みどろ沼
Midoronuma
現在〜少年期
李・青山華
奇妙だけど魅力的なあの子。
ずいぶん長い間待ちつづけてきた。
恐怖と魅惑の世界で。
その沼のほとりに女が立っていた。目の覚めるような赤いワンピースを着ている。女はじっと沼の水面を見ながら何か呟いている。見ているうちに女は顔を上げた。女の顔はワンピースが鮮やか過ぎるためか、沼のとろりとした色を反射してか、くすんだ緑色のように見えた。
美人、ではない。部分品の配置が微妙にバランスを崩している。しかしそのためにかえって魅力的な顔つきになっている。一度見たら忘れられそうにない顔だ。にも関わらず、冴島はどこの誰だか思い出せない。どこかで会ったような気がしてならないのだが、会っていれば絶対に覚えているだろうに。しかもどこかですれ違ったとか、誰かのところで偶然一緒になったとかいう薄い縁ではなく、過去のどこかで深いつながりの中で会っているという確信に近い気持ちである。風が向きを変え、冴島の方まで女の呟きを運んできた。女は節をつけて抑揚なく呟いていた。
「それは今日のはずなのに 確かに巡りきたはずなのに まだ来ない この場所に 誓いを立てた この場所に」
女の声を聞いた途端、冴島の全身に震えが走った。呼ばれているのは自分だ。呼んでいるのは…いったい誰だ? 冴島の心が十分な理解を求めて足掻いているうちに、冴島の足は女の方に向かって冴島の身体を運び始めた。
(これは、良くないことだ)
冴島は絶望に近い諦めの中でそう思った。そして冴島の理性は未だに状況を理解していなかった。
(何だ、これは? いったい何が起こっているんだ?)
冴島の内心の煩悶をよそに、呪いか祝いかを口ずさみつづける女の元へ冴島は近づいていった。女はふと声を止めた。冴島は近づき続けている。足音を聞いて誰だか覚ったかのように、女は華やかに振り返った。
今日に限って友達が誰もいない。ようやく夏休みの友の今日の分をでっち上げ、コウは飛び出してきたのだ。
天気はきょうもバカみたいにいい。青空と、それと溶け合わない真っ白い夏の雲。午後になるとあの雲がむくむくと大きくなって、また夕立を降らせ、雷を鳴らすだろう。でも今のところはただの白い雲。遊べる時間はまだまだある。それなのに。
コウは友達をを探し回って遊び場所という遊び場所をみんな回ったが、一人も見つけられない。神社を通り越してついにはみどろ沼まで来てしまった。
普段はこんなところまで来ることはない。ここは神域のさらに奥で、遊びに行ってはいけないと言われている。理由を聞いても大人たちは声を潜めて教えてくれない。まるでこの場所のことを話題にすることすら禁忌であるかのように。
子供たちの中で一番わけ知りのゴロウさんに聞いたら、声を潜めて教えてくれた。
「あそこは古い神さんのところだ。南から来た神さんがこの場所を取ろうとした時に、ついにとれなかったほど強い神さんの。だから行かないほうがいい。嫌われたら怪我をするし、好かれたら取り込まれる」
ゴロウさんはよく怪談話をしてコウたちを震え上がらせてくれる。それでしばらくは夜、便所に行けなくなってしまうけれど、怪談話を聞くのはとても楽しい。怪談話の時はゴロウさんはコウたちを怖がらせようとしてどこかうきうきと話すのだが、この話をしたときのゴロウさんは間違いなく神社のほうを見て、忌みごとをするかのように印を切った。
他の子供たちは本当に怖がったようだけれど、コウはそれほど怖くなかった。だから今日ここに来てしまったのかもしれない。
沼の回りは夏の山にしては静かだった。神社の境内も静かだが、それに似た静けさである。考えて見れば友だちがこんなところに来るわけがない。みんな怖がっているんだから。そう思ったところで、沼の中から水音が響いた。
