青の魔歌2 〜黄色い人形〜 p.4
魔歌 | back | end |
1 | シアトルの少女。 | p.1 |
2 | 家族の食卓。 | |
3 | ブルー・マンディ(憂鬱な月曜日)。 | |
4 | 人形ではなく、ロボット。 | p.2 |
5 | スクール・ライフ(楽しい学校生活)。 | p.3 |
6 | ねずみよ、ねずみ。 | p.4 |
7 | ナイト・オン・ザ・ヒル(騎士が丘に立っている)。 | |
8 | クラスメイト。 | |
9 | 触れてはいけないところ。 | |
10 | ファントム・レディ(亡霊淑女)。 |
★ ねずみよ、ねずみ。 |
次の日、エミが学校に来ると、メリッサが爪を磨いていた。 「おはよう」 エミが言っても、メリッサは返事もせずに、爪を磨き続けている。そのとき、風が吹いて、メリッサの机の上の紙が何枚か飛んだ。エミはその紙を拾い集めた。そのエミに、メリッサがぴしゃりと言い放った。 「ほっといて、お人形さん」 メリッサはエミのほうを見もせずに、爪を磨いている。エミは唇をかみ締めながらも、紙をメリッサの机の上に置いて、自分の席に行った。 エミは、自分の机を凝視した。机の上に「ふたりは結婚した」といういたずら書きがしてある。机をあけると、中にだらりとした薄いゴム製品が広げられて入っている。コンドームだ。どうやら使ったものではないようだが。 エミは唇を噛み締め、いつもどおりにティッシュで片付ける。気持ちが悪いが、このままにはしておけない。少し迷ったが、ティッシュに包んでゴミ箱に捨てた。戻り際、メリッサに聞いてみる。 「ねえ、メリッサ。あなたより先に誰か来ていた?」 メリッサは相変わらず爪を磨きながら答える。 「いいえ、私が一番だったよ」 「そう...ありがとう」 前より悪くなってきた。やっぱり、きのう目立ったせいだわ。クリスは大丈夫かな。エミはちりちりとする危機感を感じたが、その日はそれ以上何もなく、クリスがいじめられることもなかった。 |
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クリスは不審を感じた。いつもなら、絶対にもうクリスはいじめられている。いくらクリスがちょっと先生に気に入られたからといって、始まったいじめは、それくらいで止まるようなものじゃない。なんで今回はクリスがいじめられないのか。怖くて、ジョンの様子を見ることも出来ないが、クラスの雰囲気は悪くなっている。いや、今やザックも時々クリスに声をかけてくれるし、女の子も一目置いてくれるようになっている。クリスにとってはよくなっているのだが、きなくさい。 クリスは、自分に向いていた矛先が、すべてエミに向かって行っているとは思ってもいない。エミは、そういうことを、表に出そうとしないから。しかし、いじめはエスカレートしていった。 |
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エミは目の前のものを信じられなかった。これはねずみ。死んだねずみ。体が突っ張っている。エミはそっと机のふたを閉めた。周りを見回したが、気づいたものは誰もいないようだ。きのう、あんなことをされたのだから、エミは気を引き締めていた。昨日の今日である。また何をされているか、わかったものではない。椅子も、机もOKだった。いたずら書きはない。机を開けてみて、エミはねずみの死骸を見つけたのだ。 「どうして、こんなこと……」 血の匂いはしないから、この嫌がらせのために殺したものではないだろう。それがせめてもの救いだ。でも、生き物の死体をこんなふうに扱って、嫌がらせをする人間の気持ちを考え、エミは気持ちが地の底まで沈みこむのを覚えた。 「可哀想なねずみ……」 エミは下を向き、心の中で涙を零した。 「おはよう、エミ」 クリスが声をかけてきた。 「おはよう」 クリスは首を傾げた。エミが仮面をかぶっている。以前の人形の顔に戻っている。なにかあったんだろうか。クリスは、それとなく、エミのほうを注意してみていた。 この日一日、エミはまるで何事もないかのように過ごした。ねずみの死体の上で授業を受け、ランチも机で食べた。