微量毒素

魔歌:Bonus Track 〜初めてのデート〜 p.2


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1 二日後の電話 p.1
2 待ち合わせ
3 初めてのデート p.2
4 ハルモニア
5 デートも終わりに近づいて
6 ディナー・タイム p.3
7 後朝(きぬぎぬ)の別れ、の、前 p.4

★ 初めてのデート

 公園で、他愛のない話や、大学祭の思い出話などをするうちに、二人の間に感じられた距離は見る間に解消されていった。会えなかった3ヶ月の思い出話なども交わし、あらためてお互いを非難したが、それはすでに気兼ねをしなくて良くなったことの表れでもあった。木々の先のつららが融け始め、光を受けた水滴が、乱反射してきらめき始めるころ、二人は公園を出て、喫茶店に入った。

 話はいろいろあった。エリカの両親は、ほんとうに娘に恋人が出来たことを、喜んでいるらしい。もちろん、それなりに複雑な思いもあるようだが、ボーイフレンドもできないままでいるよりはいいと考えているようだ。資産家の息子との結婚話も、本人の意思次第ということで、真剣に望んでいたわけではないらしい。むしろ、相手がいい青年なので、本人がその気ならいいというくらいの話だったようだ。イガはエリカが何をどのように思い込むのかを知っていたから、さもありなんと頷いた。

 それより、イガにとって気になったのは、相手の男の話だった。なかなかの男らしい。相手を知らないだけに、見栄をはれないのがつらい。エリカも好意を持っているようだし、どうにも、もやもやしたものが残ってしまった。今はいいが、将来はどうなるか。イガと離れて暮らし、近くのその男と会う機会が多くなり、去る者日々に疎し状態になってしまうのではないか、などという懸念もあるのである。自分の知らない時期のエリカを知っている男に対する、どうにもならない嫉妬のようなものもある。イガは心中悩ましく、エリカの話を聞いた。

 そう。離れることがいちばんの問題である。エリカは実家の地元の企業に就職を決めている。すくなくとも、当面はそこで勤める事になる。ここからエリカのところまでは片道2時間。エリカの言葉によれば、うちからここの駅までは2時間半くらい。会う機会は格段に減る事になる。

 もちろん、イガとて子供ではない。それがやむを得ない事だということはわかる。ただ、物理的に離れるというのは、よほどの覚悟がない限り、いろいろな事情を産み出し、ついには、いろいろなことが潰(つい)えていくことにもなるのだ。イガは、まだその覚悟ができるほど、今回の事態を消化できてはいない。もちろん、イガ自身はできるつもりではあったが、エリカ自身がどうか。それほど大変なことだという認識があるかどうか。それを乗り越えられるほど、イガのことを思ってくれているかどうか。こと、この件に関しては、イガはまったく自信がなかった。


「イガ、どうした。私の言う事を聞いてるか?」

 エリカが訊いてきた。どうやら、イガは黙り込んでしまったらしい。

「ああ、大丈夫。ちゃんと聞いてるよ。ただ、これからいろいろ大変だと思って、考えてたんだ」

「うん。確かに大変だ。なにせ、この町に、私の居場所はもうないんだからな。それは仕方がない」

 イガは深刻な顔をして頷いた。そう。エリカのモラトリアムは、もう解除された。エリカは、これからは自分の責任で舵取りをしなければならない。その時、自分のやるべきことは?彼女が望ましい方向に進んでいくのを、助けてやることだろう。その点において、イガはもう、モラトリアムの立場から発言することは許されない。エリカと同じく、自らの責任で、判断し、行動しなければならない。たとえ、それが、自分自身にとって、望ましくないことであっても、つらいことであっても。

「私の就職先も決まっている。イガも知ってるよね。だから、しばらくは離れ離れになる。これは仕方がないだろう」

 イガは頷いた。エリカは、イガの表情に何を読み取ったのか、覗き込むようにして言う。

「いいよね?」

 そう聞くエリカは不安そうである。イガが今やらなければなえらないのは、この不安を取り除くことだ。

「あ、ああ。大丈夫。列車の窓を開けて、飛び出してくるおまえを見たんだ。これくらいのことは何ともないさ」

「そうだよね。ずっと離れているわけじゃないんだから。会おうと思えば会えるしさ」

 エリカは、離れて暮らすことは、その先のことを考えたら、当然のことと受け止めている。その思いを支えるという、自分の果たすべき役割をこなすことの出来たイガは、少し寂しい感じを覚えていた。もちろん、これがいちばんいいのさ。それは、わかってるんだけどね...


