微量毒素

青の魔歌 〜ガーベラ〜 p.5

魔歌 back end

1 イガとムサシ、決闘をする。 p.1
2 Old fashioned love song
3 イガ、ムサシを無視する。
4 朝のバスケ。
5 ガーベラとコウガ、昼休みにデートする。
6 ムサシ、クワノ、ハヤシ、イガを心配する。 p.2
7 ルカ、ムサシを問い詰める。
8 ガーベラ、コウガを撒く。
9 イガ、ルカと会う。
10 夜遊び。 p.3
11 ガーベラ、イガの心を読む決意をする。
12 イガ、ムサシに決闘を迫る。 p.4
13 ルカ、ムサシに迫る。
14 ガーベラ、コウガの心を読む。 p.5
15 ガーベラ、故郷を離れる。
16 コウガ、ガーベラと別れる。
17 ムサシ、イガと決闘をする。

★ ガーベラ、コウガの心を読む。

 喫茶「詩音」の入り口から、コウガが入ってきた。ガーベラは軽く手を上げて、存在を示したが、それより先にコウガは気がついていただろう。

「どうしたんだ、君の方から呼び出しがかかるなんて。」

「ええ、ちょっとお話ししたいことがあって。」

 コウガはいつものように、ブレンドを頼んでいる。本当に、スノッブなところのない人。あなたはいつも笑っている。突然呼び出しても、いつまでも家を教えなくても。ごめんなさい、コウガ。私、あなたの心を読む。そう、イガとお酒を飲んだときのように、私の心を外に追い出していけばいい。

「なあ、やっぱり俺が、君の弟さんに会って話をしたほうがいいんじゃないかな。」

 喋り始めたコウガの声が遠ざかってゆく。私は広がって、どんどん広がって、沈んでいく。ぜんぶが重たくて、支えきれないように沈んでいく。沈んだ上は、ほんとうの空虚。何も、ない、本当に虚無の空間。

 ここからなら、見える。あなたの心。私の心が、暖かい実体を求めて、触手を伸ばす。あなたへ。あなたの中へ。一瞬の、本当に一瞬の、永遠の煌き。私を焼き尽くす。私は焦熱地獄の中で燃え尽きる。煌きは氷。極寒地獄の中で、私は無機物よりも徹底的な不活性体となり、永劫の時間をそこで過ごす。あなたの心の持つ無数の刃に、私の身体が切り裂かれ、小指の先ほどの断片となる。地面に落ちた私の肉の一つ一つが、けして癒されることのない痛みに、自らの消滅だけを願いながらあげる悲鳴は、あなたの耳に届くことがない。そして私は消える。あなたからも、自分自身からも、この世の全てから去り、永遠に続く苦しみの中で、待ち続けられる何も持たない。無よりも確かな存在。死よりも明確な生命。愛より空虚な場所。憎しみより確かな幻影。私はすべて焼き尽くされ、閉ざされて、いるべき場所を永遠に損なった。それが私の罰。それが私の罪。それが私の願い。それが私の望み。そして、私はすべてを見る。見てしまう。見えてしまう。ああ、ああ。


 コウガは、ガーベラの様子がおかしい事に気付いた。ほんの少し前に、喋っていた唇が凍りつき、眼は開いているのに、何も見ていない。目が、眼が生命を持っていない。

「ガーベラ?」

 コウガが立ち上がりかけたその時に、ガーベラは数億年の時を封じ込めてきた氷山と一緒に崩壊した。随意反射のまったくないまま、横の壁に顔をぶつけ、そのまま崩れ落ちた。コウガはその大きな身体に似合わないスピードで立ち上がり、ガーベラを助け起こした。

 ガーベラは現実世界の動く様を、スクリーンの向こう側を見るように認識していた。まだ、感覚はまったく戻ってきていない。コウガが叫んでいる。ウェイトレスの女の子が、慌てて絞ったタオルを持ってくる。布巾じゃないでしょうね。まあ、どうでもいいけど。コウガの顔、下から見上げると、こんな顔なのね。へん。まあ、どうでもいいけど。額にタオルが当てられる。前が見えない。まあ、どうでもいいけど。

