青の魔歌 〜ガーベラ〜 p.3
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1 | イガとムサシ、決闘をする。 | p.1 |
2 | Old fashioned love song | |
3 | イガ、ムサシを無視する。 | |
4 | 朝のバスケ。 | |
5 | ガーベラとコウガ、昼休みにデートする。 | |
6 | ムサシ、クワノ、ハヤシ、イガを心配する。 | p.2 |
7 | ルカ、ムサシを問い詰める。 | |
8 | ガーベラ、コウガを撒く。 | |
9 | イガ、ルカと会う。 | |
10 | 夜遊び。 | p.3 |
11 | ガーベラ、イガの心を読む決意をする。 | |
12 | イガ、ムサシに決闘を迫る。 | p.4 |
13 | ルカ、ムサシに迫る。 | |
14 | ガーベラ、コウガの心を読む。 | p.5 |
15 | ガーベラ、故郷を離れる。 | |
16 | コウガ、ガーベラと別れる。 | |
17 | ムサシ、イガと決闘をする。 |
★ 夜遊び。 |
「制服だからなー。」 「うん...」 イガはルカを眺めた。ルカも少しあわあわとしている。少しでも雰囲気に馴染もうと思っているのだろうが、無理である。 「とりあえず、遊び気分が感じられればいいんだよな...」 イガは、頭をフル回転させて行動メニューを考えた。何か外食をして(親の同伴なしでは、校則違反)、ゲームセンターで遊んで(校則違反)、帰るというものである。校則違反が二つも含まれた、過激な、いつ補導されてもおかしくない夜遊びメニューである。大冒険である。これでルカ姫様も満足してくれるだろう。 「えー?」 イガの提案を聞いて、ルカは不満そうな声をあげた。首を絞めたろか、という思いがイガの心の中でラインダンスを踊ったが、ここはグッとこらえて、ルカを諭した。 「これだって十分、懲戒→停学コースなんだぜ。これ以上、どうしたいってんだ?」 ルカは考え込んだ。 「そうね。じゃあ、きょうはこれくらいで勘弁してやるか。」 やっぱり絞め殺した方がいい、という天使の群れが、イガの頭の中を飛び巡った。イガは額に中指を当て、翳りを見せてふっと笑った。時に、いや、常にムサシを圧倒するこの女性が落ち込んでいるんだ。これくらいのことは、最初から覚悟しているさ、天使君たち... 不幸の気配を、何とかして克服しようとしているイガに、ルカの声が飛んだ。 「こんなとこでたそがれてないで、さっさと行こうよ、イガくん。」 「だ、誰がたそがれてるねん!」 天使の群れが、イガを遠巻きにして、気の毒そうに見守っている中、イガはルカの鞄を持ち、とぼとぼとルカの後をついていった。 |
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「アイスクリーム!」 ルカが瞳をきらきらさせて動きを止めた。 「おいおい、この寒いのにアイスはないだろ。」 「アイスクリーム!トッピングみっつまで無料!」 「ラーメンだろ、こういう場合。」 「十勝牛、しぼりたてミルク使用!」 「だからもう北風が吹いてるって。」 「平日10%オフ!」 「はいはい、わかりました。アイスがよろしいんですね。ルカさま。」 「えっ!いいの?イガくん。」 イガはもう、ものを言う気力もなくし、アイスクリーム・ショップに入った。見るからに中学生のイガと、学校指定のコートを着ているルカを見て、アルバイトの店員たちはくすくすと笑って、何か囁きあっていた。イガはいたたまれず、すぐにでも出て行きたかったが、ルカはまったく気にも留めず、念入りにアイスクリームと、トッピングを選んでいた。 「あれ?イガくんはいいの?」 「不思議なことに、こういう季節には、アイスクリームをあまり食べたくなくなる性質(たち)なんで。」 と、せいいっぱい皮肉を言ってみたが、ルカにはまったく通じていなかった。 「へえ。不思議だねえ。」 という言葉が返ってきただけだった。外に出ると、さすがに肌寒い。こんな季節に、アイスクリームを食う奴なんて、みんな凍りついてしまえばいいんだ、とイガは思った。ルカの様子を見ていると、嬉しそうにアイスクリームをかじっている。イガは見ているだけで、身体の心から震えがきた。