微量毒素

青の魔歌2 〜黄色い人形〜 p.3

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1 シアトルの少女 p.1
2 家族の食卓
3 ブルー・マンディ(憂鬱な月曜日)
4 人形ではなく、ロボット p.2
5 スクール・ライフ(楽しい学校生活) p.3
6 ねずみよ、ねずみ p.4
7 ナイト・オン・ザ・ヒル(騎士が丘に立っている)
8 クラスメイト
9 触れてはいけないところ
10 ファントム・レディ(亡霊淑女)

★ スクール・ライフ(楽しい学校生活)


 月曜日、教室の机に座ったクリスは、少し怯えていた。きのう、エミと話していたところを見られたら、またそれでいじめられるかもしれない。そして、怯えている自分に嫌気がさした。

 自分とエミが話していたら、今までよりいじめられるのはエミのほうじゃないか。そう考えた途端、胃の辺りがずん、と沈むのを感じた。友達を持つってのも楽じゃないな、とクリスが思ったときに、後ろから声をかけられた。

「おはよう、クリス」

 輝くような声。嬉しさがあふれているのがわかる、跳ね回っているような声。ほかのクラスメイトも、おや、というような顔で、声の主を見ている。声の主は、もちろんエミだ。

「おはよう。エミ」

 友達って、最高だな。クリスは思い、振り向いてエミに手を上げて見せた。そのクリスの目の端に、ジョン・タジディが見えている。信じられないという顔。これは、このままじゃ済まないな、と怯えあがったクリスの横で、ざまあ見やがれ、とガッツポーズをしているクリスがいる。恐怖と歓喜の狭間で、クリスは友達っていうのは、ほんとうに物事を複雑にしてくれる、と思い、溜息をついた。

 そう言えば、きょうはコンピュータの授業がある。きょうは少し進んだ、簡単なマクロの利用と作成についてである。ただ、既に用意されている機能を使うだけでなく、自分でコンピューターを使役するための機能である。もちろん、授業でやるのはさわりだけ。ここで興味を持ったものは、そちらの世界を自分の将来の可能性のひとつとして考えてもいい。そんな意識を持たせるためのエキシビジョンである。それでもみんな頭を抱えている。エミとした話を思い出し、クリスはそのうちエミにコンピューターのことを教えてやろうと思った。思ったのだが、おせっかい野郎のおかげで、思うだけではすまなくなった

「と、だいたいこんな感じね。先生も実はあまりうまく説明できないんだけど、だいたいの感じはわかってもらえたかな」

 生徒たちはお互いの顔を見合わせている。

「先生」

 後ろで先生に発言を求めている奴がいる。エミだ。クリスは、これ以上はないくらい、嫌な予感がした。

「なあに、エミ」

「クリスが説明出来ると思います」

 クリスは頭を抱えた。あのアマ、何を考えてやがんだ。ぜったい、後でくそ壺にぶち込んでやる....よくよく考えてみると、今くそ壺でも何にでも隠れたがっているのはクリスだった。先生は少し躊躇して、エミに答えた。

「そう?でも、きょうのは難しいから、クリスに出来るかな」

「大丈夫です。クリスはわかります。ねえ、クリス、みんなにわかりやすく説明してよ。私もよくわからないの」

 ほら、もうこっちに振っている。勘弁してくれよ。これで、朝の分と2倍の心配をしなけりゃいけなくなっちまった...クリスが振り向くと、エミは親指を立ててガッツポーズをしている。クリスはくらっとなった。ここで卒倒したらどうだろう。それはなかなか魅力的な考えに思えた。

 魅力的な考えに思えたのだが、卒倒はせず、クリスは立ち上がり、前に出て行った。なぜって?ここでクリスが出来なかったら、エミがみんなに嘘つき呼ばわりされることになるじゃないか。クリスは腹を括った。いくらなんでも、殺されることはないだろう。ひとつ、みんなにご教授してやろうじゃないか。

 先生の隣りに行き、振り向くと、全員の視線がクリスに集まっている。クリスはここで襲ってきた気絶の誘惑にも耐えた。気がつくと、横からも先生の視線が放射されている。こんなにビームを浴びたら、僕は10秒後には、骨も残さず溶けているに違いない。もちろん、10秒後もクリスはちゃんと立っていたし、話を始めてさえいた。

「えー、みなさん。みなさんは、バットマンを知っていますね。知らない人はいますか」

 ジョンが手を上げた。嘘である。クラスの何人かはくすくすと笑った。バットマンを知らない子供などいない。どんなにお上品な子でも、バットマンは知っている。先生が横から口を出した。

