みどろ沼
Midoronuma
青年期
李・青山華
翌日はカンジの葬式の準備やらで沼に行くことはできなかった。それからもなかなか行くチャンスがないままに日が経った。そうこうするうちにコウは都会に行かなければならないことになった。親が都会で仕事をすることにしたのである。できればコウはこのままここにいたかったのだが、そんな気持ちは親の都合という大義の中では轢き潰されるしかない。あれよあれよという間に荷物はまとめ上げられ、コウはいつの間にか列車に乗っていた。
場所が変わっても子供の世界は忙しい。思い出にゆっくり浸っている暇などなく、新しい子供社会の中で居場所を作らなければならない。血の出るような思いで新しい居場所を築いているうちに、山の近くの思い出は、本の中のお話のように遠くなってしまった。ましてや一度限りの約束なども積み重なる日々の下に積み残され、記憶の彼方に遠ざかっていった。時たまテレビの画面に映る景色にふと山の暮らしを思い出したりした時に、胸の奥にちくんと感じる何かとなって残ってはいたが。
子供時代がそのまま延長されて学校を上がって行き、そして社会に出る。時間はどんどんと早く過ぎていくようになり、すごい勢いで流れていく時間の中で、いつの間にか一緒にいたい相手と出会う。コウの時間は人間の世界の中で確実に進んでゆき、そして彼女と出会った。
社会人2年生になったころに、取引先の会社のプロジェクトメンバーとして一人の女性に引き合わされた。庶務要員かと思われた背の小さい彼女はプロジェクト推進に当たってコウの数倍のパワーを発揮して、ともすれば迷走しようとするプロジェクトの手綱を見事に取って見せた。コウより4歳も上だとわかったのはプロジェクト・カットオーバーの慰労会の時だった。
彼女のバイタリティに惹かれたコウは、少し引いている彼女に個人的に会う約束を取り付け、一日を共に過ごした。容姿に対する冷静な分析から、自分が異性に好かれる性質でないと自覚している彼女にとって、コウとの付き合いは苦痛であった。しかしコウが単なる興味本位で異性付き合いをしようとしているのではなく、彼女と友人になりたいと思っていることを理解してから次第に心を開いていった。彼女の名前はミュウという。本名は美結。美しく物事をまとめあげるととれる。
ようやく「デート」という言葉に抵抗がなくなってきたが、コウとミュウの付き合いはまだまだ進展しない。原因はミュウにある。コウが自分を恋愛対象と見ているということを頭でいくら理解しても、納得できていない。年齢や容姿を考えれば、とても納得できるものではない。そんなミュウに対し、コウはごり押しをしてくる様子はなかった。そうするとやはり私に魅力がないのでは、と思ってしまうミュウがいる。自分でもバカバカしいと思うが、どうしてなかなかこの壁は厚い。気を使うのも使われるのも嫌になって、ミュウはこの感情デフレスパイラルから抜けるべく、思い切った行動をとってみることにした。コウを家に招いたのである。コウはそんなミュウの気持ちを察してか、唐突なインビテーションに不審さを持ったような気配も見せずに、ワインと寿司を持ってやってきた。
「合わない…」
「別々のタイミングだからいいのだ」
「でも、私の用意したのはシチューだし」
「別々に食べよう」
「そんなに長居する気?」
「明日、できればあさってまでいる。今日はミュウとセックスをするためにきた」
突然の直球だが、コウの態度は普段と変わらない。そのため、ミュウは思っていたよりうろたえないですんでいる。
「もうちょっといい言い方はないの」
「性行為をするためにきた」
「もっと悪いわっ!」
「どうしてもイヤか?」
コウは冷静に聞いてくる。まるで仕事の確認事項を打ち合わせているよう。こんなにドライでいいのかしら。鼻からケムリをふきながら襲いかかってくるときのセリフじゃないの? コウが冷静なので、ミュウもそれなりの言葉を吐いてみる。
「いや、別に。女が男を自分の部屋に入れるのは、暗黙の了解があるってことだろ?」