アイスを食べていたルカは、しばらく経って、びっくりしたように言った。 「あら。寒い。」 「あー、もうやだ...」 イガは心の底から脱力した。そのイガに、ルカは訴えてくる。 「ねえ、イガくん。寒い。」 俺はひょっとしたら、一生女と付き合おうと思わないかもしれない、とイガは思った。女、恐るべし。通りすがりに、ちょっと声をかけただけでこの始末だ。コウガさんも、ひょっとしたら、すごく大変なのかもしれない。まだ見ぬ姉の恋人に、少しシンパシィを感じたイガであった。 「ねえ、すごく寒い。」 アイスクリームを舐めながら、ルカは言いつのる。イガは何らかの対策をとることを期待されているらしい。というより、とらなければいけないらしい。ムサシ、おまえはどうしてこんな難行を耐えていけるんだ?イガにはとても理解できそうになかった。しかし、そこで、イガは考えてしまう。ひょっとして、そのあたりにムサシの強さの秘密があるのではないか、と。イガはけなげにも、この苦行を受け入れる気持ちを芽生えさせてしまった。こうして、女による世界の支配は続いていくのだ。 |
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イガは、なかなかいい対応策を思いついた。アイスを持ったまま、ゲームセンターに突入したのである。 「わあ、ものを食べながらゲームセンターに入るって、すごくいけないことをしている感じがする!」 と、ルカ嬢にも好評だったし、なかなかの機転ではあった。やはり、実は夜遊びが体質に合っているのかもしれない。 外から見ると華やかに見えるゲームセンターも、中に入ると、なにか殺伐としている。けっこう大勢の人間は入っているが、みんなで遊ぶ、という雰囲気ではない。どちらかと言うと、いらいらしながら遊具の順番待ちをしている、幼い子供の集まりのように見えた。大人はあまりいないが、高校生くらいの集団があちこちで固まってゲームをしている。中には、一人で座って、ひたすらゲームをやり続けている大人もいたが、みんなそれなりの事情があるのだろう。 とりあえず、空いているゲーム機に向かい合って座り、コインを入れた。ルカはアイスを食べているので、1プレイヤーでプレイする。イガもこういうところで遊ぶのは初めてなので、最初はなかなかリズムに乗れなかったが、敵が集中的に来る時はじっとやり過ごし、集団が抜けたら回りながら撃ちまくればいいと察し、どんどん敵を撃ち落していった。視線と手を忙しく動かしながら、ゲームに熱中しているイガを、ルカはアイスを舐めながらじっと見ていたが、そのイガが、ゲームから目を離さずに、突然言葉をかけてきたのに驚いた。 「で。何があったんだよ。」 ルカはゲームセンターの中から見える、夜の街の断片を、目で追いながら言った。 「別に、何も。」 ルカは視線を戻して、アイスをかじりとって言った。 「ただ、ちょっとね―――」 ルカは言葉を切った。イガも、忙しく手を動かして、新しい面をクリアしていった。それきりルカが黙ってしまったので、イガはちらりとルカを見た。ルカはアイスを食べ終わり、じっとイガを見つめていた。イガは少し、どぎまぎした。その時、ルカが目を見開き、声をあげた。 「あっ!」 「えっ!」 イガはびっくりして、顔を上げた。その途端、最後の一機に敵の戦闘機がぶつかり、哀しげな音楽が流れた。 「あ〜。」 二人は同時に声をあげた。イガがルカに笑いかけると、ルカは沈んだ顔で、ゲームオーバーの画面を眺めており、イガの笑いは中途半端に宙に浮かんだ。ルカは呟くように言った。 「ただね―――」 イガが見つめる中、ルカは言った。 「ただ、時々時間がものすごい速さで過ぎていくのが目に見えるようで、怖い時があるの。」 イガはルカを見つめた。静かに喋るルカはおとなびて、いつも学校で見ている、明るく、回りの仲間を笑いに巻き込んでいる時とは、まったく異なった顔を見せていた。 「ただ、それだけなの。」 言い終わったルカの顔には、淡い哀しみが湛えられていた。イガには、そういう感傷は理解できなかったが、女の子は、ちょっとしたことにでも、いろいろ過敏に反応するのかもしれない。理解できない以上、何を言っても無責任になるので、イガは黙って聞いていた。が、ルカの話も、とりあえずこれで終わりのようだった。 「もうこんなもんでいいだろ。