午後の授業が終わるまで、エミは一度も机を開けなかった。授業が終わり、みな帰っていった。ジョンはエミの方を気にしながら帰っていったが、エミは気づかなかった。クリスもエミのほうを気遣わしげに見ていたが、エミは気づかなかった。エミはねずみのことで頭がいっぱいだったのである。 「早く帰りなさいよ」 先生に声をかけられ、エミは何か返事をした。教室が静寂に包まれ、もう誰も戻ってこないだろうと思われるまで、エミは待ち、そして机を開けた。異臭はあったが、ねずみはおとなしく死んでいた。エミはティッシュでねずみの死骸をくるんで、大切そうに両手で持って、裏の花壇に行った。 エミは場所を捜した。花壇の奥、学校の壁に近いところなら、行き止まりだし、人に踏まれることもないだろう。園芸用具はそばのストックハウスに置いてある。エミは移植ごてを持ち出し、穴を掘った。十分な深さの穴を掘り、エミはねずみを穴の底に横たえた。エミは両手を仏教徒のように合わせて、ねずみに話しかけた。 (ねずみよ、ねずみ。死んでからまで、ひどいことをして御免ね。人間を恨まないで。ここなら、誰にも邪魔されずに眠れるから。) エミは土をかけた。ねずみの姿は土に隠れ、さらにかけられた土で、ねずみは完全に葬られた。踏まれないように、エミは土の上に石を置き、立ち上がった。 「よし」 エミは自分に気合を入れ、洗い場に行き、移植ごてを洗って、拭いてから戻した。そして再び洗い場に行き、手を洗った。 「あとは、机の掃除」 エミが角を曲がってくる前に、クリスはそこを離れた。クリスはエミに見られないように、隠れてエミをやり過ごした。エミは自分にも何も言わなかったのだ。自分にも気づかれたくなかったのだろう。だから、クリスはここにいてはいけないのだ。 「エミ……」 クリスはエミの強さを思った。エミは何も怖がっちゃいない。ただ、自分のせいでおもちゃにされたねずみが可哀想だったんだ。クリスはその強さを理解し始めた。そして、それはクリスの心の中に、やはり何かを育たせ始めた。エミの気配はとうに消えていた。 「よし」 クリスは呟き、そこを離れた。 |
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★ ナイト・オン・ザ・ヒル(騎士が丘に立っている)。 |
ジョン・タジディはついに切れた。あの女が泣くところを見たくて、薄気味の悪いねずみの死骸を机の中に放り込んでおいたのに、あの女は騒ぎたてさえしない。まるで、死骸なんてないかのようにして、その上で弁当まで食いやがった。到底、太刀打ちできるレベルじゃない。そう思っていながら、ジョンは腹の虫が納まらなかった。ジョンを完璧に無視していながら、オタク野郎のクリスとは仲良くしている。ジョンは腹の底から怒りが滾ってくるのを抑えることが出来なかった。 「見てろよ、黄色い猿女」 ジョンはもう、感情をとどめることができなくなっていた。みんなの前で滅茶苦茶にして、思い切り泣かせてやる。ジョンはもう、そうすることでしか自分の気持ちが晴れることはないと思った。 |
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次の日、エミは覚悟を決めてきたのだが、何もなかった。何もないということがかえって恐ろしかったのだが、ジョンにはそんなことはわからない。エミは重い気分のまま、一日を過ごした。 昼休みの後、午後からは、子供たちだけの交流の時間である。先生は教室を出て行った。ジョンは教室を抜け出て、トイレに向かった。 |
