魔歌:Bonus Track 〜初めてのデート〜 p.4
魔歌 | back | end |
1 | 二日後の電話 | p.1 |
2 | 待ち合わせ | |
3 | 初めてのデート | p.2 |
4 | ハルモニア | |
5 | デートも終わりに近づいて | |
6 | ディナー・タイム | p.3 |
7 | 後朝(きぬぎぬ)の別れ、の、前 | p.4 |
★ 後朝(きぬぎぬ)の別れ、の、前 |
翌朝。イガが重いまぶたを開くと、もう身支度を整えたエリカが、小さな机の前のいすに座っている。ピンクの縦ストライプのブラウスに、下は薄い茶色の、毛羽立ったような生地のミニスカートである。 「おはよう。よく眠れた?」 「ぜんぜん」 イガがまだはっきりしない頭を振って、意識をはっきりさせようとしていると、エリカが何か言葉をつなごうとして、おたおたしている様子が感じられた。イガの目がようやく開いてきた時に、エリカはようやく共通の話題を見つけ出したらしく、言った。 「スキンは足りたな」 ようやく目覚めかけたイガの頭が、がくんと下がった。 「...ああ、こちらの力不足で」 「そうなのか?」 「たぶん、冗談だ。気にするな」 「そうか」 エリカは、なにか言いたそうにもじもじしている。常にない、らしくないことだ。 「どうした?エリカ」 「んー」 エリカは言い澱んでいる。イガは察しをつけて、言った。 「きょうは帰るんだろ」 「うん...」 「仕事はいつから始まるんだ」 「仕事は4月からだけど、その前に寮に入るようなんだ。それに合わせて、研修という形で今週の末から、会社に行くことになる」 「たいへんだな」 「会社に行くようになると、当分は、あまり会えないな」 |
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エリカの気持ちが伝わってきて、イガも寂しさを感じた。昨日も同じことで寂しさを感じたが、きょうのそれのほうが強い。話題にするだけで、胸がふさがるような寂しさである。 「そうだな」 「一週間に一回はつらいよね」 イガはエリカの顔を見た。 「一週間に一回?」 「うん。どうしても、それ以上は難しいと思うんだ。仕事の都合があるから...でも、イガがどうしてもと言うなら、会社が終わってから、来てもいい。片道2時間だから」 イガはエリカの顔を見た。エリカがいとおしくなった。 「無理するなよ。俺は一ヶ月に一回くらいだと思ってたから、一週間に一回じゃ、十分すぎるくらいだ」 「十分すぎる?」 エリカの顔が翳った。またしても何か言い澱んでいる。 「エリカ?」 エリカはイガの顔を見て、言った。 「正直に言ってくれ。イガ」 「あア?」 「私は、よくなかったのか?」 |
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イガは仰向けに、ベッドに倒れた。そうだ、こいつは、こういう奴だったんだ... 「ふつう、男は女が気に入ると、毎晩でも欲しくなるって聞いた。一週間で一回でいいなんて、やはりそれほど良くなかったんじゃないのか?きのうも...」 イガは起き上がって、エリカに指を突きつけた。 「ストップ。おまえの知識は非常に偏っている。それを少し、修正しよう。その前に...」 イガはベッドから降り、エリカに近づいた。エリカは目を見開き、身を引いた。 「イガ、服をつけないと...」 「あと、あと」 イガはエリカを抱き上げ、膝の上に座らせた。エリカは少しもじもじしたが、すぐに落ち着いた。イガは左手でエリカの頭を抱き寄せ、右手でエリカの頬を包んだ。エリカの身体が慄いた。そのまま口をエリカの左耳に寄せ、耳元で囁いた。 「おまえの身体はものすごく良かったよ。一緒になってる部分が、二度と離れないでくれと思うくらいに、良かった。身体のどのラインも、なぞっているだけで気持ちよかった。唇も、耳も、あらゆる場所がよかった。おれはものすごく満足した。今も欲しがっている。わかるだろ」 エリカは真っ赤になって頷いたが、反論した。 「じゃあ、何で昨日3回しかしなかったの」 「なにを数えてるんだ、まったく。回数をこなせばいいという問題じゃない。回数は問題じゃないんだ」 「じゃあ、何が問題なの?」 イガは言葉につまった。何なんだろう。こういう時に問題なのは。 |
