微量毒素

黒の魔歌3 〜恋は狂気〜 p.4


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1 次の町へ p.1
2 ユカルの憂鬱
3 驟雨、再始動
4 キスゲ、フィールドワークへ
5 キスゲ、ムサシと接触する p.2
6 バッカスの悪戯 p.3
7 キスゲ、前へ p.4
8 墜落 p.5
9 ヴァルハラ p.6
10 コウガの言い分

★ キスゲ、前へ

 キスゲは仮住まいのマンションの部屋で、風呂上り、バスローブを羽織って、長い髪を結っている。甘ったるい流行歌を口ずさみながら。

「あの人は危険...危ない男...近づいてはいけないのに どこまでも引き寄せられていく...」

 キスゲは歌を止め、天井を、いや、空を見つめている。何かを見ているように。思い出しているように。諦めの混じった理解を湛えた瞳が、静かに揺れる。哀しみはない。怒りもない。もちろん、喜びもない。

「ムサシは消極的アナーキストだったんだ...」

 あの男は危険すぎる。行動に枷がない。あらゆるものから解き放たれ、あらゆるものを解き放とうとしている。理性のある人間は、おそらく対抗する術がない。今は動くことがなくても、万が一、動くようなことがあれば、この社会は大きなダメージを受けることになる可能性がある。このまま、何も起こさない可能性がはるかに高いけど、組織はおそらくムサシの存在を認めはしないだろう。私が見過ごしても、間違いなく、またターゲットに上る。そのとき、プラタナスや、ユカルや、コウガがアサインされたら?今、私が行動すれば何とかなるかもしれない。

「わたしは 自分を引きとめて そしてまたきっと 後悔をする...いつも同じ いつも繰り返す...いつも」

 キスゲは髪を結う手を止め、仰向けに倒れた。結いかけの髪は解け、床に広がる。キスゲは、ムサシの襲撃を決意した。


 キスゲはプラタナスへの連絡をしようと考えたが、思いとどまった。馬が動けば、花が散る。咲いている桜に、馬をつなぐのは馬鹿者だけ。成功の可能性は、今のこの状態が一番高い。プラタナスへの連絡はしない。キスゲは、床にあぐらを組んで座り、また髪を結い始めた。キスゲは口ずさむ。

「どうしても 忘れられない あの人の瞳 何も言わず 私を 見つめていた 瞳……」

 次第に何かを思いつめていくように、何かに取り憑かれたように、小さな声で口ずさみ続ける。

「いとしい いとしい いとしいあなた……」

 陳腐な流行歌を、キスゲは髪を結いながら、嫋々と歌い続ける。キスゲの口から流れ出る気持ちは、部屋の中でたゆたい、闇の中へ流れ出てゆく。誰も知ることのない、キスゲの心は、すべて闇の中へ呑み込まれていった。キスゲは、いっそさっぱりして、連絡を待っていた。


 組織はムサシをマークしている。尾けていることがわかってしまっては意味がないので、組織の人間を町にばら撒き、偶然行き会ったものが、キスゲに連絡をする。キスゲはその点を結んで、ムサシの向かっている場所を探る。過去のムサシの行動と、行動パターンから、キスゲはムサシの目的地を特定した。キスゲは電話をとって、ダイヤルした。

「もしもし、ゴブジョウさん?ムサシに悟られるといけないので、ムサシたちの監視を外して、いったん退いて下さい。私はこれから、ムサシと接触します。無理を言いますが、よろしくお願いします」

 キスゲは電話を切り、準備をして部屋を出た。

「気に入らん」

 キスゲからの電話を置いたゴブジョウは呟いた。キスゲの喋り方が癇にさわったのだ。こういう喋り方をする人間は、何かを諦めて、何かを成し遂げようとしているものだ。ゴブジョウは考え、プラタナスに連絡することにした。午前4時だが、かまうことはない。プラタナスをつかまえるまで、10分ほどかかった。

「キスゲ嬢は単独でムサシと接触するつもりのようだ。問題ないか?」

 受話器の向こうで、絶句している気配が伝わってきた。

「どうする?止めるか?」

「できればそうして欲しい。こちらも合流する」

 受話器を置き、ゴブジョウはキスゲを見つけ、連れてくるように指示を出した。

「20分経っている。少し、難しいか...」

 ゴブジョウは要であり、動くわけには行かない。ゴブジョウは煮詰まったコーヒーサーバーからコーヒーをカップに注ぎ、がぶがぶと飲んだ。時計は午前4時23分。ゴブジョウは眉をしかめ、伸びてきている無精髭をざらざらと撫でた。