「あの、クリス?聞かせてお話の時間じゃないのよ?」

「わかってます。みんながわかるように話さなくちゃならないでしょ。先生もバットマンは知っていますよね」

「ええ。知っていると思うわ。それほど詳しくはないけど」

「それで大丈夫。少し、話させてください」

 クリスはみんなを見回した。先生と話したおかげで、さっきより心臓は落ち着いている。エミは期待で目をきらきらさせて、机に頬杖をついてクリスの話を待っている。

「やらざあ、なるめえ」

 呟いたクリスを、先生は「?」と言うように眺めた。クリスは話し出した。


「バットマンは、いつもみんなのために、世界をめちゃくちゃにしようとしている敵と戦っています。バットマンは強くて、ほとんど負けることがありません。OK?」

 何人かの子が、クリスの言葉に頷いた。いい兆候だ。クリスは続けた。

「では何で、バットマンは負けないのでしょうか」

「強いから」

 前の席の子がぼそりと言った。ひそやかな笑いが広がった。

「そうです。バットマンが強いからです。でも、どうして強いのでしょうか。バットマンはスーパーマンやスパイダーマン、ハルクやXメンたちとは違って、普通の人間です。鍛えていても、ナゾラーやポイズンアイビーなんかと互角に戦えるはずがありません。彼らは、人間よりも強い能力を身に付けているのですから」

「だけど、バットマンは強いぞ」

 不満そうな声があがった。同意の声が、ざわざわと上がる。

「その通り。普通の人間なのにバットマンは強い。なぜでしょうか」

 子供たちは黙っている。信じられないことだが、みんながクリスの次の言葉を待っているのだ。

「それは、バットラング、レーザーウィング、トランクダーツなどの強力な武器を使い、またバットモービルや、バットウィング、バットコプターなどを使うことで、陸も空も自由に動き回ることができるからです」

 子供たちの間から、ほう、という声が上がった。

「自分より、肉体的に強い敵に勝つために、バットマンはいろいろな道具を使います。バットモービルに乗っていれば、どんな敵より早く移動できるし、少々の攻撃では傷もつきません。他にもバットウィングや、バットコプター、ホイリーバットで、空も自由に飛び回れます。また、特別なブーメランのバットラングや、手裏剣のレーザーウィング、トランクダーツを使って、さまざまな敵を倒すことが出来ます。バットマンのベルトは知ってるよね。15以上のツールが装備されているし、マスクにも暗視機能があり、銃弾くらいじゃ傷つかない。ブーツやグローブにも、武器が仕込まれている。つまり、バットマンが普通の人間なのに、あんなに強い敵と互角に戦えるのは、道具たちをうまく使いこなしているからです。きょう、勉強したコンピューターのマクロというのは、バットマンが使いこなしている武器のように、コンピューターを使いこなすためのやり方のひとつなんです」

 クリスはみんなを見回した。大丈夫。みんなついてきている。

「コンピューターは、基本的に誰でも使える機能を持っていますが、それを、もっと自分にあったやり方で出来るようにしたり、面倒な作業を任せることも出来ます。その段取りを組んでやるのがマクロです。マクロは、最初に作ってしまえば、ずっと、何回でも使うことが出来るので、コンピューターの仕事を楽にすることが出来ます。これだけで、ほかの人より、ずっと仕事を楽にすることが出来るんです」

「ちょっと待て」

 ザックが口を挟んだ。邪魔をするためではない、本当に訊きたいから聞くという口調だ。

「バットマンが道具がよくて勝ってるんなら、誰がやっても勝てるのか?そうじゃないよな」

 バットマンはヒーローだ。ヒーローが道具だけで勝っていると言われては、面白くないものがあるのだろう。その点は、クリスも全く同意見だった。

「もちろん、バットマンは道具だけで強いわけじゃありません。すばらしい判断力と、実行力があるから、バットマンは強いんです。それを、さらに効果的にするために、道具たちを使いこなしているんです」

 ザックは腕を組んで頷いた。

「そして、もっと大事なのは、バットマンに、絶対に信頼できる仲間がいることです。ペニーワースにロビン、バットウーマンが、バットマンに力を貸してくれているから、バットマンは安心して戦えるのです。バットマンが強いのは、道具だけに頼っているからじゃありません。道具を使いこなし、仲間たちと信頼しあっているから、あんなに強いんです」