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「いや、やっぱり、気持ちとか、愛情とかだね...」 「言葉に重みがないぞ。本当に考えて言ってないだろう」 エリカに衒学は通用しない。イガはちゃんと自分の考えを、自分の言葉で表現しなければならない。 「いいか、俺だって初めてなんだからな。後知恵でしか言えないし、正しいかどうかだってわからない。それでもいいな? まあ、駄目と言われても困るんだが」 エリカは神妙な顔をして頷いた。 「こういうのは、どういう状況がいちばんいいのか、なんてことはないんだよ。俺とおまえで感覚はまったく違うし、色々なことに対する意識だって違うだろ。だから、二人ともそれなりによければいいんだ」 「それなりでいいのか」 「初めはな。一緒に暮らしてた親子兄弟じゃないんだから、色々神経を逆撫でされるような事だってあるはずだ。それをどこまで許せるかで、大事なつながりを維持していけるかが決まる」 「許せるかどうかが分かれ目なんだな」 「もちろん、好きあった以上、相手がずいぶんと好ましいわけだ。これがプラス側。そして、神経を逆撫でされるようなことがマイナス側。この両方を計算して、プラスになるかマイナスになるかだ」 「恋愛は計算結果なのか」 「ある意味ではね。人間はあらゆることを計算で判断している。いや、人間に限らず、すべての生き物はそうだ。いや、無生物は無条件に物理法則に従っているから、この世のあらゆるものは、自分の存在を計算で判断していることになる」 「それは、また...ずいぶんと情味がないように聞こえるけど」 「それは、これを言葉のままに受け取っているからさ。よく考えてみろ。プラス側もマイナス側も、乗っているのはほとんどが情味の部分なんだぞ」 「ああ、そうか。プラス側にもマイナス側にも、乗ってるは私の思いなんだよね」 「そゆこと。だからそれを重いと見るか、些細なことと見るかはすべてあんたの気持ち次第なんだ」 「私が...イガが、思いをどう受け取っているか、が問題だってことか」 「そう。よかったか、よくなかったかは、あんた次第で、俺次第なんだ。で、あんた自身はどうだったのさ」 |
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エリカは一瞬間を置いて、ばっと赤くなった。だんだんではなく、いきなり顔全体が真っ赤になったのである。イガはこういう現象は初めて見るので、興味深く観察した。エリカは赤くなって、言葉に詰まりながらも、エリカはこう言ってきた。この生真面目さがエリカ自身なのだ。 「ええと、誤解しないでね? 正直なところ、よくわからない。物凄くて、人生がひっくり返るほどの衝撃で、もう自分がどうなっているのかもわからないくらいだったけど、よかったのかどうかは言えないんだ。すごく嫌だったような気もするし、すごくよかったような気もする。ええい、もう、こんなことを言わなきゃなんないのか? 十年経っても、よかったのか悪かったのかなんて言えないよ」 「...なるほど」 イガはエリカの言葉が、どこにも嘘や虚勢をはらんでいないのを知って、衝撃を受けた。20を過ぎて、こんな純粋な心を維持していけるものだろうか。しかも、純粋なのに、とても強い。自らを曝け出して、なおそれを見据えるだけの力を感じられる。イガは自分自身が、この冷酷なまでに煌いている結晶を、曇らせることなく、濁らせることなく維持していかなければならないことに、恐怖に近い感情を覚えた。これは使命感であり、そして純粋な喜びである。 「とんだ玉を掴んじまったぜ...」 そう呟くイガの表情は、歓喜を通り越して、悲壮ですらあったかもしれない。エリカは気掛かりそうに、イガの顔を覗き込んできた。 「ごめん。怒った? 嫌じゃないんだよ、たぶん。でも、まだ...」 イガはエリカの顔を見返して、笑った。 「大丈夫。おまえの気持ちはわかる」 エリカは、はっとしたように身を退いて言った。 「イガも、よくなかったの?」 