いいながらミュウはクッションを抱き寄せ、それを体の前に抱きしめる。どうみてもガードを固めているように見える。
「じゃあ、いいんだね?」
コウは立ち上がろうとする。ミュウは無意識にその反対側に身をずらす。
「ああ、こっちもそのつもりだからゼンゼンかまわないよ、うん。ホント。ぜんぜん」
いいながらミュウはもう一個クッションを引き寄せる。それも体の前に構えて目はコウを見ようとしない。コウはくすりと笑った。
「どうも心の準備はできていないみたいだね」
「あ? そんなことはないよ?」
言いながらほっとしたようなミュウに、コウはずいと近づいた。
「でも、こっちはもう我慢できないんで」
「え、え?」
コウはミュウを正面から見つめた。ミュウの横は壁。もう逃げられる空間はない。ミュウはクッションに吸収されたいとでもいうようにじりじりと沈み込んだ。コウは手を伸ばし、クッション二つを間に挟んでミュウを抱きしめた。いきなり直接触れ合ったら、ミュウは耐え切れずに逃げ出してしまっただろう。クッション二つを隔ててミュウに圧迫を伝えてくるコウは、それほど不快ではない。ミュウにとって、クッション二つ分の距離はちょうどよかったのかもしれない。
コウの手に力が入り、クッションは最小限に圧縮された。背中に回ったコウの手が熱い。いや、コウの手が当たっている部分が熱い。コウは切なそうな顔をしている。コウにとってクッション二つ分の距離はとてもつらいのかもしれない。ミュウの緊張はコウの顔を見て解け、ようやくコウの目を見返して微笑んだ。
「ごめん。これ、とる」
06年10月04日
「あの、あのさ」
「いま忙しい」
「ちょと、あの」
「だから忙しいって」
「無理だよ、どうも。ちょっと仕切り直しを」
ミュウは今現在、はなはだ不本意な状況下にいた。他人に言われるままに流されてどこに行くかわからないというのが嫌だったので、可愛くないと言われようと気にせずに自分の思う通りに生きてきた。どれほど不利な扱いを受けても、抵抗すればさらなる不利を食らいこむことになるのがわかっていたので、その中で自分に出来る最大限のことをやってきた。
そのおかげでようやく認めてくれる人は認めてくれ、自分の関われる仕事の範囲も広がってきた。コウと出会ったプロジェクトも、特にミュウを指名してくれた他部門の人がいてくれたおかげで参加することが出来た。ほとんどの人間はお茶くみ程度にしか考えてくれていなかったが、指名してくれた人の手前、いい加減な仕事をすることは出来なかった。そのためもあってか、プロジェクト終盤にはかなりの仕事を任せてもらうことが出来た。ミュウはそのようにして社会に向かって立っていたのだが。
「足。広げて」
「そんな、ムリだよ。また今度。ね?」
こんな格好はいやだ。無防備の極致だ。なんで私だけがこんな格好をしなければならないのか。
「やっぱりきついでしょ。このほうがミュウさんも楽だから」
楽じゃない。身体はともかく、気持ちは全然楽じゃない。こんな恥ずかしい格好をしなければならないのなら、このお話はなかったことに。しかしここまできてなかったことにしてもあったことはあったことで、決してなかったことにはならない。じゃあ、あんたがこういう格好をしなさいよ、といいたいのだが、こういう格好をしてもらっても事態はまったく進展しないのはわかりきっている。ミュウは正直、この状況に対応しあぐねていた。
「じゃあ」
「え、ちょ」
マテ、ヲイ。まだ準備できていない。心の底から準備できていない。こっちはものすごい準備が必要なのに、じゃあ、で次のステップに移ろうというのか、君は。当たり前のような顔をして、私の足を抱え上げて。いや、だめだ。とてもムリ。あの、あ。
「大丈夫?」
意外に大丈夫。苦しくはない。でも、これっておかしいんじゃ。初めてのときは痛かったり苦しかったりするんだよ? 何をみてもそう書いてあるよ? わたし、実は経験者? いやいや、間違ってもそんなことはない。私が保証する。でも…