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エミがノートを広げて、みんなの意見を書いていると、その上に物が投げられた。びちゃっという音とともに、跳ねがエミの顔に飛んだ。 「?」 エミは反射的に跳ねを拭うと、赤い液体がついていた。机の上に飛んできたのは、使用済みの生理用品だった。呆然として目を上げると、少し離れた机に寄りかかって、ジョンがニヤニヤ笑っていた。 「おう、お猿さん。クリスとさかってるんだろ。赤ちゃん作りのやり方を知ってるのかい」 エミは言葉を出すことも出来ない。ここまでやるジョンが信じられなかった。女の子たちがざわめき始めた 「ちょっと、ジョン。正気なの?」 「やめなさいよ、すぐに。先生を呼んでくるわよ」 ジョンは女の子を無視して、エミに向かって言った。 「赤ちゃん作りは、女になってないと出来ないんだぜ。そら。それが女の証だよ。おまえもちゃんと使ってんのかい」 エミは目を大きく見開いて、ジョンの顔を見つめていた。ジョンはせせら笑っていった。エミもさすがにこれ以上我慢することは出来なかった。開いたままの瞳に涙が溢れ出る。女の子達の厳しい糾弾の声があがるより早く、クリスが弾かれたように立ち上がり、ジョンに体当たりしていった。 「なんて事すんだ、ジョン!」 不意をつかれたジョンは、クリスの体当たりでバランスを崩し、ひっくり返った。その上に跨り、クリスはジョンののど元を締め上げ、叫んだ。 「エミに謝れ!」 クリスの肩に手がかかり、引き起こされた。ジェフがクリスを引きずり起こして、殴り倒した。激情をとどめようがなくなったジョンは、生理用品をエミの顔に投げつける。エミは手をあげて避けるが、顔にビシャッはねがと跳ぶ。エミはショックで声も出せない。その時、後ろからガシッとエミの肩を掴む手があった。怯えて振り向くと、メリッサの顔が間近にある。 「へい、人形さん。いいのかよ、これで」 エミは言葉が出ない。どうしたらいいのかわからないのだ。 「ここまでされて、いい子でいるんじゃない!見ろよ、クリスを」 クリスは殴られても起き上がり、ジョンの足を掴んでいる。メリッサは忌々しげに立ち上がり、エミの頭を引っぱたいた。 「あんたのためなんだろ、あれ。いいのかよ」 クリスは後ろから、別の少年に蹴られた。ひっくり返るクリス。 「あんたがどうでも、あたしが我慢出来ない。やめろ、ジョン!」 メリッサは大またでクリスに歩み寄り、助け起こそうとした。邪魔をされるが、払いのけてクリスを助け起こす。 「クールなメリッサは、ホットだったんだ...」 エミの頬に血が上ってきた。 「クールなメリッサもかっこいいけど、ホットなメリッサは最高だわ」 メリッサが突き飛ばされ、クリスはまた殴り倒された。エミは机をつかみ、立ち上がる。 「やめなさい。今すぐに」 りんとした声に一瞬ジョンはたじろいだ。しかし、立っているエミを見て、歯の隙間からシッという音をさせ、エミに向かってくる。エミの身体から闘志が噴き出る。エミがとびかかる一瞬前に、背後から声がかかった。 |
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★ クラスメイト。 |
「おまえら、いい加減にやめろよ。これ以上ひどいことをすると、おれたちも相手になるぜ」 ザックの声だ。エミは驚きで棒立ちになる。 「うるせえ」 かまわず、ベンがクリスを引き起こそうとする。その間に割って入ろうとしたザックを、ベンが殴る。 「っのやろぉ」 ザックはベンに掴みかかる。その後ろからジェフが押さえ込もうとする。そのジェフの顔を、メリッサが磨き上げた爪で格子模様に引っかく。 「ひいい。こ、このすべたが!」 メリッサを殴ろうとするジェフ。そのジェフの後頭部に、ミランダが持ち上げた椅子を叩きつける。 「ぐはっ」 他のクラスメイトたちも、クリスとザックに加勢している。 「みんな...」 エミはまだ驚きから覚めていない。その、棒立ちになったままのエミに、ジョンがとびかかろうとする。そのジョンの足を、ぼろぼろのクリスがつかみ、引き倒す。 「危ない、エミー...」 またも邪魔をされ、完全に切れたジョンは、クリスの顔を蹴った。クリスは鼻を押さえ、転げまわる。エミはうなりながら飛び出し、ジョンに体当たりをした。ジョンはバランスを崩して転んだ。エミはクリスの上にかがみこむ。押さえた指の間から鮮血がこぼれる。鼻がくの字に曲がっている。今の蹴りで、鼻を折られたのだ。ジョンが立ち上がる。エミは怒りに燃えた目をジョンに向けた。 「少しだけ、待っててね」 エミはクリスに囁いて立ち上がり、ジョンに向き直った。 |
