青の魔歌 〜ガーベラ〜 p.1
魔歌 | start | next |
1 | イガとムサシ、決闘をする。 | p.1 |
2 | Old fashioned love song | |
3 | イガ、ムサシを無視する。 | |
4 | 朝のバスケ。 | |
5 | ガーベラとコウガ、昼休みにデートする。 | |
6 | ムサシ、クワノ、ハヤシ、イガを心配する。 | p.2 |
7 | ルカ、ムサシを問い詰める。 | |
8 | ガーベラ、コウガを撒く。 | |
9 | イガ、ルカと会う。 | |
10 | 夜遊び。 | p.3 |
11 | ガーベラ、イガの心を読む決意をする。 | |
12 | イガ、ムサシに決闘を迫る。 | p.4 |
13 | ルカ、ムサシに迫る。 | |
14 | ガーベラ、コウガの心を読む。 | p.5 |
15 | ガーベラ、故郷を離れる。 | |
16 | コウガ、ガーベラと別れる。 | |
17 | ムサシ、イガと決闘をする。 |
青の魔歌 〜ガーベラ〜 |
李・青山華 |
★ イガとムサシ、決闘をする。 |
少年が歩いている。木々に囲まれ、舗装もされていない道である。下生えが道まで葉先を伸ばし、人間の交通路を侵略しようと窺っている。動物よりも植物の力が強い界域である。人間が定期的に真摯に手入れしているために、まだ人間の領域に属しているが、少しでも気を緩めたらあっという間に植物に飲み込まれてしまうようなエリアを、少年は力強く歩いている。前方に鎖で通行止めがしてあるが、躊躇もせずに少年はそれをまたぎ越え、ぽっかり空いた広場に出た。 コンクリ造りの小さな建物があるが、このあたりの水路を調整するような機械が納めてある、機械室のような建物である。これがあるために、前述の道も手入れされているのである。ここも時々徹底的に整備されるらしく、植物の侵食から免れた、一種不思議な空間である。少年は周りを見回し、片方の眉をしかめた。 「イガ.。きたぞ。」 言うと同時に建物の上から、もう一人、人間がふわりと飛び降りてきた。地面についてもほとんど音を立てない。軽いウェーブのかかったようなくせっ毛で、目つきの鋭い少年である。 「下で待っていたら、藪蚊がうるさくてな。上なら日が当たるからましだろうと思ったが、あまり変わらなかった。」 「じゃあ、下で待っていればよかったのに。」 「降りるのが面倒くさくなった。まあ、苔も生えててちょうどいいクッションがあったからな。」 「ご苦労様。」 くせっ毛の少年はもう一人の少年を睨みつけた。睨みつけられた方は、けろりとしてその目を受け止めた。直毛を分けた、ごく普通の少年である。顔全体は今にも微笑みそうな、やわらかい雰囲気を発している。目が、好奇心に満ち溢れてきらきらと輝いているような、何をしでかすかわからない、悪ガキの顔である。 「しかし、イガ。今時、果たし状はないだろう、果たし状は。思わず噴いてしまったぞ。かばんに手紙が入っているから、ラブレターかと思ってわくわくしたのに。」 「あれ以外に適当な手段が見つからなかったんでな。おまえはいつも逃げまくる。」 「そうなんだ。来なきゃよかったと、今心の底から思ってるんだが。」 「学校でなければ、おまえは来ると思ったんだ。」 「よかったね、おれが来る気になって。」 「ああ。」 くせっ毛の少年、イガは、別に冗談とも思っていないようで、そのままに受け止めたようだ。 「それで?」 「得物はおまえが選べ。まあ、選ぶほど用意していないが。」 「せっかくお招きにあずかったんだから、そちら様で選んでくださいませ。何事も、よきように。」 答えを予期していたかのように、イガは建物の陰から、木刀を2本持ち出した。 「木刀だ.。好きな方を選べ。」 「どっちでも。」 イガは一本をムサシに投げた。ムサシはそれを受け止め、正眼に構えた。イガは建物に寄りかかり、学生服のボタンを外し始めた。ムサシは木刀をしごき、振り下ろしてみた。空気を切る鋭い音が、生き物の気配でざわざわする森に響く。ムサシは呟いた。 「おまえもやっぱり、おれの得意な得物を用意していたな....」 イガのボタンを外す手が早くなる。ムサシは振り向きざま、袈裟懸けに木刀を振り下ろしたが、イガが投げつけた学生服に視界をふさがれた。かまわず振り下ろした木刀は、学生服ごと残心まで満たしたが、そこにイガの姿はなかった。