 その後、二人は町に出た。いろいろな店をひやかして回る。エリカは、いろいろイガの好みを聞きたがった。服を2着並べて身体に当てて見せ、どちらが似合うか訊いてくる。イガは、こういうところで、こういうことをやること自体が恥ずかしくて、まともな答えを返せないでいる。苦痛かと言うと、そうでもない。なんとも、地に足の着かない、ふわふわした気分が、いっこうにイガの中から抜けてくれなかった。時間は思う以上に早く過ぎていく。

「イガ、ここに入ろう!」

 エリカが声をあげた。喫茶「ハルモニア」である。

「ああ、なつかしい。よくここで学祭の打合せをしたんだ」

「そうだな」

 イガは何回か、学祭の実行委員に混じって、いっしょに話を聞いたりした。あの当時が夢のようである。イガはふと思い出し、中の様子を窺った。

「どうしたの、イガ」

「いや、顔見知りのお姉さま方がいないかどうかを確かめたんだ」

「何で」

「いや、なんとなく。つかまると大変だと思って」

「変なの」

 エリカは、先に立ち、ドアを押し開けた。コーヒーのいい香りが中から溢れ出し、イガも誘われるようにハルモニアに入った。



★ ハルモニア

 エリカは席に着いても回りを見回して落ち着かなかった。

「だれも来てないね。会えるとよかったんだけど」

「まあ、午前中から喫茶店に来るような暇人たちとも思えないしね」

「それは、そうか」

 イガにしてみれば、せっかくの二人きりの時間である。できれば、第三者の介在のないまま過ごしたいと思っているのだが、エリカはそうでもないらしい。しきりにみんなに会いたがっていた。

「言ってくれれば、みんなに声をかけたのに。あんたが帰った後、おれはお祝い会だか、やっかみ会だかわからないのに引っ張り出されて、大変だったんだぜ」

「いいな。私はもう、そういう輪の中にいないんだ」

 寂しそうなエリカの顔に、イガは慌てた。

「いや、でも、いつでもくれば、一緒に騒げるだろ。あんたが来てから、もう一度正式のお祝いをするなんて言ってたし」

「でも、違うでしょ。私はもう、大学生じゃない。それに、他のメンバーだって、イガさんだって、いずれここを去る事になる。みんな、ここには戻れなくなるんだよ」

 イガは、エリカがそこまで考えているということに胸を衝かれた。イガ自身は、まだ先の話と思って、真剣には考えていない。エリカのように、実際に社会に出ることに直面すると、やはりそこまで考えなければいけないのかもしれない。しかし、それは一面である。


「でも、悪いことだけじゃない。社会に出て、仕事をすることで、みんなそれぞれ、もっと自分の目指しているところへ近づけるだろう。その上で、またみんなと会えば、喜びもさらに大きくなるんじゃないか。今まではモラトリアムの中で集まっていたわけだ。今度は、自分の自由意志で集まることができる。今までより、純粋な付き合いができるようになる気がする」

「イガさん」

 エリカは、イガの顔を正面から見た。いつもながら色気のない、勝負を挑むような顔だ。

「イガさんはいつも、私が行きたくなる方向を示してくれる。ほんとうは、私もずっとここにいたいんだ。でも、それは、私にとって、あまりいいことじゃないのもわかってる。わかってるけど、私はそれが踏み出せない。でも、そういう時に、イガさんが背中を押してくれるんだ。今みたいに。学園祭の時みたいに」

「いや、それほどのもんじゃないけど」

「ありがとう。イガさんがそう言ってくれたから、私は頑張る。私がいい方向へ進もうとしているって、信じてくれてるんだよね。あなたのおかげで、私はいつも救われる」

 話がまずい方向に来た。イガは、相手に感謝されるのは苦手なのだ。

「まあ、いつも一緒にいると、いろいろな女性ウォッチングを楽しめないし、こっちは、まだしばらくモラトリアムだし、それなりに楽しめるしな」

 エリカはまじまじとイガを眺めた。じっと見た。イガから目をそらさない。イガは耐え切れず、目をそらし、咳払いをした。エリカの声が返ってきた。

「本気...?」

「あんたが判断しな」

 イガは逃げた。エリカが立ち上がった。出てゆくのか、と思ったら、イガの横に来た。イガの髪をつかみ、自分の方に向かせたエリカは、じっとイガの目の奥を覗き込み、いきなりキスをしてきた。イガはじたばたしたが、どうしようもない。存分にイガの唇を味わい、離れて、エリカは唇を拭った。もう一度、エリカが顔を近づけてきた。またキスされる、と思って身を縮めたイガの耳元で、エリカは囁いた。

