微量毒素

青の魔歌2 〜黄色い人形〜 p.2

魔歌 back next

1 シアトルの少女 p.1
2 家族の食卓
3 ブルー・マンディ(憂鬱な月曜日)
4 人形ではなく、ロボット p.2
5 スクール・ライフ(楽しい学校生活) p.3
6 ねずみよ、ねずみ p.4
7 ナイト・オン・ザ・ヒル(騎士が丘に立っている)
8 クラスメイト
9 触れてはいけないところ
10 ファントム・レディ(亡霊淑女)

★ 人形ではなく、ロボット。

 クリスは、おたく少年である。コミックを好んで、外で遊ぶ機会が少ないうちに、友達を作る機会を逸してしまった。外に出ても遊ぶ相手がいないので、さらに家に篭もっているうちに、コンピュータに興味を持った。友達のいないクリスには、ありあまるほどの時間があり、子供だけの盲目的な情熱でもって、次々と新しい技術を追いかけ、何時の間にかコンピューター・ハッキングが出来るほどの知識を身につけていた。

 日がな一日、コンピュータの前に座り、ジャンクフードを食べ続けたため、クリスはぶくぶくと太ってしまい、友達と一緒に走り回るには、肉がつき過ぎてしまった。目も悪くなり、眼鏡をかけている。結果、クリスは学校ではいじめられっ子になっていた。クリスは学校ではいつもびくびくして、何事もないことを祈っていたが、その態度が相手の加虐感をそそり、生徒ばかりでなく、教師も何と言うことなく、意地悪く当たってしまうのが常であった。

 エミの場合は孤高を保ち(本人の意識はそうでなくても)、成績も良かったので、教師の受けは良かった。そのため、いじめる側もセーブしている部分はあったので、クリスよりは幸運であったと言える。しかし、この場合の幸運とは何であろうか。ひどくいじめられないから幸運、というのは、悲しい幸運である。しかし、人は時に、こういう幸運を喜ばざるを得ない状況に陥ることがある。


 その日曜日、クリスは珍しく家を出た。発売されているはずのコンピュータ専門誌を買うためである。この専門誌は、クリスの家の近くのドラッグストアには置いてない。町の中心部にある、ブックストアまで行かないと手に入らないのだ。そのため、クリスは自転車に乗って、はるばる危険な町の中心部まで行かなければならない。何が危険かといえば、もちろんいじめっ子に会うことである。そのため、クリスはブックストアの開く、出来るだけ早い時間に町につくように家を出た。日曜日の早い時間なら、子供は教会か家にいる可能性が高いからである。

 幸いなことに、クリスは誰とも会うことなく、ブックストアにたどり着いた。自転車から降りた途端、普段運動していない体が汗を噴き出した。もちろんハンカチなど持っていない。気持ち悪い思いをして、とりあえず首を腕で拭っていると、メタリックブルーの自転車がブックストアのほうに向かってきた。乗っているのは子供である。クリスは顔見知りでないことを祈りつつ、ブックストアの階段をあがろうとすると、自転車は後輪を滑らせながら駐輪場に滑り込んだ。クリスは思わず足を止め、みとれてしまった。乗っていたのは女の子である。ホットパンツから伸びたしなやかな足を思い切りよく後ろに振り上げて、女の子は自転車を降りた。紺色のTシャツに紺色のホットパンツ、頭には白いサファリハットをかぶり、サングラスをかけている。素足にワークブーツを履いて、長い黒髪を振り飛ばしながら降り立った姿は、実にクールだった。

 学校にこんな子はいない。クリスは知らない子だと思ったが、どこかで見たような気がする。しばらく考えて、クリスは叫んだ。

「ええっ?」

 女の子はサングラスを取り、Tシャツの襟にはさんだ。クリスのいるブックストアの階段のほうに歩いてきながら、クリスのほうを見て、動きを止めた。

「あら、クリス?こんにちは」

「こ、こんちは」

 女の子はクラスメイトのエミだった。クラスメイトとは言っても、クリスをいじめる立場の子ではない。エミ自身もいじめられているようだ。クリスには、エミがいじめられる理由が、全く見当がつかなかったが。礼儀正しいし、成績もいい。運動も出来る。考えると、クリスは劣等感で身が縮みそうだった。