「あの、あのね?」
「やっぱしんどい?」
「いや、そうじゃなく」
ミュウは少し呼吸を整えて、言った。
「わたし、初めてだよ?」
一瞬丸くなったコウの目が、一瞬後に細くなる。笑われる、と思ったミュウは身をすくめた。しかしコウは笑わなかった。
「わかってる」
コウは抱え上げた足をそっと下ろし、身体をゆっくりと近づけた。ミュウは何が起こるのかわからず、従ってされるがまま。コウの唇がミュウの目に近づいてくる。ミュウは目を閉じた。そしてまぶたにコウの唇を感じた。コウの唇は両のまぶたとはなの頭にくちづけし、そしてミュウの唇に重なった。ミュウは不本意にもうっとりとしてしまった。唇が離れ、再び足が抱え上げられる。そしてミュウはコウを、コウの動きを感じることになった。
「あ、だめ」
「だめ? やっぱきついかな」
「いや、大丈夫」
「じゃあ」
「いや」
「いや?」
「いやじゃないんだけど・・・」
いやじゃない。いやじゃないけど、こんなカッコで…
「うう。ううー」
「苦しい?」
「うー」
こいつだけこの余裕。納得できないよー。どうしてすべてこいつのペースで進むんだ? ミュウはそのプライドの高さからか、どうしても今の事態を受容する事が出来ない。素直に受容すればとてもいいことはわかっているのに、これまで積み上げてきたものが邪魔をしている。ミュウは現状を受け入れる自分の容量に限界を感じ、頭の中が真っ白になった。そしてはなはだ原始的な状況にまで自分を戻らせる事にした。すなわちミュウは自分を混乱させているものに対し、現状で出来る反撃をした。目の前にあるごついのに柔らかそうな肩の肉に、思い切り噛み付いたのである。
ばく。
「いて? い、いてー!」
ミュウは思い切り噛み付いたのだ。もう理屈じゃわからない。とりあえずぐいぐいとかみ締めた。
「ヴー」
「いてて、ミュウさん、やめろって。すごく痛いんだから」
「ヴヴー」
「いたいって! ミュウさん、おい!」
「ヴヴヴー」
「ち、血出てる…」
「ヴー」
かくして劇的な夜は更けていくのであった。
ミュウはいつの間にか眠ってしまっていたらしい。気がつくとすぐ隣に自分のものではない肉体がある。このような経験をする前は、自分のそばに他人がいるというのは気詰まりなものだろうと思っていた。でも今自分の隣にある肉体は、ミュウに何の違和感も感じさせずに存在している。ミュウはふっと微笑んだ。コウはぐっすりと眠り込んでいるらしい。ミュウは咽喉の渇きをおぼえたので、コウを起こさないようにそっとベッドから下りようとした。その時つけっぱなしだったテレビが放送を終えようとして、国旗が画面に映り、国歌が流れ始めた。その途端ぐっすり寝ていると思ったコウがすばやく起き上がった。ミュウは驚き、呼吸を止めた。コウはテレビの方を見て硬直している。
「…どうしたの?」
コウの様子が尋常ではなかったので、ミュウは少し怯えながら聞いた。
「…ああ、なんでもない。ちょっと油断してた」
「油断?」
「この歌が嫌いなんだ」
「この歌って、国歌?」
「ああ、別に国歌が嫌いってわけじゃないんだけど、さざれ石というのが何か怖いんだ。油断しちゃいけない気がする。何か忘れちゃいけないことを忘れてて、いつかそれが俺を呑み込んでしまうような気がして」
「さざれ石にねえ…」
ミュウは笑おうとしたが、沈んだコウの顔を見て笑いが引っ込んだ。コウの表情は真剣であり、茶化していいものではないということがわかったから。ミュウの頭の中のコウに関連する項目を集めたファイルに、エマ−ジェンシーサインのついた項目が一つ加えられた。今はわからなくても、いつか対面しなければならないかもしれない緊急事態に対し、油断する気はミュウにはさらさらなかった。
06年10月11日
「というわけで、俺はこの人と結婚するつもりだ」
「というわけって、どういうわけだよ」