やっぱり、俺にはこういう場所は馴染めないし。」 「ええ。私もそう思ってたとこ。」 ルカは立ち上がり、すいすいと出て行ってしまった。イガはもう一度、ゲームセンターの中を眺めた。滞った空気の中で、目的もなく、大勢の人間がゲームに興じている。イガが初めて経験した盛り場は、ただただ、時間を消費することばかりを目的とした、殺伐とした空間だった。 (やはり、こういうものは外から見ているときの方が華やいで見えるものだ。) イガはやるせない、という気持ちを初めて感じ、その重さと、粘り気に酔ってしまいそうだった。 (まあ、もっと心を浮き立たせるような大人の空間も、どこかにはあるんだろうさ。) イガは一人ごち、外に向かった。 |
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ゲームセンターから出ると、ルカは伸びをしていた。伸びをしたまま、空を見ている。ルカの視線を追うと、屋根の間に、白い月が見える。ルカは、何かふっきれたのか、さばさばとした顔をしている。 「きょうはごめんね、イガさん。わたし、八つ当たりしちゃってたみたい。ちょっと、寄る辺なくなってたのよ。」 「いやいや。ほら、立ってる者は親でも使え、って言うじゃないか。」 「そうね。きょうは立っててくれてありがと。あのままだったら、私、朝まで歩き続けてたかもしれない。」 「そんな感じだったよな。」 「ほんとうよ。イガさん、ほっとにありがと。」 ルカはイガの手をぎゅっと握った。イガは覚えず、身を引いた。ルカは不思議そうな顔でイガを見た。 「...イガさん。顔、赤い。」 「そ、そうか?」 イガは顔を撫で回した。ルカはいたずらっぽい顔つきになった。 「けっこう、免疫ないのかな?イガさんは。」 「ほっとけ。」 ルカはにっこりと笑って言った。 「早く彼女を見つけて、一緒にどこかに遊びに行こうね。」 「そのような日がくることがあればな。」 「すぐに来るって。イガさんはいい人だもん、すごく。」 「いい人、っていわれる人は、それで終わることが多いって?」 「心外だなぁ。あたしはそんな無責任なことは言わないわよ。大丈夫。きっとすごく素敵な人とカップルになれると思うわ。」 「そうだといいけどね。今はあんまり興味もないけど。」 「こういうのって、時機があるからね。ま、焦らず、ダブルデートの機会を待つわ。」 「当てにしないで待っててくれ。」 羞ずかしいような嬉しいような会話を交(か)わしながら、イガとルカは、ルカの家への道をたどっていた。 「ずいぶん遅くなっちゃったな...」 ルカはすっかりいつものペースを取り戻したようだ。ルカの家が見えてきた。 「イガさん、こんなところまで、ありがと。きょうはほんとに楽しかったわ。じゃあ、また明日。」 ルカは小走りにうちの方に向かい、振り向いて、投げキッスをしてきた。そして慌ててバタバタと走っていった。イガは思わずのけぞった格好のまま、呟いた。 「女の子ってのは...」 イガはムサシの顔を思い浮かべた。あいつもこんな攻撃を受けたり、かわしたりしているんだろうか。 「ムサシも苦労するぜ...」 妙に実感のこもった感想を吐いて、イガは家への道をたどり始めた。 |
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★ ガーベラ、イガの心を読む決意をする。 |
イガは少し浮ついた気分のまま、帰ってきた。 「ただいま。」 ドアを開けるが、電気が点いていない。 「あれ?姉さん、帰ってないのか。」 ドアが閉まると、真っ暗である。独り言を言いながら、真っ暗な廊下を進み、手探りでリビングの電気を点けた。ダイニングテーブルに頬杖をつき、ガーベラが座っていた。 「うわぁ、びっくりした。いるんなら電気をつけておけよ。」 ガーベラは振り向きもせずに答えた。 「考え事をするのに、光が邪魔だったのよ。」 「それにしたって...考え事?」 ガーベラはそのままの姿勢で、抑揚のない声で言った。 「お願いがあるの。」 「なんだよ。あらたまって。」 「こころ、読ませて。」 イガは愕然とした。 「だって、姉さん、それ...」 ガーベラは、人の心を読むことができる。子供のころは、誰の心でも読むことができ、様々なトラブルを引き起こした。