このタイミング。イガは深い脱力感を、深い安息と共に覚えた。この間の外しが、常に周囲を緊張から開放してくれるのだ。しかし、エリカはやはり不安そうに言った。 「私も、もっとおまえに愛されるようになりたい。どうすればいいか言ってくれ」 「今のおまえ以上になる必要はない。俺は、今のおまえがものすごく気に入っている」 エリカはイガを見つめ、ほろほろと涙を零した。 「おまえは嘘をついている」 「そんなことはない」 イガは天地神明に誓って、嘘をついているつもりはなかった。しかし、エリカは、涙の溜まった瞳でイガを見つめながら言った。 「おまえは昨日から、何度も私に付き合いきれないふうを見せた。私に、何か問題があるから、そういうふうになるのだろう? 今もそうだ。私は、おまえにそんな負担を感じてもらいたくないから言っているんだ」 イガは目を見開いた。ピコピコハンマーではなく、しっかりした玄翁でガコッと、気持ちいいほど潔く殴られた気分だった。 「この、大ボケ野郎!」 イガは自分自身を罵った。イガは、エリカ自身が、自分がイガにとって負担になっていると思うことで傷つくということを、考えてもみなかった。負担は、負わされる側だけではなく、負わせる側にとってもつらいのだ、ということを、イガは初めて理解した。不安そうにしているエリカに、正面から向き直り、イガは言った。 「不安にしたなら謝る。俺は不快を感じて、付き合いきれないという様子を見せたんじゃない。これはいわゆる...そう、お約束、って奴なんだ」 「お約束?」 「そう。漫才なんかで明らかに間違っていることをやって見せて笑いを取る、あれだ」 |
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エリカは少し不快そうに言った。 「お約束くらい知っている。私をよほどのバカだと思ってるらしいな」 「バカだなんて思っていない。少し、一般常識に疎いだけだと思ってるよ。とにかく、知っているなら話が早い。いいか、今後俺が付き合い切れないという顔をしたら、『それは、ちゃうやろ!』といっていると思いなさい。できれば、『あてのどこがあきまへんねん』と返してくれれば、それで丸く収まる」 「わかんない。何、それ」 エリカは不審そうにイガを見た。 「わかんなくてもいい。俺がそういう顔をしたら、俺がエリカの新しい魅力に気づいたってことだと思ってくれれば」 「駄目だよ、そんなの。全然納得できない...」 抗議を始めたエリカの唇に、イガは人差し指を押し当てた。エリカは虚をつかれて静かになった。エリカの瞳を間近で覗き込みながら、イガは言った。 「いちいち納得するまで追求してたら、何も前に進まないよ、仔猫ちゃん」 「...ばか...」 エリカは力なく言った。覗き込んでくるイガの目は、エリカの全身から力を奪っていた。やだ、これ。なんか、すごく...いいかも。 エリカの瞳の奥が、しっとりと潤んだのを見て取って、イガは嬉しそうにいそいそとエリカの手を取った。 「じゃあ、そういうことで」 イガはエリカを抱き上げて、ベッドの方に向かった。 「あ、あの、イガ?」 「なに?」 「何をしようとしている?」 「何を」 「何ってなに?」 「それを俺に言わせる気か」 イガはエリカをベッドに下ろす。 「それじゃあ、とてもよかったことをもう一回やろう」 「え?でも、今はもう朝だぞ。それはまずいんじゃ」 「いつでもいいんだよ」 「え?でも、服を着たままだし...」 「いいんだよ。どうでも」 「あ、でも、あの」 今は午前8時。時間はまだたっぷりある。この耳年増むすめが、これ以上おかしなことを言い出さないように、とてもよくなろう。昨日は頭に血が上っていて、ほとんど何も覚えてないけど、これからのはしっかり頭に焼き付けておこう。 「あ、あの」 わたわたと抗議を続けるエリカの唇が、柔らかいものでふさがれ、部屋は静かになった。きょうも上天気。窓の外の空は、冬にしかない清冽さで青く突き抜けている。3月の清らかさは、本当にエリカとイガの初めて迎える朝にふさわしかった。 |
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