驚いたことに沼の中で泳いでいる子供がいる。みどろ沼の話を知らないのだろうか。そうでなくても沼に繁殖している青みどろに足を取られたら溺れてしまう。コウは声をかけた。
「おおい。おおおい」
06年08月23日
コウが泳いでいる者に聞こえるように大声を出すと、回りの森がざわっと音を立てた。夕立の前の風に音が似ていたのでコウは空を見上げたが、空はまだ雨を運んできてはいない。青と白のコントラストがきつい空のままだった。コウが目を下ろすと、沼の中にいたものが立ち上がっていた。向こうを向いたまま立ち上がった背中は白い。いや、森を映して淡い緑色のように見える。その背中に長い髪が貼り付いている。やはり子供だ。しかも、女の子のようだ。コウはちょっと顔をしかめた。背中が見えるってことは裸で泳いでんのか。その子は身体を向こうに向けたまま、顔だけをこちらに尋ねるように向けた。
「みどろ沼で泳ぐと危ないぞ。青みどろに足を取られて沈んじまう」
女の子にわざわざ声をかけるなんてどうにもみっともなかったが、命がかかってくるとなれば話は別だ。コウはちゃんと話をした。
女の子はコウの顔を見た。大きい目がコウの目に分け入り、ちかっと光ったように見えた。
「危ないのか?」
女の子の声は今まで聞いたことのない声だった。村の子ではないのかもしれない。だとすれば、みどろ沼で泳ぐなんてバカなことをしてもおかしくはない。少し楽しんでいるような、からかっているような響きが気に入らなかったが、コウは返事をした。
「危ないぞ。だいたい、この沼は近づいちゃいけないんだ」
「ほう。ではなぜおまえはここにいる?」
知らない大人のような話し方をする、とコウは思った。
「誰もいないから友達がいるかと思ってきた。でも考えてみたら、ここに皆がくるわけないや」
「なぜ?」
コウはつまった。
「なぜって…ここは人間の場所じゃなくて、神さんの場所だからさ」
言ってからコウはつまらないことを言ったような気がした。垢抜け具合をみれば、あの子が町から来たのは明らかだ。きっと馬鹿にされる。さっきからからかうような言い方ばかりしているのは、きっとコウの物言いが田舎臭いせいだろう。つまらないことに掛かり合ったとコウは思った。でも女の子は目を見開き、コウの顔をまじまじと見た。しばらくコウをじろじろと見てから女の子は言った。
「おまえはよくここに来られたな」
「まあ、足があるからね」
コウはもう逃げてしまいたかったが、あの子を置いていって水死人が出たら心持ちが悪い。出るように説得してから帰ることにした。
「いいから沼から出なよ。ここは子供が遊ぶ場所じゃないんだ」
「私は大丈夫。ここで死ぬようなことはない」
「バカ言ってんなよ。どこのよそもんか知らないけど、土地の神さんを怒らせるとろくなことないぞ」
女の子はきょとんとして、次いで笑い出した。
「ははははは…」
その笑い声は回りを震わせるほど力強かった。コウは初めびっくりしたが、次第に腹が立ってきた。助けようとしてるのに、こんなに頭から笑われる謂れはない。
「いいから、さっさと帰れよ。本当に危ないんだから」
コウは踵を返して沼から歩き出した。水が動く音がした。
「おい、待て」
呼びつけられるのは癪だったが、無視するのも子供っぽいのでコウは振り向いた。女の子は今度はコウのほうを向いて、首まで水につかっている。
「せっかくここまで来たんだ。一緒に遊んで行け」
コウはカチンと来た。
「遊んで行けって、何だよ。だいたい人が危ないからあがれって言ってんのに、まったくわかってないじゃないか」