 プラタナスは5秒ほど眉間に親指と人差し指を押し当てていた。

<キスゲ、何をする気だ?>

 プラタナスは激しい恐怖を感じていた。受話器を取って、ユカルの自宅に電話をかけた。20回コールしたが、出ない。プラタナスは電話を切った。

「また朝帰りか...」

 プラタナスはユカルに協力を頼もうと思ったのだが、諦めた。この時間では車で行くしかない。タクシーを手配して、資料をとりに自分の執務室に向かった。執務室につくと、ドアに紙が止めてある。プラタナスは眉を顰めた。

「アルミのドアに画鋲か...?」

『6日夜 Kへ Y』

 ユカルは、キスゲのいる町に、昨夜のうちに向かったのである。執務室に入り、留守番電話を確認すると、ユカルからのメッセージが入っていた。

「K市に着いた。でも、連絡先がわからない。とりあえず、宿をとった。何かあったらここにかけて。ばっかみたいよね、あたし。せっかく勢い込んできたのに、詰めが甘くてさ。」

「...感謝する」

 プラタナスはすぐに電話をかけた。

「プラタナス!何かあったの?」

「キスゲが組織の動きを止めた。単独行動をとっているらしい。」

「やっぱり...」

 ユカルの声は沈んでいた。

「そこにいてくれて助かる。すぐに組織の連絡先を伝える。こちらは1時間後には到着する。それまで、できることをしておいてくれ。まずはキスゲを確保してほしい。」

「了解」

 プラタナスは連絡先を伝えた。

「じゃ、行くわ」

「頼む。俺もすぐに出る」

 電話はもう切れていた。プラタナスは受話器を見つめた。

「ユカル、頼むぞ。間に合ってくれ...」

 プラタナスはお菓子の家で、魔女が蠢きだしたのを知った。こんなところにいる自分が恨めしかった。なぜ、昨日のうちに動き出せなかったろうか。プラタナスは、早くから自分もお菓子の家の構成物であり、大きな流れを変えるのが難しいことに気づいていた。だからこそ、早く行動しなければいけなかったのに、それが出来なかった。プラタナス自身も、このお菓子の家に住んでい続けたかったからだ。そのために判断が濁らされる。結局、自分自身がいちばん大きな敵だったのだ。

「後追いはきついな...」

 プラタナスは憂いに満ちた目で、もんたろうくんを眺めた。車が着いたことを伝える、電話のベルが鳴った。


 キスゲは茂みの中を歩いていた。藪の中を歩くのに備えて、まるで少年のようないでたちをしている。濃い藍色のジーンズに、キャバルリーシャツ、さらにキャスケットで髪を隠している。すべてが夢の中で歩くように現実感がない。

『ムサシはいつも、次の行動に悩んだときには、イガとも離れ、一人きりで何かを考える。』

 キスゲはムサシのいるところに向かっている。尾行では、必ず気づかれてしまうだろう。だから、キスゲは定点観測と、過去の事例から、ムサシが行くところを導き出した。今、キスゲはそこに向かっている。ムサシとは違うルートをたどってゆくから、途中で接触することはない。

『今回、ムサシがこもるのは、町外れの崖の上。あそこなら、誰にも邪魔されない。』

 キスゲは、今そこに向かっている。もう少しでムサシが見えるだろう。まだ夜は明けていないが、空は明るくなってきている。キスゲはあたりに注意しながら進んだ。


 プラタナスは、車に乗り込み、キスゲのいる町へ向かっていた。車は、夜の中を滑らかに加速している。

(焦っちゃいけない、キスゲ。絶対に、焦るなよ...)