イガは学生服を投げつけた瞬間に、空中に飛び上がっていたのだ。上からイガの第一撃がくる。ムサシはかろうじて受けた。イガの足が地面につく瞬間に、ムサシはその足を払った。イガは不意をつかれ、地面に転がった。ムサシはいっそゆっくりととでもいいたくなるようなスピードで木刀を上げ、一気に振り下ろした。イガは刃の側で、双手を副えて受けた。すさまじい衝撃が走り、イガの顔のすぐ横に、折れた木刀が叩きつけられた。ムサシは剣を引き、スッとイガのそばから離れた。イガの手は斬撃の衝撃には十分持ちこたえていたが、むしろ衝撃は顔に表れていた。 「折れた....?」 イガは信じられないという顔をして、そのまま横たわっている。ムサシは何も言わず、イガを眺めている。 「...すまん。おれの手落ちだ...」 イガはのろのろと立ち上がり、折れた木刀を拾い上げた。 「気にすんな。よくあることさ。」 ムサシは、イガの学生服を拾い上げ、投げやりながら言った。イガはそれを受けながら言った。 「武器が壊れて、それがこっちの用意したものだったんだ。気にしないわけにはいかない。」 イガはムサシの投げ捨てた木刀を拾い上げ、折れた原因を確かめようと折れ口を眺めた。ムサシは音を立てないように、こっそりとそこを離れた。 「ん?」 イガは折れ口を見て、不審な点に気づいた。折れて毛羽立った部分が、片側に偏っているのだ。まるで、木刀を横向きにしてへし折ったような...。 「ムサシ?」 疑問を口にしようとしたイガは、すでにムサシがこの場にいないことに気づいた。ムサシはすでにはるか彼方まで遁走していた。 「ムサシ、おまえ、打ち込む瞬間に横向きにして打ち込んだな...?」 木刀も刃筋で打てば、めったなことでは折れない。横向きにすれば。それでも、尋常な力では無理だが、折れないことはない。意図的にそうしたことは、ムサシがここからいなくなっていることから、間違いないと想像できた。イガの手は折れた木刀を握り、ぴくぴくと震えた。 「ムサシの、」 イガはここで大きく息を吸い込んだ。 「バカヤロー!」 思い切り悪態をつくイガは、歳相応の、14歳の少年にしか見えなかった。 「木刀だって、安くないんだぞー!どうしてくれんだ。このイカサマヤロー!」 少年の精魂を込めた叫びは、深い森の中に吸収されていった。夏から秋に向かう森は、生き物の気配でざわついていながら、透明度を増し始めた空気の中で、実りと、滅びへ向かう次のステージの準備を始めていた。 そのころ、ムサシは田んぼの畦道を走っていた。がむしゃらに、ではなく、のんびり、でもない。かなりのペースでありながら、地面を踏みしめ、地面を、地面のぬくもりを感じながら、身体全体を使って走っていた。自分の思い通りになる身体。これだけがあればよかった。他にもいろいろあるのかもしれないが、ムサシは今は走るだけで満たされていた |
![]() |
★ old fashioned love song |
部屋の中には、香ばしいシチューの香りが立ち込めている。小さな声で古いラブソングを歌いながら、若い娘がゆっくりとシチュー鍋をかき回している。長く伸ばした髪はまとめられ、少し飛び出した髪がくるくると丸まっているのを見ると、けっこうなくせっ毛のようだ。幸せな香りに包まれたマンションのドアが開き、イガが入ってきた。手には2本の木刀を持ち、一本はもちろん折れている。イガはそれを玄関脇の笠立に放り込み、靴を脱いで上がってきた。娘は上を向くように振り返り、声をかけた。 「お帰り、シン。」 「ああ。」 イガは短く答え、ダイニングセットのいすに腰を下ろした。ガーベラはエプロンをひるがえし、イガの後ろに近づいた。そしてイガの両頬をつまみあげ、言った。 「帰ってきた時はね、シン。ただいま、っていうのが礼儀なのよ。知ってた?」 「やめろよ、姉さん。」 イガはガーベラの手を振り払った。すかさず、ガーベラはイガの口の中に指を入れ、左右に広げながら、さらに言った。 「あのね、ただいまって言うの。それがイガ家の礼儀作法なのよ。」まったく妥協する気はないらしい。 「わわうわ、わわりわりら。ららいま。うるらりいおれえらま。」ガーベラは手を離し、エプロンで手を拭いた。 「そう、それでよろしい。」ガーベラはここで、あごに指を当てて少し考え、言った。 「なんか、元気がないみたいね。」 イガはむりやり挨拶をさせられたので、少しむっとしているらしい声で切り返した。 