 今のガーベラの心は、昆虫のそれに近い。本能から、生きる力が、ガーベラをこの場から去らせようとしている。この場、すなわちコウガのいるところから。ガーベラが、そこにいたいと心から望んだところから。

 コウガのそばにいると危険。それが私なのか、コウガなのかはわからないけれど、そばにいてはいけない。近づくとき、全てが滅びてしまうだろう。コウガの心は、私を完全に拒絶した。その隙間から見えたのは、青い憎悪。私では、それを消し去ることはできない。私は怖い。私はできない。私は逃げる。一目散に、後も振り返らずに。私は卑怯。私は裏切り者。私は、自分を殺すしかない。だから、お願い、時間をください。でも今は逃げなくちゃ。すぐに。私がコウガへの気持ちから、逃げられなくなる前に。

 戻り始めた神経系が、引き千切られる様な痛みに悲鳴をあげる。そして、わっと世界中がガーベラの上になだれ落ちてきた。ガーベラは心臓を引き抜かれるような痛みに耐えながら、身を起こす。ガーベラはコウガを見た。澄み切った透明の視線は、コウガを通り抜けて、はるか未来を見ていた。

★ ガーベラ、故郷を離れる。

 ドアが開き、誰かが入ってきた。イガは自室で勉強をしていたが、声をかけた。

「姉さん?おかえり。」

 返事がない。足音は間違いなくガーベラのものだ。そのままガーベラの部屋へ向かっている。

「?」

 イガは不審に思い、部屋を出た。

「姉さん?」

 ガーベラはふすまを開けたまま、自分の部屋で、服を引っ張り出していた。イガは戸当たりによりかかり、声をかけた。

「ガーベラ?」

 ガーベラは、服を畳みながら、イガのほうを見ずに答えた。

「この町を出るの。」

「え?ちょっと待てよ。コウガさんと?」

 イガは動揺した。ガーベラは服を畳む手を休めずに答えた。

「いいえ。一人で。」

 イガは呆然とした。

「一人で?どれぐらい?どこへ?」

 ガーベラは押入れの上の段からボストンバッグを下ろした。

「行き先は決めてない。どれくらいかも。」

 さすがに怒りを抑えきれず、手を休めようとしないガーベラの肩を押さえ、イガは訊いた。

「ちょっと待てったら。どういうことだよ。」

 ガーベラはイガの顔を見つめた。ガーベラの目がおかしい。イガを見ながら、微妙にずれたところを見ている。そして、今まで見せたことのない、意地の悪い表情が浮かんできた。

「あなたの心。」

 イガは、はっとして手を引いた。

「読まなきゃよかった。」

 ガーベラはイガを射抜くように見つめていた。憎しみも、哀しみもない。ただ、冷たく、事実だけを述べる視線をもって、見つめ続けた。イガはガーベラの視線から目をそらした。ガーベラはバッグを下ろし、開いた。

「明日、発つわ。」

 荷物を詰め込みながら、ガーベラは言った。イガは腕を組み、壁に寄りかかって言った。

「よい旅を...」

「ありがと。」

 ガーベラは乾いた声で答え、荷物の選別を続けた。イガは壁によりかかり、動かなかった。

★ コウガ、ガーベラと別れる。

 ガーベラは駅で電車を待っていた。そう待たずに乗ることができるだろう。空は秋らしく、見事な青さで晴れ渡っている。その清冽さが、今のガーベラには痛かった。

「あたま、痛いな...」

 ガーベラはこめかみを押さえた。軽く。そして、強く。指が食い込むほどの強さで押した。くらりとして、指を離したガーベラの視界は、微妙にくねっていた。焦点が合い始めて、ガーベラはそこにいてはいけない人影を幻視した。