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★ 触れてはいけないところ。 |
「絶対に触れちゃいけないところまで来たわね。我慢するのはもう終わり。もう許さないわ」 暴力に酔っているジョンは、そんなエミをせせら笑った。 「へえ、どうしてくれるんだい、黄色いお猿さん。赤い尻でも見せてくれるのかい」 「最低ね、あんた」 ジョンのニヤニヤ笑いが大きくなる。 「黄色いサルが吼えてるぜ。とっととジャングルに帰りな」 「もうやめろ、ジョン!」 そのジョンを、ザックが押さえようとする。 「おととい来やがれ!」 ジョンはザックを殴り倒し、エミにむかってくる。エミはジョンの手を受け流し、ふところに入り込んで肘打ちを打つ。少しは手応えがあったが、これくらいではほとんど効かない。エミはくるりと回り、ジョンの関節を後ろから蹴り込む。ジョンは体勢を崩すが、すぐに立ち上がってくる。やはり、男の子は頑丈だ。ジョンは陰惨な笑みを浮かべて、悠々とエミに近づく。 「こんなもんかい、おさるさんよ」 エミはにっこりと笑った。 「いいえ、これからよ」 近づいてくるジョンに、エミは逆に突っ込んで行く。圧倒的なスピードでジョンの腕をかいくぐり、瞬間に体を入れ替え、後ろに回った。そのままジョンの腕を後ろに回してねじあげる。片足を肘に押し当てて、さらにねじ上げる。この体勢だと、相手は力を十分に入れられない。ジョンは振りほどこうとするが、振りほどけない。体力的に違いすぎる相手には、関節技が一番有効なのだ。 「ば、ばかな」 暴れようとするジョンの耳に、エミの冷たい声が届いた。 「安心して。きれいに折ってあげるから、すぐにつくわ。そりゃ、痛みがないとは言えないけどね」 「や、やめろ」 ジョンがもがく。 「いやよ。ほら、あと5センチで、ぽっきりいかせてあげるから」 エミは手を緩めない。ついにジョンは屈服した。 「やめてください、お願いします」 「わたし、珍しく本気で怒っているの。命が残るようにお祈りしててね」 エミは冷たい笑みを唇に張り付かせ、さらにねじあげた。バカン、という、いやな音が響く。クラス中の人間がその音を聞き、エミとジョンの方を見た。さらさらと黒髪が流れる。笑みを浮かべて見下ろすエミ。ジョンは、ずるずると地面に崩れ落ちる。気絶したのだ。ミランダが椅子を振り上げたまま言う。 「ひどい...」 エミはにこりと笑い、ミランダに言った。 「大丈夫。すぐに直るから。関節を外しただけなの。本当に折ったりはしないわよ」 エミはそっとジョンを横たえて、クリスに駆け寄り、心配そうにのぞき込む。血まみれの顔で、かろうじてクリスは笑い返した。 「クリス!大丈夫なの?」 「大丈夫だよ。もうほとんど意識も遠のいてるけど」 「バカ!敵いっこないのに、何であんなことしたのよ!」 「あれ以上見てられなくってさ。つい、ね」 「つい、じゃないわよ、このおたんこなす!」 「ま、いいさ。こうすべきだと思ったことをしたんだから。ほんとのところ、けっこういい気分なんだ」 「……バカ。バカ、バカ、バカ!」 「エミ、あんまり言うと、本当にバカになっちゃいそうなんだけど」 「ほんとうに、バカよ!ほっときゃいいの、あたしが何をされてたって」 「そりゃ、無理だよ」 エミはクリスの顔を見た。 「だって、ぼくたちは友だちなんだろ?」 エミはまた、ぶわっと涙を溢れさせたが、零さずに、こっくりと頷いた。 「友だちがいじめられてるのを見るのは、自分がやられるよりつらいんだよ。ね、エミ」 エミは頷いた。 「ほんとうに、そうね」 「と、言うわけでさ、ジョンの腕を直してやってくれないか。このままだと、心配で医務室にも行けやしない」 「いいの?」 エミはクリスを確かめるように見た。 「エミが誰かを傷つけたままでいるのを見るのも嫌なんだ。頼むよ」 エミは頷き、ジョンのところに行き、前からジョンの腕を持ち上げ、腕の下に肩を入れて、ぐいと押し上げた。再び、ごきり、という嫌な音が教室に響き、意識を取り戻したジョンが泣き喚いた。 「おれ、俺の腕が...」 「もう、戻したわよ。痛みもすぐに消えるわ、残念だけど。男の癖に、いつまでもぎゃあぎゃあ喚いてんじゃないわよ。