女の子はコウが怒っているのはわかったらしい。首を竦めて後ろめたそうにした。
「すまん。言い方が悪かった。ちゃんと説明しよう。私はこの場所の持ち主なんだ。だから私に危険はない。だから一緒に遊んでくれ」
「この場所の持主?」
女の子はこくこくと頷いた。先ほどまでの見下したような雰囲気はなくなり、期待に満ちた目でコウを見ている。
「ちょっと信じられないんだけど。みんなここは神さんのもんだって言ってるし」
女の子はちょっと困ったような顔をしたが、顔を上げて喋り出した。
「ええと、それはここの持ち主がちょっと偏屈でな、人にここに入られるのが嫌なんだ。それで入ってきた者に色々意地悪をしたんで、そういう話でここに来ないようにしたんじゃ…したんだ」
「じゃあぼくも意地悪されるじゃないか」
「いや、おまえは大丈夫だ。私と一緒だからな。ぜったい意地悪などさせない。だから、一緒に遊ぼう…な?」
女の子はコウを引きとめようと必死のようだ。それにしても女の子と二人だけで遊ぶなんて気が進まない。そう言えば…
「おまえ、裸だろ? それじゃあちょっと…」
女の子の目が泳いだ。
「裸? 裸はいかんのか…そうか、水着だな」
「ぼく、もう行くからさ。水の手につかまる前にちゃんと出ろよ」
「水の手につかまる」と言うのはこのあたりの言い方だ。溺れて死ぬことをそう言う。普通の言葉だと思っていたが、町の中学に行った兄ちゃんに聞くと普通はそんな言い方をしないらしい。どう言うかというと、「溺れた」と言うんだそうだ。
「いや、だめ。お願いだから一緒に遊んで。ちゃんと水着も着てるから」
女の子はざばっと身体を上げた。背中が見えていたと思ったのに、ちゃんと女の子の水着を着ている。ただ、色がくすんだような緑色だ。こんな色の水着をコウは見たことがなかった。女の子はそのまま水をじゃぶじゃぶと掻き分けながらコウの方に近づいてきた。
「意地悪されるなんて言われて誰も来ないから、私はずいぶんと退屈しているんだ。頼むから一緒に遊ぼう。お願いだ」
そうまで言われると、置いて帰ってしまうのが気の毒になってきた。友達もなんだか見つからないし、コウは仕方なく遊んでやることにした。
06年08月30日
夏だから泳ぐ。これは当たり前だ。いつもはプールで泳ぐのだけれど、沼で泳ぐのはそれとまったく違う。止まった水のところはヒルがいるので気をつけなければならないのだけれど、ここは少しも寄ってこない。水はきれいなのだけれど、青みどろがたくさんあって沼の底は見えない。それがとても不気味で面白い。あの下には何があるのだろう。見たこともないさかなや水の生き物、竜や河童がいるのかもしれない。それとも子供の白い骨とか。ちょっと怖くなって顔を上げると、女の子も顔を上げたところだった。
「この下って、何があるのかな」
コウは泳ぎながら女の子に言った。
「この下?」
「青みどろの下さ。全然見えないだろ。何があると思う?」
「何って…」
下を見て考え込みながら、女の子は水を跳ね散らかしもしないで水に揺られている。よほど泳ぎがうまいのに違いない。女の子は自信のなさそうな顔でコウを見た。
「おまえは何があると思う?」
そこでコウは先ほど考えた話を披露した。なるべく怖く聞こえるように脚色をしながら。コウは話しながらふとうそ寒いようなものを感じた。思っていることを簡単に口に出しちゃいけない。口に出すと、それが生きて動いてしまうことがある。そう教えてくれたのは、去年死んだばあちゃんだ。ばあちゃんの言うことは面白かったので、コウはよくばあちゃんの話を聞いたものだ。