 プラタナスは、あらゆる可能性を検討した。何も起こらない可能性も大いにあったが、最悪のケースもまた大いにあった。最悪のケース群を、最広範囲で回避する方策検討に集中するため、プラタナスは指を絡み合わせ、それに額を押し付けた。その姿は、僧侶が神に祈りを捧げる姿と、高い類似性を持っていた。


 ユカルはクローゼットを開けた。数着の服と一緒にバスローブが下がっている。

「まったく、常識知らずなんだから。服に湿気が移っちゃうじゃないか」

 ユカルはバスローブを取り出し、クローゼットを閉めた。バスローブには、まだ湿気が残っている。それほど前にこれを脱いだわけではなさそうだが、数分前というわけではないだろう。もし、ゴブジョウに連絡してすぐに出たとすれば、既に30分以上経っている。行き先が特定できなければ、捜すのは難しい。ゴブジョウのチームでは、まだ芳しい情報を得ていない。夜明け前という時間を考えれば、足跡を追うのは不可能に近い。

「でも、見つけてやる。見つけて、お尻をペンペンしてあげるからね、キスゲ」

 言いながら、ユカルはバスローブをバスルームのハンガーにかけた。綺麗に片付いた部屋。仮の住まいとはいえ、余分なものが何もない。キスゲは、執務室にいろいろなものを持ち込み、自分の部屋にしていた。ここにはお気に入りのもんたろうくんすら持ち込んでいない。キスゲはここで何を考えていたのだろう。ユカルの眉間に、きりきりと縦皺が刻まれた。

 ノックの音がした。ユカルは目を向け、入るように言った。

「開いてるよ」

「失礼します」

 ゴブジョウが呼んでくれた、キスゲと一番よく情報を共有していたというメンバーである。

「ジルフィーデです。キスゲさんの目的地を特定したいと言うことですね」

「ええ。ジル、何か思い当たるようなことはある?ここには地図だけがあったんだけど、ヒントはゼロ。何も書き込んでないの。」

「私の書き込んだ地図があります。キスゲさんに頼まれて、ムサシの足跡を追ったものです。メンバー全員の確認した足跡を丸で書き込んであります。これをキスゲさんに見てもらいました」

 足跡は、町の北側に多く記されている。それと並んで星印がつけられている。

「これは?」

「ムサシと行動しているイガという男の足跡です。これも確認するように、キスゲさんに言われていました」

 丸と星印は、ほぼ重なっている。いや、これは...

「こっち側にいる時は、ムサシは一人だったの?」

 町の西側、川のあるあたりでは、丸印しかない。

「はい。キスゲさんと接触した後、ムサシはイガと分かれて、しばらく一人で歩き回り、川のほうに向かいました。キスゲさんはここが気に入ったようでした」

「気に入った?」

「この結果を見て、キスゲさんは頷いていました。昨日、この地図を見せたところ、大体わかったからとムサシたちの追跡調査を止めました」

「じゃあ、キスゲはムサシが単独で行動するあたりを知りたかったんだな...」

 ジルは頷き、少し迷ってから言った。

「それとこれは私の感覚ですが」

「言って」

 ユカルはジルを促した。

「おそらく目的地は川沿いのどこかだと思います。キスゲさんは、いつもあいつは考えるときに、完全に一人になれるところを捜すから、と言っていました。西側のこのあたりはけっこうひらけていて、一人になれる場所はそう多くありません。この川沿いは木が多く残っていて、地元の人間もそうそうは入らないと聞きました。一人になるのが目的なら、川沿いの可能性が高いと思います」

 ユカルもジルの話を聞いて頷いた。

「ありがとう、風の精さん。ゴブジョウに連絡して、キスゲを捜索しているメンバーの半分を借りて、西側の川のあたりを捜させて。いや、待って。私も一緒に行く。ジル、つきあって」

「わかりました、ユカルさん。今すぐ連絡をとります」

 ジルは玄関の電話に向かい、電話をかけた。ユカルは腕を組み、凶悪な顔をして地図を見つめた。

(ムサシが単独でいる機会を捜していたって?馬鹿娘が。私が単独でいる機会を窺うとしたら、それは襲撃する機会を窺う時。密会をするつもりでもなければ、ほかに理由はない。間違いなく、キスゲは逸脱している。素人が何をするつもりだ。こちらの生を惜しんで?だとしたら、すべてがうまくいった後で、プラタナスのお尻もペンペンしてやらないといけないわ。それくらい、わかれよ。バカ)

「行きましょう」

 ジルが声をかけてきた。頷いてユカルは玄関に向かった。ユカルの起こした風に煽られて、地図が床にひらひらと落ちた。ドアが閉まり、部屋は再び静寂に包まれた。


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