コウとミュウの前で苦笑しているのは、コウの友人の八坂だ。誰をも差し置いてまずこの男にミュウを紹介したのだから、八坂はコウの一番の友人に違いない。ミュウはけっこう緊張してこの場に赴いたのだが。
「どうもこいつは過程をはしょるんで、何がなにやらわかりません。ミュウさんも気をつけてくださいね」
「はい…」
「まあ、はしょるけれども実務を勝手に省くことはないから、信用していれば大丈夫ですよ。詳しい馴れ初めはあとでゆっくり伺いましょう。とりあえず、おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます」
コウの事はかなり深く理解しているようだ。ミュウはちりっと胸の奥がはじけるのを感じた。これは嫉妬だ。でもどう考えても無用の感情であるのはわかりきっているので、ミュウはその感情を殺した。八坂は聞き上手で、ミュウは自分でも忘れていたような子供の頃の記憶まで蘇らせ、気がつくとずいぶん色々なことを二人に向かって話していた。
最初の予想と違って、とても楽しかった顔合わせも終わりに近づき、コウは八坂に披露宴の司会を頼もうと思っていると言った。ミュウはそこまで考えていなかったので驚いた。それが顔に出ていたのか、八坂がコウをたしなめた。
「そういう大事なことは、ちゃんと二人で意思統一してから展開しなさいね、冴島君」
「そうか…ごめん」
コウはミュウに謝り、ミュウはコウがなぜ八坂を信頼しているのかがわかった。八坂は言いにくいことをちゃんと口にしてくれる。なあなあではない、相手を思いやる気持ちが八坂にはあるのだ。
コウが次の店に行こうというのを、八坂が止めた
「初めての人間と会うと思いのほか疲れるもんだから」
と言うのだ。ミュウはまだ全然大丈夫だと言ったが、柔らかに却下された。
「どんな時でも無理はしちゃいけませんよ」
とりあえず、今日のところはここでお開きにすることになった。コウが席を外している時に、ミュウは八坂に妙なことを聞かれた。
「コウは自分の故郷のことを何か話しましたか?」
ミュウはコウの過去について聞いたことはなかった。少し考えて、八坂はミュウに言った。
「コウは子供の時の記憶があまりないようなんです。こっちに出てくる前は東北のどこかにいたらしいんですが、その頃の記憶が。その時に、なんか切なそうな様子なんで気になっているんです。機会があったら訊いてみてください。あなたになら何か話すかもしれない」
コウが戻ってきた。
「長く一緒にいることになるんだから、気になるところは早めに消しておいた方がいいですからね」
「くどいても無駄だぞ」
「俺は無駄とわかっていることはしない主義なんで」
「昔から骨惜しみをする奴だから」
「無駄な骨を惜しむだけだ」
二人の軽口を聞きながら、ミュウはなぜとなく胸が騒いだ。さざれ石のことを思い出したのだ。
八坂と別れた後、ミュウはコウの部屋に行った。部屋に入り、お茶を入れて小さなテーブルの前にぺたんと腰をおろすと、がくんと力が抜けるのがわかった。リラックスできていたつもりだったが、やはり八坂の言うとおりどこか緊張していたらしい。我が恋人はなかなかに優れた人間と友人関係にあるらしい。それはやはり本人が優れているからであろうと、他人が聞いたらどんな顔をするかわからない理論を頭の中で展開しながらミュウは八坂との会話の中で引っかかっていたことに思いを馳せた。
『コウは自分の故郷のことを何か話しましたか?』
コウは小さな頃のことをまったく話したことがない。いや、ミュウ自身も自分の子供の頃の話などそれほどしたことはない。いつでも一緒に暮らし、共有できる時間が増えてからそういう話をするのかもしれない。しかし八坂の言ったことは気にかかった。八坂とは子供時代にどんな遊びをしたのか話したのかもしれない。テレビ番組や遊びのこと、カブトムシの調達方法など、同性同士ならではの話題がいろいろな機会にされたのかもしれない。その時に八坂はちょっとした違和感を覚えたのだろう。