コウは話をしながら何となく岸の方へ泳いでいった。女の子はコウの言うことを真剣に聞いていた。夜、布団の中で怖い話を聞いているときの弟みたいだ。コウは岸に上がり、足だけ沼につけてパシャパシャと水をかきまぜながら最後まで話した。女の子は首だけ水の上に出して立ち泳ぎをしている。コウの顔は見ず、どこか遠くを見ているようだ。
コウの話が終わり、少しの間、森の音しかしなくなった。この静けさはまるでいつもいるところがずっと遠くなってしまったみたいな、心細くて、しかも魅力的な気持ちを運んでくる。コウがまた新しいお話を考え始めようとしたとき、女の子が言った。
「本当にそうかもしれんな」
コウはぞくりとした。女の子は真面目で真剣だ。この話はみんな聞いて、喜んで、でも嘘っぱちだから安心していられる話だ。女の子の反応は間違っている。女の子はそんなコウの様子にも気づかず、またあっちの方を向いて話し出した。
「そしてこの沼の底には宮殿がある。そこにはずうっと昔からお姫様が住んでいて、この国を支配しているんだ。竜も河童も、あらゆる水の眷属は姫に従う。姫はとても古くて、とても強い一族の末裔(すえ)だから」
やっぱり女の子だ。すぐお姫様を出したがるんだから。でも、それってなんだか…
「お姫様は一人なの?」
「え?」
女の子は遠くを見ていた目をコウに向けた。その目に吸い込まれそうでコウはバランスを崩したが、何とか腰を落ち着けて訊いた。
「一人っきりじゃないんだろ? お父さんやお母さん、じいちゃん、ばあちゃん、兄弟や友だち、だんなさんとかいるんだろ」
「い、いや」
「何で? それじゃあお姫様は淋しいんじゃない?」
「…さびしい?」
女の子が口に出すと、風がごうっと吹いた。首をすくめて空を見ると、空は変わらずに青く晴れている。女の子は岸によってきて、するりと滑るように水から身体を出した。
「誰もいない。姫の回りには。もうみんな遠くに行ってしまった」
「死んじゃったの?」
女の子は顔を伏せ、こくんと頷いた。
「友だちは?」
女の子は顔を伏せたまま言った。
「いない。何せ水の中だからな」
妙なところが現実的だ。そりゃあ水の中には友だちはいないだろうけど。
「そりゃ、そうだよね…」
話が途切れた。しばらくコウと女の子は座って沼の水を足でかき回していた。
「ずっと昔、大きないくさがあった」
ふと女の子が言った。そして顔を上げ、コウを見た。
「話の続きだ。聞きたいか?」
聞いてほしいような、ほしくないような顔をして女の子は言った。戦争の話だもん、そりゃ聞きたいさ。女の子のくせに戦争の話なんて、なかなかいける。変な恋愛話になる惧れもあるけど、そんな感じじゃない。でも、いつの戦争だろう。この前の大戦じゃない、ずっと昔の話のような気がする。とても面白そうでわくわくする。
「聞きたい。話して」
ゆるゆると女の子の語りが始まった。
06年09月06日
もう覚えてもいないくらいすっと昔、この国を治めていた王様がいた。とても強くて、賢くて、正しい人だった。だから国のものは皆喜んで従っていた。その王国では、いつの頃からかわからないくらい昔から幸せに暮らしていた。
(それ、日本なの?)
(さあな)
でもそれまではときたま商売に来るだけだった南の方の人間が、次第にこの王国の中に住み着くようになった。王国のものは嫌だったのだが、我慢していた。南のものもいろいろ問題があるのだろうと思ったからだ。その数は次第に増え、場所によっては大きな村になってきていた。
それでも王国のものは我慢していた。実りは多いし、それを独占したいと思うほど欲深なものはいなかったから。でも南のものは深い欲を持っていた。すべてを自分のものにしたいという思いが強く、機会を窺っていたんだ。そしてある日突然それが始まった。
(戦争だね?)