「お姉さまはご機嫌がよろしいようで。」 そして二人は同時に言った。 「またムサシ君との決闘が中止になったんでしょ。」 「またコウガさんとデートしたんだろ。」 二人は黙った。さきに口を切ったのは、ガーベラの方だった。 「まあ、やだわ、シンったら。大人のデートをからかうなんて。」 イガはあーと言う顔をして、テーブルの上に伸びた。 「大人って、おれといくつ違うんだよ。ったく。いいよな、しあわせいっぱいの人はさ。」 しかしガーベラは、イガの軽口には応えず、テーブルに突っ伏したイガを、憂いのこもった瞳で見つめていた。 「ねえ、イガ。なんであの人はだめなの?」イガは顔を上げ、ガーベラに向き直った。 「誰もだめだなんて言ってないだろ。」 「わかるわよ。そのくらい。ねえ、シン。どうしてあの人は駄目なの?」イガは姉の顔から目をそらした。 「…わからないんだよ、おれにも。でも、なんかよくない感じがするんだよ。」 「どういうことなのよ...」 ガーベラは途方に暮れていた。イガの思いがどこから来るものかわからないから。 「シスターコンプレックスみたいなものじゃないってのはわかるのよ。」 「あたりまえじゃ。」 「じゃあ、何で?何であの人は駄目なの?」 「俺だって知りたいよ。なんでこんな感じがするのか。でも、感じる以上、やっぱり慎重に対処しないと...」 ガーベラはイガに言うでもなく、歌うように呟いた。 「あの人は今まで会ったどんな人とも違うの。ぜんぶがきれいに調和して、整っていた。大きくて、暖かい人。その後ろに暗いものがあるけど、私ならそれを埋められる。この世界で、一番会いたい人に会えたって感じたの。」 「そこまで思ってるんだったら、やっぱりとことんやらないとな...」 イガは呟き、ガーベラを見た。 「姉さん。俺の心、読んでみてくれないか。なぜなのか、俺も知りたい。」 ガーベラははっとし、身を引いた。イガはガーベラの様子には構わず、言葉を続けた。 「駄目よ。いいことじゃないわ。それに、もう出来ないかも。」 「今回のは、今までと違うんだろ。どうしても、なんとかしたいんだろ。だったらトライしてみる価値はあるんじゃないのか?」 ガーベラは言葉を選んで、押し出すようにしゃべった。 「ただでさえ見たくないものを、なぜ見なくちゃいけないの?見えなくてもいい、いや、見ないほうがいい汚いものを、私は見過ぎた。もう、これ以上は絶対に見ないって決めたんだから。それでも少しは見えてしまうけど、ずっとまし。」 「俺は身内だろ。だいたいはわかってるんだから、そんなにひどいことにはならないんじゃ...」 ガーベラは振り向いてイガを見た。その視線の強さと冷たさに、イガは全身の血が冷えた。 「身内だから?身内だから余計おぞましいかもしれないわよ。まだ、よく物事がわからないうちに、身内の心も読んだことがあるけど、変わんないわ。みんな同じ。でも、こちらが信じている分、もっとつらかったかな。小さいころのおまえの心は、とっても可愛かったけど...」 イガは、こんなに虚無的な姉の姿を見るのは初めてだった。少なくとも記憶にある限りでは。しかし、このままでは、ガーベラは一生こんな思いをして生きていくことになるのだ。イガとしては、もう少し頑張ってみるしかなかった。 「俺の心もおぞましいかもしれないけどさ、このままでいいのか?俺の勘だって、外れるかも知れないだろ?」 「外れたこと、あるの?」 今日のガーベラはやっぱりおかしい。いつもはこんなに感情を剥き出しにしたりしない。 「ないよ。でも、原因はそれぞれなんだから。対処可能なものかもしれないだろ。」 ガーベラはテーブルをドン、と叩いて言った。 「対処不可能だったらどうすんのよ!」 イガはあっと思った。それもあるのか。ガーベラもそれが怖かったのか。だから、常になく、荒れているのか。 「でも、今のままなら対処不可能なのと変わんないだろ。それに、対処不可能な問題点なんて、そんなにあるわけないよ。」 イガとコウガの相性が悪い程度なら、イガが出てゆけばいい。酒乱の気があるでも、危ない趣味があるでも、対処できないことはない。血液型や体質の不適合がある場合でも、何かを犠牲にすれば、何とかなる。ほんとうに対処不可能な障壁など、そうそうあるものではない。とにかく、何をするにしても、何が問題なのかを見極めなければ先に進まない。