 しかし、緊張しているのはクリスだけではない。エミのほうも、先ほどまでの躍動感は消えて、いつもの人形のような硬い表情を見せていた。二人とももじもじしていたが、クリスはこんなところでもじもじしていられないことに気づいた。

「ああ、ごめん。ぼくは買わなきゃならない本があるんで」

 エミの表情が動いた。

「あら。こんなところまで買いにくる本があるの?」

「うん...このあたりでは、ここでしか売ってないんだ」

「私もなのよ。ここでしか売ってない本を買いにきたの。ねえ、どんな本?」

 クリスは雑誌の名前をあげてみたが、エミはきょとんとしている。

「難しい名前の本ね。ゲームかなんかの本?」

「いや、コンピューターの技術関係の本なんだ」

 エミの目に賞賛の輝きが灯った。

「クリスはコンピューターを作れるの?」

「いや、作るっていうより、使うための技術の本なんだ」

「すごい!クリスはコンピューターが使えるのね」

「ああ、まあ」

「じゃあ、何で学校のコンピューターの時間に、もっといろいろやらないのよ。みんなに教えられるじゃない」

「ああ、でも...」

 言い淀むクリスを見て、エミはすぐに察したようだった。

「そうか...クリンゴンたちがいるからね」

「クリンゴン?」

 今度はクリスが聞き返す番だった。エミは教室では見せたことのない、活き活きとした表情で、クリスにウィンクした。クリスはわけもなくどぎまぎした。

「いるでしょ、クラスに。凶悪異星人クリンゴンが」

 これで、クリスにも話がわかった。

「なるほど、クリンゴンか...ぼくは無慈悲王ミンだと思ってたけど」

 エミは腰に手を当てて、クリスを睨んだ。

「東洋人を馬鹿にしたら許さないわよ。私の叔父さんが、無慈悲王ミンなんだから」

 口をぱっくり開けてエミを見るクリスをしばらく眺めてから、エミは噴き出した。

「なんて顔!うそに決まってるでしょ」

「いや、嘘だとは思ったけど、エミがそんな冗談を言うなんて思わなかったから」

 エミの顔から表情が消え、すっといつもの人形の顔に戻った。

「ええ。私は冗談なんて言わないわ」

 クリスは、自分の言葉がエミを傷つけたらしいのがわかった。傷つけるつもりがなくて、傷つけてしまったのなら、誤解を解かなくてはならない。クリスは必死で喋った。

「いや、そういうことじゃなくて、ほら、意外性の面白さってあるだろ。今のは、僕の許容範囲を越えてたから、意外、のところで止まっちゃって、面白さまで行き着けなかっただけだから。もう大丈夫。心の準備は出来たから。いつでも、かましていいよ」

 エミは目を丸くしてクリスを見ていたが、やがて朝日が昇るように、笑みが戻ってきた。

「クリス、あなたも面白いわ。ねえ、本を買ったら、ちょっと話をしない?」

 エミも年齢の近い友人に飢えていたのだ。エミはクリスと階段を上り始めた。クリスが気がついたように言った。

「エミは?エミはどんな本を買いにきたの?」

 エミは、総合武術雑誌の「マンスリー・ブドウ」を買いに来たのだ。言える訳ないじゃない、女の子が、「マンスリー・ブドウ」を買いに来たなんて。

「知らない!」

 また、何か怒らせたのかと気を揉むクリスを置いて、エミは憤然として、さっさと階段を上がっていってしまった。


 それでもエミは、5分後には本屋の前の歩道に座り、「マンスリー・ブドウ」をクリスに見せて、あれこれ説明していた。エミのような女の子が、何で格闘技の本なんか?やはり東洋人は神秘だ、と密かにクリスが思っているうちに、エミはクリスのコンピューター専門誌を見て、感嘆の声をあげていた。