「コウガ...」

 眩暈が治まっても、その幻影は消えようとしなかった。幻影は実体の重さを備えた足取りで近づいてきた。

「イガの奴ね...人の手帳、覗いたな...」

 ガーベラは力なく呟いた。お仕置きしてやろうにも、次にイガに会えるのがいつかさえ覚束ない。

「くそっ...」

「イガくんに聞いた。ガーベラが出てゆくと。」

「ええ。出てゆくの。」

「一人で出てゆくと。」

「ええ。」

「さようなら...」

 コウガは視線を落とし、ガーベラの眼を見ずに言った。

「ごめんなさい。」

「君が謝ることはない...」

 コウガは眼を上げた。その視線が、ずっと見つめ続けていたガーベラの視線と、がちっとぶつかった。お互いがその奥にあるものを読めないうちに、列車が入ってきた。コウガは入ってくる列車の方を向いた。ガーベラの思いを込めた視線は、コウガには届かなかった。コウガは列車を見続けている。ガーベラは立ち上がり、ボストンバッグを掴んだ。ガーベラはコウガから身体をそむけ、言った。

「さようなら。」

 列車からの風で、ガーベラの髪はかき乱された。ガーベラは開いたドアから乗り込み、コウガに背を向けたまま、反対側のドアから外を眺めた。空気の抜ける音がして、ドアが閉じる。コウガも眼を上げず、閉まったドアの外で身動きもしない。ガーベラは、景色を見ているような顔をして、ガラスに微かに映るコウガの影を見ていた。コウガは動かない。がたん、という衝撃があって、列車が動き出した。コウガが顔を上げた。列車は進み始める。ゆっくりと。コウガ。あなた、わたしに伝えたいことがあるんじゃないの?列車が前に進み、コウガは遠ざかり始める。何か、あるんじゃないの?ガーベラの問いは口に出されることもなく、従ってコウガの答えも返らない。ガーベラは、振り向いてしまった。さっきまで、コウガが立っていたドアに駆け寄り、ガラスに手を当てて、呼んだ。

「...コウガ...?」

 ガーベラの眼に映るのは、後ろに飛び去って行く、住み慣れた街の景色。ガーベラは、消えてゆく過去を思い、弟のことを思い、たった今、そこにいた恋人のことを思い。目の前を数枚の大看板が飛ぶように過ぎて、びくっとしたガーベラは身を引いた。消えていった。もう、取り返しもつかないほど、後ろに。次の駅で降りれば戻れるけれど、ガーベラは自分が決してそうしないことを知っていた。なぜなら、それはもう過ぎていったのだから。コウガの優しい顔が、一瞬脳裏を横切って、ガーベラはガラスに背を向けた。そしてゆっくりと、座席の方に歩き始めた。

 思いは離れたその瞬間から、風化を始める。
さよなら、わたしの好きだった時代。
全てを思い出の中に葬り去ろう。
それがいつか美しく粧われ、私の前に再び眩暈(あらわ)れる時まで。


 コウガは、駅前のベンチに腰かけ、片手で左右のこめかみを押さえていた。コウガの上に影が落ちた。コウガは動かない。低く、どこか人を馬鹿にしたような声が、コウガに呼びかけた。

「コウガさん。」

 コウガは顔をあげた。知らない顔である。だが、名前を知られている。背広姿にサングラスが、微妙な違和感を覚えさせる。コウガは用心深く、言葉を返した。

「はい?」

 男は唇の片端を吊り上げて、コウガに向かって立っている。なぜか数メートルの距離を置いて。背広姿に違和感はないが、この男は背広姿が似合うような仕事をしているのではないということが、強烈に感じられる。仕方なく、コウガは聞いた。

「あなたは?」

「私はアオ。あなたに、我々の組織に入っていただきたい。」

「...なんですか、それは。いきなり会った見知らぬあなたに、言われる筋ではないようですが。」

 アオは値踏みをするように、少し首を傾げた。

「そちらは私のことをご存じないだろうが、我々はあなたのことを全て知っている。係累なし。都心のマンションに一人住まい。xx社に勤務。そして、世間には隠している、特技を持っている。」

