微量毒素
おはなし
目次
現在〜少年期
青年期
そして再び現在

みどろ沼

Midoronuma

そして現在

李・青山華
 振り返った赤い女はコウの顔を認め、華やいでいる。コウはミュウと別れたのがほんの数日前だということが信じられない。長い距離を越えてこの場所に来たことで、とても長い時間が過ぎ去って行ったように思える。
「ずいぶんと待たせるものだな」
 女の赤い唇が動く。木と草と苔の緑の中で、補色になる赤はみだらに過ぎる。沼の水面も昔どおりにとろりとした緑色である。この沼で泳いだのか。コウは不思議な思い出を呼び覚まされていく。コウの中で時間が驚くような速さで巻き戻ってゆき、過去のある一点に近づくほどにそのスピードが緩やかになる。
「……ミド」
「覚えていてくれたか」
 女はぱあっと笑う。あたり一面がさざめくような笑い。ミドは本当に、ほんとうにコウを待ち続けていたのだ。また来るというコウの言葉のままに。コウはミドに強く哀しいシンパシィを覚えた。
「ごめん。あれからここを出て、来ることが出来なかった」
「わかっておる。配下が教えてくれた。おまえが列車に乗って離れていったことを」
「配下…? じゃあ、やっぱりあの話は本当だったのか。あの時も作った話とは思えなかったけど…」
「風にとってもおまえの行った先は遠すぎた。西の黒岳より先へは追えなかったよ」
「じゃあ知らないんだな。今の俺のこと」
「おまえは帰ってきてくれた。それでいいではないか」
「俺は帰って来たんじゃない」
 女は眉をひそめた。
「帰ってきたんじゃない…?」
「俺は結婚する。その前にここでやり残したことがあるような気がして戻ってきたんだ」
「けっこん…」
 女の目が緑色に変わる。瞳孔が閉まったのだ。突然コウは風に強く煽られた。
「待っていたのに!」
 コウの周りの草木がごうごうと揺れ動く。
「また来るって言ったのに!」
 女は身のうちから絞り出すように叫ぶ。女の、ミドの烈しい心がコウにぶつかってくる。コウはそれに対峙して少しも引かない。引くまいとして引かないのではなく、その心をすべて呑み込んでいるのだ。コウはミドの哀しみ、ミドの無念をすべて受取ろうとした。ミドは泣いている。泣きじゃくっている。その哀しい心があたりを揺り動かし、風を巻き起こす。しかしコウは倒れない。荒れ狂う心は、それでもコウに直接ぶつけられることはない。それは、ミドがぶつけまいと思っているから。耳を聾して荒ぶる自然に向かい、コウは立っている。逃げることはしない。戦うこともしない。これは約束だし、いつか果たされなければならないことだったのだから。
「ミド、俺は遊びに来たよ。約束どおりに」
 ミドははっと顔をあげた。風は吹き狂っているが、ミドはコウの顔を見た。
「約束だよ。また遊びに来るという」
 ミドはコウの顔を見つめ、大きく開いた目からぽろぽろと涙をこぼした。風はついに吹き静まり、ゆるやかにツユクサを揺らした。そしてミドの全身から力が抜け、ミドは小さな少女の姿に戻った。
「…びっくりした」
 コウが言うと、ミドは地面に目をやりながら呟いた。
「力を使いすぎたらしいな…」
 コウは腰を落とし、ミドの目線と自分の目線を合わせた。ミドは意地を張るようにそっぽを向いているが、その横顔には微かな諦めが見えている。それがまた哀しい。
「わかってくれたんだな」
「…約束はまた遊びに来ることだ」
「ありがとう」
「でも、だめなの? 婿になってはくれないの?」
「だめだ」
 また泣きそうになるミドに、コウは語りかけた。
「一人は寂しいだろうけど、俺を連れて行っても幸せにはなれないよ」
 きっと上げたミドの目はコウを突き刺す。その哀しみはコウにもとても痛いけれど、これはきちんとミドに伝えなければならない。ミドの幸せを奪ったものの末として、ミドの幸せを願うものとして。
「おれもミドと一緒にいたいと思う。でも、俺はミドではなく他に一緒にいたい人がいるんだ。その意思を無視して連れて行くならミドは侵略者と同じになってしまう。俺は幸せじゃないし、ミドも本当の意味で幸せにはなれない」
 ミドは下を向いている。理解はできても、納得はできないのだ。しかしミドは力でコウを連れていこうとはしない。納得できなくても、理解できたことをしなければいけないということはわかっているのだ。
「俺はミドに会ったけれど、ミドと一緒にいる人間ではなかった。ミドが会うべき人はきっと他にいる」