「浮気したら、許さないから」

 イガはとりあえず、何も言い返す言葉を考えつかなかったので、エリカに向かって頷いた。イガの頭の中では、ゴリラとサイとヴェロキラプトルが、腕を組んでラインダンスを踊っていた。ねずみとチーターがそれを見て大笑いしていた。イガは両手を上げた。

「まいった。あんたには100年経っても勝てそうにないな」

 エリカはニッと笑った。



★ デートも終わりに近づいて

 そろそろ、外が暗くなってきた。二人は喫茶店を出て、空を仰いだ。雲が出てきている。二人はそのあたりをぶらぶら歩いた。イガは、キスで先を越されたので、せめて、別れる前に抱きしめたいと思っていたが、なかなかきっかけがつかめない。

 さあ、ここだ!あ、人が来た。ええい、人がいたって!あ、女子高生の集団だ。さあ、みんな、早くお帰り。狼が出るよ...ここで一気に!ああ、小学生が塾に行くのかな。おーい、がんばれよー。おれはだめだー...

 小学生の集団に、心でエールを送っていると、エリカが時計を見ている。イガはがっくりと気落ちしながら、もっとも知りたくないことをエリカに尋ねた。

「で、帰りの電車は何時?」

「ん。きょうは泊まりだ」

 お、もう少しは時間があるような...

「ああ、アユミさんのところ?」

「今回、連絡したのはおまえだけだ。アユミには言ってない」

「じゃあ、ホテル?不経済だなー」

「しょうがないだろう。私の住まいは、もうここにはないんだから」

「俺のところに泊まればいいのに」

 イガは、つい冗談に紛らわせて、本音を言ってしまった。殴られるかと思ったが、エリカは逆に考え込んでしまった。

「その手があったか...」

「冗談だよ。冗談。たまにはいいんじゃないか、ホテル住まいも」

「そうだな、もう部屋もとってしまったし」

「じゃあ、いつまで一緒にいられる?」

「もうそろそろ、宿に行こうと思ってるんだが」

「そうか...」

 イガは気落ちした。もう、ああしたり、こうしたりするチャンスはなさそうだ...

「じゃあ、送ろう」

「うん」

 エリカは、それが当然だというように答えた。二人は駅に向かって、ぶらぶらと歩き出した。駅までは、時間をはかるほどの距離もない。エリカは途中、薬局に入った。失礼に当たるといけないので、イガはあたりを冷やかしながら、エリカを待った。その後は、さほどの話もないうちに、ホテルについてしまった。


 ホテルの前で、イガは少しためらった。これで別れてしまうのでは、あまりにもさびしい。悩んでいるうちに、エリカの方が言った。

「食事はどうする?」

「どうしよう。一緒に食べられるかな」

「何を言ってるんだ。一緒に食べられない理由なんてあるのか?」

「そうだよな。どこで食べる?」

「私はここで食べるのが楽だが」

 エリカはホテルのレストランを指した。内心、イガはまた気落ちしていた。出歩けば、またいろいろチャンスもあったろうに、と思ったのだ。だが、いじいじしていてもしょうがない。永の別れと言うじゃなし、楽しみを後に回すのも、また大人の楽しみ方なのだ、と無理に思い、ホテルを見上げた。

「そうだな。じゃ、ここで」

「イガ?なにか不足でもあるのか?」

 エリカが気がかりそうに訊いてきた。イガはとびきりの笑顔で答えた。

「いや、何の問題もない。どんな料理が出るのかが気になるだけだ」


 ロビーに入り、レストランの場所を確認した。

「ちょっと待って」

 エリカがフロントに向かった。とりあえず、チェック・インをしておこうということなのだろう。イガはレストランのメニューを見ていた。目の玉が飛び出るほど高い、と言うわけではないが、イガの普段の食生活の水準からすると、けっこう高めの値段設定になっている。財布は大丈夫だが、先のことを考えると、少し心細い。

「お待たせ」

 エリカが隣にきた。メニューを覗き込む。

「けっこう、高いけど」

「私がおごるから」

 イガは驚いてエリカの顔を見た。

「なんで。俺がおごるつもりでいたのに」

「私が誘ったんだ。おごらせてくれ」

「そりゃ、まずい。じゃ、割り勘」

「だめ。おごりたい」

「なんで。なんでそんなにこだわるんだ」

「おごりたいんだ。お願いだ、おごらせてくれ」

「そうは言っても...」

「きょうだけ。頼むから」

「きょうだけ、っていうのも何だけどな...」

 けっきょく、イガはエリカに押し切られる形で、おごってもらうことにした。エリカはエリカなりに、何か考えているのだろう。


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