歳を重ねるに連れ、それを抑える事ができるようになり、中学校のころ、好きだった男の子の心を読んでから、ぴたりと読むことをやめた。封印したといった方がいいのかもしれない。 ガーベラは自分の心を封印し、今では努力しても読むことができない。それでよかったのだ。人の心は、闇に満ちていたから。人は皆、多かれ少なかれ、心の中に悪魔を飼っている。優しそうに見える人も、いや、優しそうに見える人ほど、暗黒が多くを支配している。嫌われるような人の方が、心の中の悪魔は優しかった。 皆には見えていないと理解した時の混乱と、内面を知って、それでも付き合わなければいけない相手がいるという事実の前で、ガーベラの幼い心はとてつもない試練に晒された。やはり勘の鋭い一族の人間と両親の助けで、なんとかその試練を乗り切ることはできたものの、一つ間違えば、自我が崩壊していただろう。それでも、ガーベラはたかをくくっていた。自分で制御すれば、そんなに困る能力ではないと。 半分封印していた能力を、完全に封印したのは、自分では真剣なつもりで、面白半分に好きだった男の子の心を読んだとき。それがどれほど罪深いことかを思い知らされ、以後、ガーベラは一切の能力を断った。イガはそのあたりで苦しんでいたガーベラの姿を知っていたから、驚いたのだ。そして、そうまでする必要があると、姉が思いつめていると悟り、イガは静かに言った。 「ああ。いいよ。」 ガーベラは重たいもののように顔を上げ、イガのほうを振り向いて言った。 「ありがと...」 そう言ったガーベラの顔は、けして願いを聞いてもらって喜んでいる表情ではなかった。 |
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「で、どうすんの。」 イガはとまどった。なにしろ、今まで心を読まれたことなどない。少なくとも、読まれたと意識して読まれたことはない。 「わかんないの。やり方を忘れちゃったみたい。」 「あのねえ...」 「まあ、とりあえず理性の抑圧だの何だのを、なくしていけばいいんじゃないかな。」 「だから?」 「飲も。」 ガーベラは一升瓶を、ドンとテーブルの上に置いた。イガは呆然とした。 |
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「わーひゃっひゃっひゃ、コウガなんて糞食らいなされ、ってんだぃ。」 「そ〜よ、あんたなんて、馬に蹴られて死んじゃえばいいのよぉ。この小舅がぁ。」 二人は居間のカーペットの上で、宴を開いていた。すでに日本酒にウィスキー、ウォッカにジンが開けられている。イガはジンを少し流し込んだ。途端に、食道から灼熱の酔いが葺き上がってくる。胃に届く前に効いているのだ。 「ぷふ。」 「そ〜れ、かんぱいぃ。」 ガーベラも相当きている。イガは手がうまく動かず、グラスを乱暴に床に置いた。 「よぉ、ガーベラぁ。」 「へぇ?」 ガーベラはとろんとした目をイガに向けた。イガも目が据わっている。目の中のガーベラが、4−5人いるように見えて、慌てて頭を振って、喋り出した。 「あんた、どうしてもコウガ、なんてアホくさ〜な名前の奴と、けっこん、したいなんて思っておられるんでましょ?」 ガーベラは焦点の合わない目をイガに向けて、両手を交差させて手のひらをぶらぶらさせながら言った。 「そ〜よ、その通り。がーべらさんは、あの人と一緒になるの。ブーケが飛んで、レースに包まれたあたしはぁ、鳩が飛んで、日々これ好日なんだからぁ。あんたがな〜にを言ったって、ずぇーんぜん気にしないんだも〜ん。」 イガは胡坐をかいてガーベラに向き直り、がくっと首を下げて言った。 「でも、だ〜めだよ。あいつとじゃあ、ぜ〜ったいに幸せになれないんだからぁ。私が保証します、ざまぁ、お見遊ばせ、ってんだぁ、おい。」 「なぁんでよぉ、ばかぁ。なんであんたにそこまで言われなきゃなんないのよぉ。り・ゆ・う・を言ったんさい、りゆうをぉ。」 「ンなこと、わかるわけ、ねーじゃん。」 イガは上体を起こして、胸を張ってガーベラに言った。ガーベラは身体の前に手を着き、身を乗り出して、危なっかしくふらふらしながら迫った。 「そんなのありぃ?言ってよ。言いなさいよぉ。このすかたん。」 イガはウィスキーに手を伸ばし、注(つ)ごうとしたが、出てこない。イガは瓶を持ち上げて逆さにして覗き込んだ。