八坂は他人の感情の揺らぎに対する感覚が鋭い。それはきょう、数時間を過ごしただけでもわかった。その八坂が何かあると思っているとしたら何かあるかもしれない。いや、あるかないかを確認する手間を惜しんではいけないだろう。相手はこれから長い時間を共に過ごすことになるかもしれない相手なのだから。
「八坂さんって、すごくわかってるのね。ここに座った途端、すごくがくーっときちゃったよ」
「疲れた?」
「3人でいる間は全然疲れてるなんて思わなかった。リラックスしてお話できてるつもりだったんだけど」
「あいつは心理学とかやってたからな。ずっと大学に残って、たぶん教授にでもなるんじゃないかな」
「知識だけじゃなくて、感覚がすごく鋭い感じ。あんな人と一緒になったら…」
「なんでもわかってもらえるって?」
面白がっているようなコウ。
「…疲れるでしょうね。それを受け止められるような包容力のあるような女性でないと、八坂さんとは長い時間を過ごしていけない気がする」
「…八坂はさ。女性と付き合っても長続きしないんだ。
いい男だし、何があるわけでもない。いつも何となく自然消滅しちゃうみたいな感じ。八坂はずいぶん気にしてるんだけどね。自分が相手を傷つけたんじゃないかって」
「振られる方が振る方を心配するんだね」
「変な話だけどな」
「…それほど変じゃないよ。八坂さんもわかってるんでしょう。相手がいつも少しずつ傷ついていっていること」
「傷ついていく?」
「完璧なエスコートをしてくれる相手に。自分がバカに思えてきて、自分が相手の要求に応えられないことを気に病んで。嫌いになるんじゃなく、自分が相手にふさわしいかどうかを疑っちゃうんでしょうね。だから嫌いになるんじゃなくて、離れて行っちゃうんでしょう」
「何かそれ、すごく哀しいな」
「本当にね。異性に限らず、同性ともそんな感じじゃないの?」
「うーん」
コウは他人を貶めるようなことは言わない。私もそのつもり。
「だからコウは必要なのよ。八坂さんの気遣いを当たり前のように受け入れることができるから」
「それは俺が無神経だってことか?」
「それもあるけどね」
「ヲイ」
「ふだん気を使うって意識しないで気を使っている人は、受けとめてもらえないとけっこう敏感に気づいちゃうのよね。でも、そういうのを受けとめられるのって、ずっと年上で人生経験の量が段違いにある人か、ずっと年下で保護されるのが当たり前と思っている人しかいないの。歳が近いとどうしても無意識に張り合おうとしちゃうから。相手が気をつかってきたら、自分もそれに合わせて返したいと思う。それはそれでごく自然で、悪いことじゃ全然ないんだけどね」
「なるほど…」
「コウはね、すごくふところが深くて、何でも受け入れちゃうの。だから八坂さんの気遣いをごく自然に受けとめて、受け入れることができる。世代の近い友達を作りにくい八坂さんにとって、話題も合って一緒にいられてくつろげるようなあなたは、とても大事な友人なんだと思う」
「なんでそんなにわかるんだよ。俺は何年もあいつといるけど、そんなこと全然わからんぞ。もしかして、おまえなら八坂を受けとめられるのかな」
「何か今、すごく私を侮辱するような、お人好しなことを考えたでしょ。言っとくけど、ほんとにそんなことを考えたら、また噛み付くからね」
コウは慌てて左肩を押さえた。去るひとときに残されたコウの肩の噛み傷は全治3週間を要したのである。
「でも、ムリだよ。私じゃ役不足」
「…なんで?」
「似たもの同士だから」
「似たもの同士?」
06年10月18日
「同じなのよ。八坂さんほど自然じゃなくて、私は自己防衛のために気遣いをするようになっちゃったんだけどね。同じ感覚だから、わかっていてもどうしても張り合おうとしちゃう。八坂さんを受けとめるのは、私じゃとってもムリ。コウみたいに懐の深い女性でないとね…」
「自己防衛? 穏やかじゃないね。でも確かにそういうところはあるかな」
「わたし男っぽかったでしょ、付き合い始めた頃」
「いや、最初から女性らしい人だと思ってたが」