「なに、これ。ぜんぜんわかんない!」

「マンスリー・ブドウも僕にとっては同じだよ。ぜんぜんわかんない。専門用語がいろいろあるからね」

「でも、コンピュータってすごいのね。何でも出来ちゃいそう」

 クリスは頷いた。

「何でも出来るよ。すぐには実現しないかもしれないけど、コンピューターはすぐに、世界中を支配することになると思う」

 エミはクリスの顔を見て、感心したように言った。

「無慈悲王ミンみたいなことを言うのね」

 クリスはエミの目を覗き込み、重々しく言った。

「君の叔父さんが、そんなことを言っていたわけだね?」

 エミは笑い転げた。クリスも鳥肌が立つほど嬉しく、顔が綻ぶのを抑えられなかった。エミは笑い過ぎて、しゃっくりをしながら、ようやく身を起こした。

「見事にかましたわね」

「あら、お下品よ、エミーリア。下層階級の言葉を真似しちゃいけないって、あれほど言っているでしょう?」

 エミはまた噴き出した。

「む...む、クリスって、こんなにおかしなことを言う子だったの?ぜんぜん知らなかったよ」

「それはお互い様だよ」

 一瞬の沈黙があり、エミは呟いた。

「そうよね。私は感情のない人形みたいなもんだからね」

 クリスは、これがエミのグリーン・クリプトナイトだということに気づいた。

「違うよ、エミ」

 エミはクリスの目を見た。情け容赦のない眼。下手な慰めを言ったら、すぐに八つ裂きにされるだろう。それはなくても、少なくとも、もう二度と話相手にはなってくれないだろう。

「エミは人形じゃない」

 高まる緊張感。やはり、無慈悲王ミンの姪だというのは本当かもしれない。

「エミは人形じゃない。ロボットだからね」

 エミは、全身の力を抜いて、ポケッとしてクリスを見ていた。張り詰めていた空気は、何時の間にか吹っ飛んでいる。

「...ロボット?」

「そう。日本製の、腕から先が飛んで相手を攻撃するロボット」

「...腕から先が?」

「そして、目からビームを出して、分離合体をするんだ。背中のロケットから火を噴き出して、空だって飛べるんだ」

「...目からビーム?」

「そう。日本の工業製品は優秀だからね。その技術を結集して作られた、超合金製ロボット。名前は、アイアンレディ・エミ」

 クリスは失敗したと思った。エミは目を丸くして、クリスの顔を見つめたまま動かない。クリスが日本製のロボットのように、地面に穴を掘って、姿を消したいと渇望し始めた時、エミの口から低い声が漏れた。

「私は、ロボットなんだ。人形じゃなくて」

 クリスは答えようがなく、黙っていた。

「いいね、なれたら」

 エミの言葉に、クリスは思わずエミの顔を見た。伏せているエミの横顔は12歳の少女そのままの顔だった。いつもの貴婦人のような表情は、影も形もない。

「ロボットになれたら、悩みなんてなくなるんだろうね。何も考えなくてもいられるんだろうね」

「そんなことはないさ」

 クリスの言葉に、エミは涙でいっぱいに潤んだ瞳をクリスに向けた。クリスはうひゃー、と思いながら、言葉を続けた。

「ロボットだって大変だよ。重すぎて寝台は軋むし、燃料を食い過ぎると言ってどなられるし、道を歩けば穴が開くし」

 エミはフッと鼻から息を噴き出した。涙はいまだにふるふると下まつげの上で震えているが、新規の湧出は止まったようだ。

「お値打ち品の安物オイルを入れられたり、手入れをしてもらえなくて、玉のお肌に錆が浮いたり、油を差してもらえなくて、動けなくなったり」

 エミはさらに目を大きく開いて、クリスを見つめている。

「挙句の果てに、新型が出ると買い換えられたり、捨てられて、放置されたりするんだよ。ロボットが大変でないわけないだろう」

 エミは、もう笑っていた。背中の震えに合わせて、涙が地面に落ちているが、これは悲しいためじゃない。クリスは、とりあえず、満足した。エミは笑い終えると、地面に目を落としたまま言った。