(…)
その日王国の王座の前に一人の女舞がいた。南のものからの王への舞の奉納ということだった。女の舞は美しく、同時に貢がれた酒も手伝って王宮はゆったりと酔いにまかれていた。
王が舞から顔をそらし、隣の奥方に声をかけようとした時、舞姫は8尺を一気に詰め、王の胸に深々と鋼の剣を刺し込んだ。王はひとたまりもなく絶命した。舞い女は男の武人が化けていたのだ。
楽師たちも選り抜きの武人で王の死と同時に灯りを落とし、祝いの席は血にまみれた。奥方も、腹心のものたちも、多くがこの場で命を落とした。
姫もその席にいたのだが腹心の一人が護り、その場から逃げた。風のように速いその者は姫を安全なところまで運び、再び戦場に戻った。しかし南のものたちはすでに結界を張っていた。腹心は死に場所を喪い、再び姫の元に戻ってきた。
(…それで姫は? 姫は復讐のために立ち上がるんだろ?)
(…ふふ、立ち上がって何になる? 大事なものたちは喪われたのだ。何をしても戻ってくることはない。もうすべてが終わってしまったのだ)
(なんで…大事な人の敵討ちは?)
(毒するものを引き入れた報いだ。王はそれを拒むべきだったのだ。それは王の失政であり、そのために王に属していたものが滅びるのは仕方のないことだ)
(だって…そんなのひどいじゃないか。王は悪くないのに)
((苦笑)おまえがそれを言うか…)
(ぼくが?)
(南のものというのはおまえの上(かみ)ではないか)
(ご先祖さま? そうなの?)
(…まあ、そんなようなものだ)
(ご先祖が何をしたかは知らない。でも、それで? 姫はどうしたの? 腹心の人は?)
(いろいろな行き方はあったが…)
腹心のものは身を切る絶望に耐えながら、姫のいる場所をこの国に残そうとした。何千年を加しても断たれることのない強力な結界と、南のものとの契約を行い、姫が静かに住んでいられる場所を作り上げた。
(王さまを殺した相手と契約したの…)
(永遠の安全を保証するためにそうせざるを得なかったのだ)
(悔しかったろうね…)
(そのものはすべてが済んだ後に、姿を喪ってしまったよ)
(死んだの?)
(いや。姿だけがなくなり、風のようになってしまった)
(…それで姫は一人でいるんだね)
(…そうだ)
06年09月13日
女の子の話はふつう女の子がするような話に比べて本当らしすぎた。寒くはないのに、ぬるい風にあおられた肌に鳥肌が立つ。腕を乱暴にこすりながら僕はいろいろ考えていた。沼の上を風が走っていく。目には見えないけれど、さざ波がよっていくのでわかる。こんなさびしい話をするこの子は、きっと自分もさびしいんだ。家族も友だちもいないんだろう。親戚か何かの世話になっているんだろうか。その人たちに気を使って友達を作れないんだろうか。ずっとさざ波を目で追いかけていたぼくは、女の子の方を振り向いた。
「だけどさ」
女の子は不審そうな顔をする。
「結界を張って、姫は助かったかもしれないけどさ」
「うん?」
髪がかき乱されて女の子の顔を隠す。風が荒れている。
「その結界は誰も入れないんだよね?」
「ああ。誰も信用できなくなった風は、配下の者以外誰も入れないように結界を張った。この結界は未来永劫続くはずだったんだが」
女の子は語尾を口の中に含んだ。
「それじゃあ姫は、友だちを作れないよね。配下の者は姫とは友だちにはなれない。自分も周りもそれを許さないから。そしたら外から来る者しか友だちにはなれないけど、外から人は入れないんだから」
「外から来るものなぞいらない。その者は滅びを携えてくるのだから」
「そうとは限らないでしょ? 何度も言うけど一人がそうだから全部がそうだというわけじゃない」
「…それは、わからない。全部がそうじゃなくても、外から来た者一人がそうならすべては終わりだ」
「そりゃそうだけど、なら姫はどうするのさ」
「どうするか?」