 みんなが頷いている。ザックは、すっかり友達に話す調子で話し掛けてきた。

「でも、コンピューターは何でも出来るんだろ。コンピューターが敵になったらどうするんだよ」

「スーパーマンでも、スタートレックでもコンピューターが出てきましたが、かなり強敵でしたよね。でも、コンピューターがたとえ人間を攻撃したとしても、最後は人間が勝ちます。なぜなら、コンピューター自身には考える力がないからです。今のところは、コンピューターはまだまだ作った人間を超えることはできません。コンピューターは、ただの道具です。でも、コンピューターを使いこなせば、宇宙に行くときの複雑な軌道計算や、今までは考えられなかったような、ものすごい規模の経済システムを動かしていくことも出来るようになるんです。こういうものを、これからは僕たちが作っていくようになるかもしれません。きょうの授業は、そのための第一歩なんです」


 クリスは話を終えた。みんな、しんとしている。突然、拍手の音が聞こえた。エミである。

「すごいよ、クリス。すごくよくわかった」

 拍手はすぐに広がり、クリスはまたいつものクリスに戻り、身の置き所を見つけられずにおろおろとした。先生も拍手をしながら、クリスに近づいてきた。

「すごいわ、クリス。すごくわかりやすかった。コンピューターって言うのはすごいのねえ」

「はい。でも、それを作った人間のほうがもっとすごいと思います」

「どうせ、そのあたりもよく知っているんでしょう。ぜひ、今度はその話をしてもらいたいわ。で、きょうの授業はどうしようか」

 クリスは呆然とした。先生が、僕に、対等の立場で授業の進め方を相談しているんだ!クリスは今まで、自分が全く知らない感情を味わっていた。これは、達成感、と言われるものだろう。

「簡単な例題なら、このコンピューターでも出来ますから、みんなに実際に作ってもらうのはどうでしょうか」

「大丈夫かな」

「大丈夫。算数や文法より、ぜんぜん簡単ですから」

 クリスははっとして、言い過ぎたかなと思って、先生の顔を見た。が、先生は笑っていた。

「そうかもしれないわね。じゃあ、クリス。ご指導をよろしくお願いしますわ」

 女の子が言った。

「でも、難しいんでしょ。コンピューター言語とかを使って、プログラムしてやらなきゃいけないんでしょ。よく知っている人は簡単だと思うかもしれないけど、あたしたちにはとってもついていけそうにないわ」

「ミランダは、演劇が好きだったよね」

「ええ」

「じゃあ、脚本ってわかるよね。プログラミングの基本は、あれと一緒です。最初に大道具を用意して、次にやりたい仕事を順番に並べていくだけ。プログラム言語も、昔と違って、今は英語が元になったものだから、そんなに難しくはないと思います」

「ふうん。そうなの」

 ミランダはかなり興味を持ったらしい。先生は言った。

「じゃあ、ちょっとやってみましょう。クリス、やってみてくれる?」

 クリスには考えがあった。

「先生、ミランダにやってもらいましょう」

「え、え?ちょっと、無理よ。出来るわけないじゃない」

 ミランダは机にしがみつき、回りを見回した。クリスには勝算がある。

「大丈夫。ミランダなら、演劇を知ってるから、ほかの人より入りやすいから。ここに来て」

 ミランダは、もう一度回りを見回し、ふんっ、と鼻から息を出して、立ち上がって前に来た。ふてくされたように、キーボードの前に座る。

「さあ、どうすりゃいいのよ」

「じゃあ、最初は段取りをコンピューターに作らせるやり方をやってみましょう。マイクロソフトは、自分たちがこれ以上仕事を増やしたくないので、簡単にプログラムできるやり方を組み込んでいるんです」

 笑いが上がる。キーボードの前のミランダは、ものすごく緊張している。クリスは、簡潔に、やるべきことを伝えたほうがいいと判断した。

「最初に、ツールのところをクリックして。出てきたメニューの下のほうの、マクロのところへ矢印を持っていって」

 ミランダは、震える指でマウスを操る。

「そこで、新しいマクロの記録を選んで、クリックしてみて。そしたら手を離していいから」

 ミランダはうまくやっている。画面に、ウインドウが開いた。

「ここから、マクロの作成に入ります。きょうは、文字の表示を、セルの真ん中に入れるマクロを作ってみましょう。ここにマクロ名を入れるんだけど、とりあえず「中央寄せ」と入れてください。入ったら、OK。こんなふうに、画面の右に小さなウインドウが出れば、準備OKです」

 ミランダは、何も言わず、マウスを掴んだまま、画面を見ている。

「じゃあ、ここで、セルの中の文字を、上下の真ん中に入れるようにしてください。わかる?ミランダ」

「わかるけど、言って」

 ミランダの声は硬い。

「セルはもう選ばれているから、上の書式をクリックして。次に、セルをクリックして。配置のタブを選んで、そこで縦位置を、中央にして。OK。ここまでやったら、右にある小さなウインドウの中の、黒い四角をクリックして」