「そうだね。ロボットだって大変なんだ。暢気でいいなんて言ったら、ロボットたちに怒られちゃうよね」

「そうだよ。誰だって、何かしら問題を抱えているもんさ」

 分別臭く言うクリスにふっと笑いかけて、エミは真顔になった。

「本当に、そうかしら。誰もが問題を抱えてるのかしら」

「そうだよ」

「あのいじめっ子たちは?あの人たちも問題を抱えてるって言うの?」

 クリスは頷いた。これは、いじめられる自分を正当化するためにも、クリス自身もずっと考えつづけていたことだ。クリスはこのことについては一家言があった。

「なんで意地悪をするか、考えてみればいいのさ」

「何で?私が気に入らないからでしょ」

「いじめるって言うのは、結局関わりを持つことだろ。嫌いなんだったら、無視したほうがずっといいよ。関わりを持てば、いやでも相手が意識の中に入ってきちゃうんだから」

「じゃあ、何で?」

「そりゃ、人によっていろいろあるだろ。僕が「コンピューター・サイエンス」を買って、エミが「マンスリー・ブドウ」を買うように」

「でも、どんな?」

「アー、そりゃ、たとえば、むしゃくしゃして、どこかで憂さを晴らしたいとかさ。まっとうなやり方じゃ、晴らせない憂さがあるものだけが、他人を攻撃して、自分の抱えている問題で重くなってる頭を軽くしたがるんだろう。親が認めてくれないとか、スポーツで思うような成績が残せないとか、好きな子が振り向いてくれないとか」

「そんなことで?そんなことで、他人を攻撃するの?」

「本人にとっては、そんなことじゃないのさ。人間は、他人のことは驚くほどわからないもんだよ。エミが、人形みたいだ、って言われるのが嫌いだなんて、僕もわからなかったよ。普通、誉め言葉だし」

 エミは思案しているようだった。

「うん。確かにそうかもね」

「本人もわかんないんだよ、いじめたりする本当の理由なんて。いや、わかりたくないんだろうな、本当の理由を。だって、それはそいつがどうしても解決できない問題なんだからね。見たくはないだろうしな」

「そうね。私にもそういうところはあるものね」

 クリスは信じられなかったが、未だにエミは人形のように綺麗に見えるので、自分にはまだまだわからない、エミの本当の姿があるのだろうと思った。そしてそれは、エミをさらに魅力的にさせることにも気づいた。そのエミは、クリスを、尊敬に満ちた目で見つめた。

「クリスって、すごいね。年齢は一緒なのに、私なんかじゃ考えもつかないことをいっぱい知ってるんだもん。どうして、いじめられてるんだかわかんない」

「頭でっかちなだけさ。友達がいないから、考えるくらいしかすることがなくて」

「友達がいなくても、普通の人は何もしないわよ。ただ、嘆いたり、怒ったりしてさ。私もそうだったし」

「へえ。信じられないな」

「おにいちゃんが...」

 エミは言いかけ、黙った。

「とにかく、今は私、やることがあるからさ」

 エミは「マンスリー・ブドウ」を振って見せた。

「僕にはこれがあるしね」

 クリスは「コンピューター・サイエンス」をあげて見せた。エミは、目をきらきらさせながら、クリスに顔を近づけてきた。

「でもさ、でもさ」

「な、何だよ」

「今はこれだけじゃないよね」

 エミは本を振った。

「?」

「やることがこれだけじゃないよね、私たち」

「?」

 クリスはエミの意図が掴めない。

「ねえ、だって私たち、もう友達がいるじゃない。ここに。違うかな?」

 少し不安そうなエミ。クリスは衝撃を受けた。そうなのか?これでいいのか?友達になると言うのは?答えはわかっていた。

「そうだね。エミは僕の友達だ」

「クリスは私の友達だ」

 二人は目を合わせた。そして、笑った。

「僕は、友達に聞いてみたいことがあるんだけど」

 エミは目を見開いた。

「なに?」

「どうしてエミは、いじめられても気にしないでいられるの?」

 クリスはどうしてもわからなかったのだ。エミはいじめられるのをまったく気にしていないように見えるのだ。なぜ、エミは意地悪されても平気なのだろうか。どんなに意地悪されても、毅然としているから、クールに見える。クリスはエミが羨ましくてしょうがなかったのだ。

「どうして、そう思うのかな」

 エミは、つらそうに言った。

「私だって、意地悪されなかったらどんなにいいか、って思ってるよ。いじめられても気にしないなんてことはないよ。でも、気にしているように見せたら、面白がってもっと意地悪されると思うと、ああするしかないだけなのに」