 ミドは紅いサンダルの先で、地面を掻いている。何百年も一人で生きているから、受け入れたくないことを受け入れるのにも狎れてしまうのだろう。コウは何とかミドを受け止めてやりたかったが、その役目が自分のものでないこともわかっていた。それなら、せめて自分が出来ることをするしかない。コウはミドの顔を正面から見て言った。
「また来るから」
 ミドはコウの方に目を向けない。そしてふてくされたように言った。
「詮無いことを。また縛られるぞ」
「これは約束だ。俺は必ずまた来るよ」
 ミドは顔をあげてコウの目を見た。疑うような、問いかけるような瞳。
「縛られようと縛られまいと、俺は来るから。ミドに逢いに来る」
 ふっと目を落とし、ミドはささやくような声で言った。
「おまえが永遠に栄えることを祈っておるぞ」
「ありがとう。ミドもきっと幸せになるんだよ。今度は彼女を連れて遊びに来るから」
「ここには来られまいよ」
「来られるさ。絶対に」
06年11月08日
 千年も前から何も変わっていないかのように、すべてが静けさに満ちている。陽は既に傾き始めているが、夏は暮れ始めてからがとても長い。空が緋色に染まるまではまだまだ時間がかかるだろう。少し彩度の落ちてきた景色の中で、沼のほとり、苔むした岩に少女は身じろぎもせずによりかかり、立っている。顔は下を向き、その表情は窺うことができない。太陽が山の陰を目指してじりじりと進んでいく音が聞こえそうなほどの静けさがあたりに満ちている。
長い長い時間の後に、沼の上を微かな風が走った。波紋にもならないほどの揺れが水面を伝わる。少女はそれを受けるようにゆっくりと顔を上げた。
「結界を外そうと?」
 少女は異界の音を聞こうとするように顔を少し傾けている。そして薄く微笑んでから言った。
「このままでよい」
 風が巻き、水面を乱す。その波紋がゆっくりと沼全体に広がっていく。
「外から客を入れるためにか…」
 少女は頬に笑いを含む。風はゆっくりと回っている。
「いや、やはりこのままでよい」
 風は沼を渡ってきて少女の前髪を揺らす。少女は首を振った。
「私はこのままでよい。嫁き遅れの北の姫のように慌てて異人を迎えようとは思わぬ」
 風はいらだったように走り、少女から一番遠く離れた沼のガマを強く揺らした。その様を見て、少女はほがらかに笑う。
「あの者はきたではないか」
 風はまたしめやかに沼の上を遊弋する。
「千年に一人、か。たしかにな…」
 姫は黙って沼を背に歩んだ。そして立ち止まり、背を沼に向けたまま謡うように言った。
「それでもあの者は来たよ、幾重もの結界を越えて」
 風はゆっくりと沼を巡る。
「あの者はいいものだった。だからこそ結界を越えてこられたのだ。そうではないか?」
 姫は静かに続ける。自分自身にも言い聞かせるように。
「だからこの結界が確かな者のふるいとなろう。待とうではないか」
 少女は顔を上げ、目に見えぬうちに藍を加えつつある空を見上げる。
「おまえの作ってくれたこの結界はよく出来ておる。守りのためだけでなく、婿取りにも使えようとは」
 沼の中で、何かが水をあおる。
「時間…? そう、時間はかかるであろうな。なお千年。それでも足りぬかも知れぬ」
 少女は目を落とし、すでに黒い影になりつつある森と野をみやる。そしてためらいがちに目を沼に向けるが、目は沼を見ていない。
「もちろん、おのしは我についていてくれるであろ? どれほどの時を隔てることになろうと…」
 風は渦を巻き、沼の中央の水を巻き上げた。姫はふっと微笑み、そして思案するように横顔を沼に向けた。その横顔は強い意思を見せている。
「我は婿を待つのだ」
 姫は沼を振り返った。
「これは大きな望みだ。こんな大きな望みを持って待つ我は、まるで死んでいるのと変わらないということではないであろ?」
 姫は振り返ったままに、いたずらっぽく笑った。空は絢爛に、金糸銀糸と緋色の糸を織り上げてゆく。静かな結界に守られた千年王国は、華やかに染め上げられ、次の千年への新たなる約束を得て、湧き上がるような光に包まれていた。
06年11月15日
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このお話は解毒散【 an antidote powder 】の99号(06年08月23日)から111号(06年11月15日)にかけて連載されました。

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