 コウガの太い眉がぴくりと動いた。男はせせら笑うようにあごを突き出した。大きく開いた額に、ぱらりと前髪がかかる。

「我々はそのあたりに興味がありましてね。ご同道願えれば、と思っているんですが。」

「...どこかへ失せろ。」

 何も聞こえなかったように、男は続けた。

「たった今、お別れになったのは愛人さんですかね。あの女も何かの能力を持っているようなんで、マークしていたんだが、うまく逃げられてしまったな。」

 ほとんど動かないコウガの手から、パチンコの玉がものすごい勢いで飛んだ。指だけで飛ばしたのだ。それは男のサングラスの枠をはじき、付け根を破壊した。サングラスが落ちる。その下から現れた目は、驚きもしていないが、当たった側の片目だけを閉じていた。

「たぶん、俺の思っている通り、おまえはまっとうな人間じゃなさそうだ。」

 コウガが言い終える前に、落ちてきたサングラスを男の足が蹴った。サングラスはすごい速度でコウガの正面を襲った。サングラスは、突き出されたコウガの手のひらでひしゃげ、ゆっくりと落ちていった。男は両目を開いて言った。

「どうです。話を聞いていただけますね。」

 コウガは少し遠くを見ているような眼をし、つまらなそうに言った。

「...おもしろそうだな。」

 男はまた唇の片端を吊り上げて言った。

「では、ついて来てください。」

 コウガの答えも聞かず、男は歩き出した。

「...ああ。」

 コウガは呟き、男の後をついて歩き出した。空は透明に晴れ渡っていた。

★ ムサシ、イガと決闘をする。

「そうか...」

 ムサシは言った。

「ガーベラさん、行っちまったのか...」

 ムサシは、マンションの屋上の、柵代わりの、少し広くなった壁の上に立っている。イガはその隣で、やはり壁の上に膝を抱えて座っている。

「これからどうして行くんだ。」

 イガは膝の間に頭を落としたまま、言った。

「たいした不都合はない。」

「金は?」

「ある。」

 イガの背が、暖かい色の光に包まれている。ムサシは、その光の源をじっと見詰めている。イガはふと顔をあげた。西の空は、いちめん鮮やかなオレンジ色に染め上げられている。まだ残る青空とのグラデーションは、息を呑むほどに美しい。イガも顔をあげ、空のスペクタクルを鑑賞している二人の背後で、青空は次第に色を深め、藍色に変わろうとしている。陽が、もう沈むのだ。

 イガは次第に色を濃くしてゆく夕日を見る。ガーベラは行ってしまった。しかし、それはガーベラが決めたこと。イガが口をはさめる義理ではない。それでも、イガはコウガさんに連絡してしまった。イガは、姉が間違っているのではないかと思っていたから。二人は幸せになるよう、努力できるのではないかと願っていたから。でも、ガーベラは帰って来ない。コウガさんからも連絡はない。だから、姉は行ったのだと、イガは知っている。

 ムサシは、ずっと黙ったまま、イガの横に立って夕日を見つめている。やがて吐息をつくと、壁から屋上に飛び降りた。

「降りろ。」

 イガに背を向けたまま、ムサシは言う。イガが訝しんでいると、いらついたようにムサシは肩をゆすった。

「決闘。」

 ムサシは闇の広がり始めた屋上の、広い空間に向かって言った。

「つきあってやる。」

 ようやく、イガの頬に、笑顔のかけらのようなものが浮かび上がってきた。イガはムサシに応える。

「得物は。」

 イガはゆっくりと立ち上がり、ムサシを見下ろした。ムサシは向こうを向いたままで応えた。

「おまえの好きにしろ...」

 夕日は既に血のように赤く、じきに暗く澱んでしまうだろう。イガはにやりと笑い、音も立てずに、ムサシのそばに舞い降りた。


魔歌 back end

微量毒素