「うそつき。あなたは私がいつも気を張ってるところをほぐしてあげたいって思ってたでしょ」
「そんな風に見えた?」
「いいえ。それは付き合って、いろいろあって、やっとわかってきたの。あなたは私がいらないところまで張りまくっている防衛線をいくつかでも解除してくれようとしてたから。」
「いや、あまり考えておりませんが…」
「考えてないからいいのよ。考えてそれをやられたら、八坂さんの相手のように自分も気をつかっちゃうじゃないの。天然だからいいの」
「何度も言うようだけど、褒め言葉?」
「だから私と付き合うようになっても、八坂さんを捨てちゃ駄目よ。八坂さんにとって、あなたはオアシスなんだから」
「捨てるって…いや、そんなことはしないけどね」
「私は私以外の人を私にするようにみてほしくないけど、でもそれを出来るからあなたが好きなんだからね」
「おお、初めてそんなにストレートな愛の言葉を聞いた気がする…」
「そういえばそうね。何でこんな時に…」
「愛してるよ、ミュウ…」
にじりよるコウを、ミュウは手で押さえた。
「そういう流れで何かしようとするのはNGです。それは後でね」
「むー」
コウは不満のようだった。だが、こんなことで甘やかす気はない。何よりも、本筋はここからなのだから。
「八坂さんのことはわからないけど、私が何であんなに自己防衛をするようになったかに興味はない?」
「ない」
すねているようだ。
「聞いてね。もう会ったんだから、私の親がどんな感じかはわかるわよね。私の自己防衛は親のせいなのよ」
コウは少し驚いたようだ。
「え? いい感じの親御さんだよ? なんでそんな風に言うのさ」
「いい感じなのよ、両親とも。でもね、人はまったく意図していないことで他人を傷つけていたりするの」
「傷つける…か。そうな、それはあるかもな…」
「子供の頃、おとうさんがほんとに冗談で男の子だとよかったのにと言った事があってね。一緒に遊ぶ時にいろいろ教えられるのに、と言ったのよ。親にしてみればほんのちょっとした冗談だったんだろうけど、いい子だった私は頑張っちゃったんだよ」
コウは何も言わずに痛そうな顔をしていた。
「私はおとうさんが教えるような遊びを覚えようとしたの。女の子のするような遊びをするとおとうさんが悲しむと思ってさ。だからって女の子と遊べないなんてことはなかった。男だから、女だからって楽しい遊びはそんなに違わないんだよね、実際のところ。だけど私は明らかに男のこの遊びに偏ってたの。こだわってたって言えばいいのかな。とにかく、そんな感じ」
コウは黙って頷いた。
「そしたらある日、親が今度はこういうの。この子は男の子みたいな遊びばかりしたがる。将来苦労するんじゃないかって。私の気持ちがわかる?」
コウは黙って手を伸ばし、私の頭に大きな右手を置いた。とりあえずそのまま、何も言わないし、何もしない。私はふいに泣きそうになったけど、ここはまだ本筋じゃない。私は言葉を続けた。
「ま、そんなことがありましたよ。だから人との交流にちょっと壁を作るようになってしまったわけ」
コウは言葉を選んでいる。でもこのことについては私は大丈夫なのだ。もうそれなりの解決をしてしまっているんだから。
「でも、今はいろいろとわかってきたから大丈夫だよ。コウとも会えたしね」
「うそをつくな」
コウは言った。あまりに自然だったので、私は不意に緩んでしまった涙腺を制御し損ねた。さて、いい歳をした女がわんわんと泣き、男に身を預けているなんて図は私の美意識と大いに隔たっているので、ここは省略する。とりあえず落ち着いてきて、私はようやく今日の本題にたどり着くことができた。
「コウはどんな風に育ったんだろ。どうしたらこんなに安心できる手のひらが出来るんだろね」
「ごく普通に育ってるよ。ミュウの親よりいい加減な親の下でね」
「コウは小さい頃は東北にいたんだって? 八坂さんに聞いて初めて知ったよ。どこにいたの? どんなことして遊んだの?」
「俺がどこにいたか?」