雫(しずく)が落ちてきて、鼻の頭を濡らしたので、流れ落ちて来るのを待って舐めた。 「だって、わかんね〜んだも〜ん。幸せになりてぇんだろぉ?」 ガーベラは目の前10センチくらいにあるもやもやした物体を見極めようとして、寄り目になっていた。 「そ〜よ。そのと〜りなのよ...」 ガーベラの中で、何かが蠢(うごめ)き始めた。 「とにかくだめだよ、コウガ、ってやつは。」 激しいアルコールの酩酊に襲われているガーベラの脳髄の中で、新たな神経系が、ずっと使われなくなっていた情報ルートが開かれようとしていた。そのルートが少しずつ情報を取得し始めると、神経系に対する負荷が跳ね上がった。通常、処理できる数十倍の情報を飲み込みながら、そのルートがガーベラの神経系を絶対的な支配下におき、さらに交感神経系、副交感神経系まで影響を及ぼし始めた。 「そうよ...」 『とにかくだめだよ、コウガ、ってやつは』 イガの声が遠ざかってゆく。 「わたし、しあわせになりたいの」 『わかんね〜んだも〜ん』 自分の意識が、驚くほどくっきりと浮き彫りになってくる。 「なぜ コウガはだめなの?」 『幸せになりてぇんだろぉ』 意識の中の、現在の問い以外が消えてゆき、ガーベラの意識の中で、ひとつの問いだけが大きく、強くそびえたつ。 「しりたいの。わたし。しりたいのよ。」 自分の外も見えてはいるが、適切な情報処理をされないので、芝居の書き割りのように見える。音は、聞こえない。匂いもしない。五感がすべて切り離されてゆく。 神経系が一つの情報処理作業に掌握された結果、ガーベラの通常の情報処理ルートが閉ざされた。神経系はその働きを失い、人間を維持する情報伝達の機能を停止させた。つまり、脳から末端器官にいたる神経系の情報伝達において、ガーベラは死者と同等の機能しか果たせなくなった。この時点で、ガーベラは、死んだのである。 ガーベラは自分が死んだのを知った。そして、理不尽な死に、ガーベラの全細胞が抵抗した。死のもたらした平安、まったくの無がもたらす平穏の中から、意思がその触手を伸ばし始めた。一本、二本、三本...瞬く間に死の平原は触手で溢れかえり、さらにその触手を伸ばした。どこへ?そう、そこにある、強い生命の意識。イガの心。それを感知した触手が、一斉にその生命の意識へ、触手の先端を伸ばした。 一瞬の、爆発的な啓示。盲(めしい)るような、白熱の光の中で、ガーベラは全てを見た。そして、見た途端に、ガーベラ自身の生命を求める力が転移して、神経系を、全てを支配する新たな神経系から奪い返した。ガーベラは、イガの心との交感から突然切り離されて、精神が切り裂かれ、悲鳴をあげるのを感じた。そして、ガーベラは一時的な死から奪還され、人間としての機能を取り戻した。しかし神経系は疲弊しきっており、すぐに復旧することは出来ず、ガーベラはそのまま床に崩れ落ちた。 『あ...は...』 まだ世界を認識できないうつろな目を宙に泳がせ、ガーベラは無限と思える時間を堕ちていった。 『よめちゃった―――』 ガーベラの身体は大気圏に突入した隕石のように燃えつき、世界の底に横たわっていた。このまま永遠に、ここに横たわっているのだと思っても、何の感情も起こらなかった。 《あれぇ、ガーベラ、もうダウン?よわいのねぇ》 遠くで聞いたことのある声が聞こえていた。意味はわかったが、何の感慨も引き起こしてはくれなかった。ガーベラは死の雫の滴る底で、次にやるべきことを考えていた。 『あした こうがの こころを よんで たしかめよう』 少しずつ戻ってきた、ゆがんだ視界の中で、イガが一升瓶から酒を注いでいるのが見えた。 『よめた わけじゃ ないのかも しれない から』 『いがの へんけんを みただけかも しれない から』 ガーベラはじっと死の夢を見続けている。永劫の時間をたどりながら。ほのかな希望も、心騒がせることもないが、それでも、始めてしまったことを、最後までやり遂げるために、ガーベラは次にやるべきことを思い続けていた。その横で、イガは叫んでいた。 「こらぁ、ガーベラぁ、起きて飲めぇ。」 夜の中、闇の中、サイクルが回り始め、ひとつの終わり方に向かって、順調に動き続けていた。 |
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