい。》 エミは、自分のそんな態度がクラスメイトの反感を買っていることに気づいていない。同年齢の者にとって、エミの対応はクールを通り越して、高慢、あるいは不気味に見えてしまうのだ。まるで回りを人間だとも思っていないような態度。 エミ本人は、必死でしがみついているのだが、回りはそうは思わない。何かがなければ、垣根は崩れないのだが、エミが超然としていればいるほど、この垣根は厚くなっていく。幾重にも重なる茨の垣根の中で、エミはまるで外界から隔絶された眠り姫のように、孤独の中に取り残されてしまうのだ。 生い茂る茨の外側で、気にしている者もいるが、いかんせん、エミ自身が作り出している壁に阻まれ、気持ちは届かない。エミは、自分から好んで孤独の中にいるように見えてしまう。バベルの塔が崩れて以来、人間の心を通じ合わせることは、とても難しくなっているのだ。 |
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