コウはしばらく記憶を追っているようだった。
「○○。俺はあそこで産まれて育った。小学生の頃にこっちに来た」
コウは自分の顔を見られないだろう。だから今どんな表情をしているか気づいていないはず。私は必死で平静を装った。うまく行っている自信はなかったが、コウは気づかなかった。私がうまく隠しおおせたのではなく、コウ自身が私の様子など気にかけている余裕がなかったのだろう。それからしばらく、コウは何かを探っているようだった。十分。いや、30分。もっと長かったかもしれない。私はこの沈黙の時間に耐えた。私は自分で思っている以上に強くなっているらしい。そして私は八坂さんの懸念を受け入れた。
コウは何かを隠している。
いや、コウは何かに憑かれている。
06年10月25日
結局コウはその日はそのまま家に帰った。数日後、コウから会社に連絡が入った。こんなことはめったにない。事情を知っている同僚に冷やかされたが、私は今日のミーティングがそれほど愉快な話ではないだろうことを知っている。退社後、何度か利用した喫茶店に向かった。空はまだ光を残している。
店に入るとコウは奥のほう、窓から離れたところに座っていた。いつもは必ず窓側の席に座るのに。コウは私に気づくと頷いた。その席までの距離が妙に遠いようで足が萎えてしまうような気がしたが、私の気持ちに関わらず私の足はきちんと私をコウの前の席まで運んでくれた。
今日はデートではないからここに長居することはない。私はブレンドを頼み、コウの顔を正面から見据えた。
「何かな? 今日は」
「○○に帰ってみたいんだ」
やはり。私は自制力には長けている。少なくとも、そのつもりだ。
「里帰りでしょ。別に呼び出して断るほどのことじゃないんじゃない? でも、コウの家はもうあっちには残ってないんだよね?」
「ああ」
「それでも帰るのね」
「……」
「一緒にじゃ、いけない?」
コウは真剣に考え込んでいる。連れて行ってくれる気なら即答してくれるだろう。連れて行ってくれる気がないのに即答しないのは、コウ自身がなぜ連れて行けないかがわかっていないから。だとしたら、考えてもらうだけ無駄だ。
「わかった。行かない。一人で行ってきて」
コウは私に尋ねるような視線を向ける。いや、ムリだから。わかって言ってるんならこんなに胸が騒がない。
「今は一人で行ってきて。その方がいい気がする」
コウは黙って頷き、目の前のコーヒーカップを口に運ぶ。もう中身が入っていないのに。それから大した話もせずに、私たちは喫茶店を出た。私はコウと向かい合った。
「いってらっしゃい」
「ほんとに一緒に来ない?」
「来週の会議の準備もあるし。今回は行かない」
私はついていってはいけない。コウの秘密を一緒に覗き込んではいけない。コウが自分で対決して、自分の中で解決して、自分の言葉で語れるようになってから聞かせてもらうべきだ。なぜならこれは、コウが私と会うずっと前に起こっていたことなのだから。私はコウを信じる。コウは私のところに帰ってきてくれる。コウはそういう男だし、そういう男だから私はコウを選んだのだ。でも、それでも。
私はコウを抱きしめた。コウはされるがままになっている。いつもいたずらな指も、今日はおとなしい。
不安はある。富士山よりも大きいような不安が。コウを行かせたくない。でも、行かせなければコウのこの不安は消えることはない。生涯コウのどこかを痛くし続けるだろう。私の噛み後などよりはるかに、はるかに長い間。私はコウから身体を離す。
「でも、ちゃんと帰ってくるんだよ」
コウはどこか不安そうに、それでも微かに頷いた。これでいい。私はこれだけあれば、コウを信じて待っていられる。私は顔の横で手を振り、駅に向かって歩き出した。いつも通りを心がけて、流れ出した涙を気づかれないように。幸いなことにもうあたりは暗くなり始めている。闇を押しのけようとする灯りやネオンもまだつく前。この時間だから、私は何も気にすることなく歩いていける。
06年11月01日