「でも、僕には出来ないんだ。いじめられたくないから無様に動いて、また新しいいじめのネタにされちゃうんだ。どうしたら、エミみたいに毅然とできるんだろうと、ずっと羨ましかったんだ」

 エミははっとしたようにクリスの顔を見た。そう、クリスはいじめられている。エミなんかよりずっとひどく。エミ自身も、時には嫌悪の表情でクリスを見たこともある。エミは、またひとつ、新しい行動規範を得た。

「そうだね。どうしたらいいのか、あたしも考えてみる。でも、私が回りのことを気にしてないなんて思わないでね」

「いやー、でも、やっぱりエミはアイアン・レディだからね」

「また、それ?やだな。私、金属は好きじゃないし。ねえ、お化けは?ファントム・レディ、のほうがいいんだけど」

「んー。やっぱりそんなイメージじゃないな。壁を通り抜けちゃうというより、力づくで崩して、ぶち壊しながら通り抜けちゃう感じだな」

「ひっどーい。さっきまでお人形さんなんて言っておいて。どこから巨大ロボットになっちゃったのよ」

「お人形さん型の、破壊ロボットかもね」

「ちょっと、クリス。許せる範囲って、人それぞれ、おのずから決まっているのよ。あなたの言葉、微妙にそれを越えてる感じよ」

「こえー。やっぱり、アイアン・レディじゃん」

「クリース!」

 エミは指を鉤爪のようにしてクリスを脅した。クリスは両手を上げ、降参のポーズをした。二人はもう、すっかりと打ち解けていた。


 話に夢中になっていて、気がついたら、もうお昼が近い時間になっていた。二人は家に帰ることにして、自転車を押してしばらく一緒に歩き、分かれ道に来た。二人は自転車にまたがり、手を振り合った。そこで、エミはふと思い出したように言った。

「クリス、あなた、コンピュータは何でも出来るって言ったよね」

「うん。僕はそう思ってる」

「じゃあさ...」

 言い淀んでいるエミを、クリスは待った。エミはサングラスをした顔をあげ、クリスに言った。

「人探しなんて出来るもんかな...アメリカじゃない国の。名前くらいしか手掛かりもないんだけど」

 クリスは考えた。顔を上げると、エミはサングラスをずらして、クリスを見つめていた。そのひたむきな瞳は、クリスの心臓に、深く打ち込まれた。

「やってみないとわからない。今のネットの状態で、どれくらいのことが出来るか。でも、やってみるよ。言ってくれれば、いつでも」

 エミは頷き、サングラスをあげた。

「ありがと、クリス。じゃあ、また」

 エミは力強いストロークで自転車を漕ぎ始め、エミに合ったメタリックブルーの自転車は、みるみるスピードを上げ始めた。黒髪をなびかせて、驚くほどのスピードで、アイアン・レディ、もしくはファントム・レディは去っていった。クリスはしばらく呆けたようにその後姿を目で追い、心臓が締め付けられるのを感じた。

「やってあげるさ。君が望むことなら、何だって」

 クリスは、今朝、世界が変わるほどの衝撃を受けていた。自分を頼ってくれる友人が出来たのだ。今まで、まったく知らなかった世界が、目の前に開けていた。電線に止まるカラスも、自分の自転車も、郵便ポストも、交通標識も、すべてのものは色鮮やかに煌き、存在していること自体を心から喜んでいる。その友達のために役立てられるかもしれない、コンピュータの知識を持っていることを、クリスは心のそこから嬉しいと思っていた。


 エミは自転車を漕ぎながら、口笛を吹いていた。エミは最高にいい気分だった。「マンスリー・ブドウ」を買いに来たら、友達が出来ちゃった。女の子でないのはちょっと残念だけど、クリスはめっちゃ頭がいい。どうして学校の成績はよくないのかしら?ばかばかしくってやってられないのかしら?エミなんか、考えもつかないような話がどんどん出てくる、魔法のつづらみたいな子。ちょっと、嬉しいな。明日からの学校。男の子だから、学校で話したりするのは無理だけど、友達がいるってだけで、最高、な感じ!

 エミは、自転車をものすごいスピードで飛ばしていた。実のところ、このまま空に飛び上がって、飛んでいけちゃうんじゃないだろうか、という気分だった。


魔歌 back next

微量毒素