イガはそう考えていた。そのために、自分のおぞましい心がガーベラに知られてしまうぐらい、我慢できるだろう...たぶん... 「人の心から漏れ出す醜い思いを、私はずっと見続けていた...見過ぎるほどに、見てきた。そんな時に、あの人に会ったの。あの人の心、きれいだった。よく全てが抑えられ、コントロールされていたの。だから魅かれたのよ...」 「だったら、やっぱりなおさらわからないと困るだろうが...」 イガは立ち上がり、上着を掴んで立ち上がった。 「とにかく、考えておいてくれよ。とりあえず飯を食べよう。」 イガは荷物を持ち、自分の部屋に去った。ガーベラはダイニングテーブルの椅子を引き、静かに座った。肘をテーブルにつき、両手で顔を覆った。 「わかんないよ、わたし...」 シチューの幸せな香りでいっぱいの部屋の中で、ガーベラは、彫像のように動かなかった。外は次第にたそがれを迎え、人々の流れはそれぞれの家に向かい始めている。遠くで、子供たちがさよならと言い交わす声が聞こえた。 |
![]() |
★ イガ、ムサシを無視する。 |
今日はよく晴れている。始業時間までにはまだずいぶんと間があるが、クラスの半分ほどはもう学校に来ている。そこここでグループを作って、それぞれの話に熱中している。ムサシのグループは、男女混合である。これはなかなか珍しい。この年頃だと、男女は意識して別のグループを形成することが多いのだ。 このグループが男女混合になっているのは、理由がある。グループのムサシとルカが、オープン交際しているというのが、その理由である。そこが接続点になって、ルカのグループとムサシのグループが合体したようなグループになっているのである。 イガが入ってきた。 「おう、イガ。遅いな。」 「おはよー。」 イガは返事もせず、自分の席に向かい、座った。カバンから筆箱や教科書を取り出している。 「あら。」 「おやま。」 「ムサシさま、また決闘、すっぽかしたの?」 ルカがにらむ。 「いやあ、やったにはやったんだけどね...」 ムサシはルカの視線をそらすべく、腕を頭の後ろに当てて伸びをした。 「ムサシ。バスケやろうぜ。」 ちょうど良く、お誘いが来た。 「行く行く。じゃあ、しばらく遊んできますわ。」 「始業には遅れないでね。」 イガのムサシへの確執はいつものことなので、ルカも深追いしない。ムサシは机に足をかけた。 「ムサシさま、だから机に足を...」 ルカが言い終わる前にムサシは跳んだ。着地は、イガの机の上。ノートに足跡を刻印し、ムサシはさらに跳んだ。 「行くぞ、イガ。」 「わっ」 イガはのけぞった。あきれながら、ルカと友人たちはその様子を見ていた。 「じゃあ、俺たちも。」 クワノとハヤシが後をついて行った。イガも一緒に行く。いろいろあっても、遊ぶのは一緒らしい。 「毎朝、毎昼、よくやるよね。バスケって、そんなに楽しいのかな。」 オソノが呟いた。チィが答えた。 「楽しいんじゃない?見てると、こっちも身体を動かしたくなるよ。」 「私もやりたいな。」 と言ったのはエル。制服も、いつもスラックスで、動くの大好き少女だ。 「やればいいじゃん。」 オソノが突っ込む。 「さすがに、女一人はいやだよ。目立ちすぎるし。」 「大丈夫。ぜったいに目立たない。」 「それは、」 エルは振り向いた。 「どういう意味だ−っ!」 オソノに襲いかかるエル。それをにこやかに眺めながら、仲裁するチィ。 「2人とも、そんなにはしゃがないでよ。パンツが見えてるわよ。」 本気で仲裁しようとしているようにも思えない。2人はまったく気にかけず、取っ組み合っている。 「...いいかげんに。」 チィの手があがった。 「やめなさいってば!」 チィのこぶしがルカの机に振り下ろされる。天板が、激しい音を立ててしなる。エルとオソノは、ぴたりと動きを止めた。チィは2人に近寄り、裾や襟を直している。2人はされるがままになっているが、どちらかというと、怯えているらしい。チィはうちが空手の道場なのである。 「チィ、学校の備品は大切にね...」 呟きながら、ルカは溜息をついた。 『どうして、私の周りには変わった人ばかり集まるんだろう...』 ルカは類は友を呼ぶ、という諺を、よく理解していなかった。 |
![]() |
★ 朝のバスケ。 |