クリスなんて、一言も泣き言なんて言ってないんだからね。あんたに鼻を折られてるのに」 エミはくるりと後ろを向いて、クリスの元に戻ってきた。 「こわー。やっぱり、破壊ロボットじゃん」 ザックが呟いた。 「うむ。確かに怖い」 エミはザックの方を向き、びしっと親指を立てた。 「ファントム・レディと呼んで」 エミはクリスに向き直り、曲がった鼻を改めてチェックしながら涙声で言った。 「このバカ。ほんとに、なんでこんなになるまでしたのよ」 「バカだからさ...血まみれでも、君は美しい」 その言葉を最後に、クリスは気絶した。エミは本格的に泣き出した。クラスメイトたちが先生を呼んできてくれて、クリスを医務室に運ぶことになったのだが、エミはずっとクリスについているといって聞かず、先生も折れて、ずっとクリスを見ていてもらうことにした。目から涙をぽろぽろと零しながら、担架で運ばれていくクリスについて行くエミを見て、メリッサが、ぼそりと言った。 「やっぱ、東洋人って神秘だねえ」 「まったくだ」 笑いが広がった。暖かい笑い声。ジョンは苦い顔をしてその笑い声を聞きながら、痛みが薄れた腕を慎重に動かしていた。 「あの野郎。手加減しやがった...」 ジョンの声には、敗北感が溢れていた。それと、微かに、別の何かが含まれていたが、それは誰にもわからなかった。 |
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★ ファントム・レディ。 |
ジョンがひとりで登校してくる。まわりのみんなは、避けて近づこうともしない。エミは軽やかに走りよって、その肩をたたいた。 「おはよっ」 ジョンは黙ったまま、エミを睨んだ。エミは気にせず、笑顔でジョンに話しかける。 「わたしは、もう済んだことだから忘れてあげる。けど、またクリスたちに手を出したら、今度は全身の骨を外してあげるからね。骨を外すのって癖になるのよ。気をつけてね」 思わず、ジョンはあとずさる。 「クラスメイトなんだからなかよくしようよ、ねっ」 ジョンに飛び切りの笑顔を向けるエミ。ジョンは思わず見とれ、くるりと振り向いて走ってゆくエミの後ろ姿を、眩しそうに見送る。エミはクリスのところに走ってきて、声をかけた。 「おはよう、クリス」 「あんなやつに、声かけてやることなんてないだろ」 「政治よ、政治。ただ無視するより、ずっと怖い目に合わせてあげるんだ、あの子」 「やっぱりこえー。エミって、人形みたいに綺麗だけど、中身は魔女やカーミラより怖いんだねえ」 「だ・か・ら。ファントムレディって呼んでね」 クリスは肩をすくめる。エミはクリスの横で、少し遠い目をしていた。 「でもさ、ジョン・タシディだって、ほんとうは意地悪したいんじゃないんだと思うんだ」 「ほーう。それはまた、いったいどういう心境の変化で?」 「だって、クリスが言ったんじゃない。人にはそれぞれ事情があるんだって。たぶん、ジョンも問題を抱えてるんだと思うんだよね」 「やっぱり、いい子だね、エミは」 「殴るわよ」 「エミに殴られたら、死ぬんじゃないか?本当に、あのおしとやかなお姫様はどこに行っちゃったんだか」 「ああいうほうがいいのかな」 「いや。今のほうが千倍はいいね。確かにジョンが抱えているとしたら、並大抵の問題じゃないだろうね」 「どえーりゃーでっけぇ問題だよね」 「ユタなまりはいいからさ」 「だから、私はジョンとも仲良くしたいのよ。せっかくクラスメイトなんだし、仲良しが増えれば、もっと楽しくなるじゃない、学校が」 「そりゃ、そうだろうけどさ」 たぶん無理だろうな。だって、ジョンは君が好きなんだからね。それがジョンの抱えている問題の、一番大変なところなんだから。そういう点、エミは鈍いから、気がつかないかもしれないけどさ。 エミは学校の階段を軽やかに駆け上って行く。一番上まで行って、ふと振り返り、クリスを呼んだ。 「クリース!」 クリスは階段の上で待つエミを眩しそうに見ながら、一歩一歩階段を踏みしめ、ゆっくりと上っていった。 |
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