「ずっと一人で千年でも過ごすの? 何のために?」
「それは…」
「何もしないで一人でいるだけなら、死んでるのと何が違うの?」
風がコウを引き倒した。夏にこんな風はおかしい。コウは思ったが、頭を強く打って意識を維持することはできなかった。遠くなる意識の中でそれを突き破るほど強い叫びがコウの意識に届いていた。女の子の癖にどうしてそんなに大きな声を出すんだろう。コウはおかしくて微笑みながら闇の中に溶けた。
06年09月20日
目が覚めると夕方だった。コウは木の陰、柔らかいコケの上に寝ていた。こんなところに寝ていたら蚊に全身食われてるぞとコウは顔をしかめたが、不思議に虫に刺された様子はない。ぼうっとしながら身体を起こすと目の前に濃い緑色の沼が広がっている。
その表面は少しも動かないので、まるでゼリーか何かのようだ。沼の表が動かないのは風がないせいだ。紅くなりはじめた空の下、風はこそりとも動かない。夏の夕方には風がふくものだ。コウがいぶかしく思っていると奇妙に反響するような声がコウの耳に聞こえてきた。
《すまなかった。おまえを傷つけてしまった》
「だれ?」
その声は知った声なのだが、その声につながる顔が出てこない。コウは頭を叩くと首の後ろがずきんと傷んだ。
「いて…」
《大丈夫か?…》
気がかりそうな声が聞こえる。大人のようなしゃべり方の癖に子供っぽいその声は。
「あ」
コウは昼間のことを思い出した。
「さっきの子だね。沼で泳いでた」
少し安心したような気配が響く。
《思い出したか。大丈夫のようだな》
「ぼくは気絶してたのか…」
コウは少し恥ずかしい。そこで気がついて周りを見回した。
「どこにいるの?」
沈黙が満ちる。
「どこにいるのさ?」
風が林の裾を回ってくる。ああ、夕方の風だ。もう家に帰らなくては。それでもあの子に挨拶しなくては。あの子に大丈夫と言わなければ。コウは立ち上がり、叫んだ。
「ぼくは大丈夫だよ。怖がらなくていいから、顔を見せて」
風が木々の葉をそよがせる。風は怖くない。風は傷つけようとはしていない。コウは風が頬をなぶるままに、髪をそよがせて周りを見ている。あの子はここにいる。なら、どうして姿を見せないのだろう。ややあって、少し震えている声が応えた。
《…今は顔を出せない》
「そっちは大丈夫なの? 怪我なんてしてない? 溺れたりしてないね?」
さっきよりさらに長い間があって、再び声が響く。
《ああ、大丈夫だ。でも…》
「でも、何?」
《なんでもない。もう暮れる。家に帰れ》
「なんでもないって何さ。ずるいぞ、お姫様」
何気なく言った一言。沼の表面がさざめいた。風が強くなってきたらしい。
「もう暮れが近いから帰るけど、また遊びに来るね」
《……》
張り詰めた沈黙。音がないのに伝わってくる何かがある。
「来るからね?」
沼のさざめきもやみ、またあたりに沈黙が落ちた。そして緑色の水面にぷくん、と泡が浮かび上がるように、もう一度声が響いた。
《…ああ…》
「じゃあ、また明日」
コウは身体をくるりと回して歩き始め、また思い出したように立ち止まり、沼の方を見た。
「ね、名前は?」
風がまた強く沼の面を乱した。何かを抑えようとするかのように。ためらいがちに声が響いた。
《名を教えることは、教えたものを抑える力を与えることになるんだぞ》
「ぼくはコウ。君は?」
風がぱたりと止んだ。聞こえてきた響きはむしろ楽しげで。
《ミド》
「ミドか。わかった」
コウは歩き始め、歩きながら言った。
「それにしても今日は変だよ。みんなどこに行っちゃったんだろう」
《友達はみんな学校に集まっている。今日はさざれの下のカンジが死んだから》
コウは振り向いた。沼は静まりかえり、生命のかけらもないようだった。まだぬるい風の中で全身に立った鳥肌は確かに恐怖を伝えていたが、コウは沼に向かって手を振り、家への道を歩き始めた。
06年09月27日