 ミランダは、言われた通りにした。

「はい、OK。これでマクロの作成は終わりです」

 一瞬、教室は静まり返り、ざわつき始めた。ミランダはクリスを呆然として眺めている。

「クリス、これで終わり?本当にマクロが出来たの?」

 先生も小声で聞いてくる。クリスは頷き、ミランダに話し掛けた。

「OK、ミランダ。じゃあ、マクロがちゃんと出来ているかどうか、確認してみよう。また、ツールのところをクリックして。出てきたメニューの下のほうの、マクロのところへ矢印を持っていって」

 ミランダは、滑らかにカーソルを移動させた。

「そこで、マクロを選んで...そう。クリックしてみて」

 画面にウインドウが開いた。リストの中に、「中央寄せ」が入っている。

「そんな...クリスが最初から入れといたんでしょ」

「じゃあ、その中央寄せを選んで、下のオプション・ボタンをクリックしてみて。ほら。作成日は今日の...2分前だ。正真正銘、君の作ったプログラムだよ、ミランダ」

 ミランダはまだ信じられない様子だ。

「でも、ちゃんと動くかどうか...」

「やってみればすぐにわかるよ。いったん閉じて、さっきとはちがう、文字の入っているセルを選んで。ツール...マクロ...マクロ、と。そこで「中央寄せ」を選んで...実行を押す」

 文字は真ん中に移動した。

「OK。問題なし。ミランダ、君の作ったプログラムは、ちゃんと動作したよ」

「...すごい。素敵。こんなことが出来るんだ」

「そう。誰にでも簡単に出来るんです。ただ、このやり方だと、余分なものまでマクロに取り込まれることがあるんで、慣れてきたら、直接コマンドを入力したほうが確実です」

「わたし、コンピューターのプログラムを作っちゃった...」

 ミランダはまだぼおっとしている。クリスはみんなを見回していった。

「皆さんもお分かりだと思いますが、ほんとうに簡単なんです。コンピューターを使いこなすのは。みなさんも、コンピューターを使って、もっといろんな事が簡単に出来るようになります。機会があったら、触ってみてください」

 ザックが訊いてきた。

「このプログラムは、コーディングはあるのか?それともイメージで見るだけなのか?」

「さすが。もちろん、プログラムである以上、コーディングはあります。これは、そのコーディングを、作業から逆に起こすことで成り立っています。それも簡単に確認することが出来ます。僕がやろうか、ミランダ?」

「私が作ったんだから、私がやる。いい?」

「上等。じゃあ、もう一度マクロを開いて、今度は編集をクリックしてみて...」

 授業が終わったときには、みんなが立ち上がってコンピューターの画面を覗き込んでいた。ミランダは、今日うちに帰ったら、両親に話すと言って興奮しているし、ほかの子たちも、次のコンピューターの授業が待ち遠しいと言っている。授業は大成功だった。みんなクリスにいろいろ質問してくるし、先生も言ってくれた。

「クリスがこんなにコンピューターに詳しいなんて知らなかったわ。これから、コンピューターの授業のときは、先生を助けてよね」

「ええ。いつでも、お手伝いします」


 先生が行ってしまうと、クリスは背中をどん、と叩かれた。振り向くと、満面に微笑を浮かべて、エミが立っている。

「やったね」

 クリスは咳払いをして、言った。

「この、おせっかいの、くそったれの東洋人が。もう、心臓が止まるかと思ったぜ。ありがとう」

「クリスはすごいよ、やっぱり」

 あまりにも手放しの賞賛に、クリスは口をパクパクして赤くなることしか出来なかった。

「コンピューター知ってるだけなら、こんなにすごいとは思わない。すごいのは、難しいことをわかりやすく教えられるところだよ」

「いや、簡単なことだから、わかりやすいんだよ」

「違うでしょ。先生だってわからないんだから。簡単って言っても、普通の人にはなかなかわからないんだよ。それをわかるように教えられるから、やっぱりすごいよ。あれ?」

 エミはクリスの背後の何かを見ている。振り返ると、ジョンたちが帰っていくところだった。クリスは、きょうは絶対やられると思っていたので、ほっとする反面、嫌な感じがした。誰かがらしくないことをしたら、そいつは何か悪いことを考えている、という母親のよく言う言葉を思い出し、クリスは身震いした。まあ、覚悟はしておかないとな。


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