ボールを受けたムサシがドリブルで切り込もうとした瞬間、イガは身体を沈め、手と床の間にあるボールを掬いとるようにして奪い取った。 「クワノ!」 イガの放ったボールを片手で受け、クワノは自陣の方へボールをドリブルで運んで行った。ムサシは体を変え、追おうとしたが、あきらめて立ち止まった。 「くそ、イガめ。」 攻撃側にいたムサシのチームが戻る間もないうちに、パスを受けたハヤシがつまらなそうにシュートを決めた。 「こっちは全然、緊迫感がない。イガ、替わろうぜ。」 「おれは日本一のシュータだ、と言って聞かなかったのはおまえだぞ。」 「ううむ、日本一のカットインを見せたかったんだけど...」 「玉入れだね。」 「うおー、それを言うなー。」 やりとりを苦笑しながら聞いていたムサシは、みんなに声をかけた。 「うーし。逆転だぞ、逆転。気、入れていけよー。」 ムサシはパスを受けやすい方向へ走り出したが、その途端、予鈴が鳴り渡った。 「やん。」 出鼻を挫かれたムサシは鼻白んだ。 「くそーっ、もう少しで逆転できたのに。」 ハヤシが邪気のかけらもなく、笑顔で言った。 「30対6くらいだったけどな。」 ボールを片付け、教室に向かう。ムサシはイガと一緒に、少し遅れる形になった。ムサシはイガに話しかけた。 「ところで、イガ。」 「あァ?」 「今朝はどうした。」 「ああ、きのう、ちょっと嫌なことがあったんだ。」 涼しい顔でイガは続けた。 「俺の大事な木刀を、わざとぶち追った奴がいてな。」 「あの程度で根に持つおまえでもないだろ。」 「そんなに買いかぶられるとは、恐縮の極みだな。」 「ま、他人のことをあれこれ引っ掻き回そうたあ、思っていないが...」 言いながらムサシは時計を見た。 「あ、まずい!」 ムサシは走り出した。 「朝礼に遅れちまう。ルカに申し訳が立たん!」 「...元気な奴...」 ムサシはぴたりと停まり、振り向いていった。 「引っ掻き回すつもりはないが、厄介事なら何でも相談に乗るぜ。格安でな。」 イガは走り去るムサシを、あっけにとられたように見送っていたが、にやりと笑って呟いた。 「何かあったら、よろしく頼むぜ。ムサシどん。」 予鈴のなる中を、それほど急ぐでもなく、イガは教室に向かっていった。 |
![]() |
★ ガーベラとコウガ、昼休みにデートする。 |
ビジネス街の片隅に、その店はあった。喫茶、詩音。古くからあるその店は、居心地のよさから、客の回転があまり良くないのだが、固定客が頑固にここを離そうとしないので、何とかつぶれることもなく続いていた。 「そうだな。ガーベラ、一度、俺が君の弟に会ってみようか。」 コウガは目の前のコーヒーに手もつけず、指をきっちりと組み合わせて言った。ガーベラはまだ本名を明かしていない。コウガにはガーベラという名前で呼んでもらうことにしていた。もちろん、コウガも本名ではないだろうし、本名がなんであるかは、まだ知らない。ガーベラはアプリコットティーを一口飲んで答えた。 「まだ、早いわ。」 「なぜ?」 「そんな気がするの。」 ガーベラは窓の外を眺めながら言った。秋の空は、呆れるほどに青い。白い雲が、吹き散らしたように浮かんでいる。 「でも、いつまでもこのまま、というのもお互いに面倒じゃないか?」 「私はまだ大丈夫。コウガはそろそろ焦ってきた?」 「私はもちろん大丈夫だ。私の気の長さは知っているだろう。」 コウガは自分の感情を相手に押し付けない。いや、むしろ自分の感情がどのあたりにあるのか、相手にまったく覚らせないといった方がいい。表面から受ける印象は、柔和で、自己抑制のできる大人、という感じだ。だからと言って、いつまでもこんな理由にならない理由で、返事を保留にしてもらっているわけにもいかない。 「もう少し待って。いろいろ、まだ整理がつかないの。私の気持ちも含めて。」 OKの返事はいいやすい。NOの返事は、伝えるだけでも精神に負荷がかかる。重苦しい気持ちのまま、ガーベラはアプリコットティーを飲み干した。紅茶は甘くておいしかった。時計をちらりと見て、ガーベラはバッグの中から財布を取り出し、自分の分の小銭を置いた。 「昼休みが終わるから行くわ。お金はここね。」 ガーベラは立ち上がり、出て行った。小銭を眺めながら、コウガは呟いた。 「相変わらず、堅いな、ガーベラさん。」 詩音のドアを出た途端、風に髪を煽られた。外は秋。枯葉がかさこそと舞う中を、ガーベラは歩いていく。まっすぐに。 |
魔歌 | start | next |