微量毒素

黒の魔歌3 〜恋は狂気〜 p.5


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1 次の町へ p.1
2 ユカルの憂鬱
3 驟雨、再始動
4 キスゲ、フィールドワークへ
5 キスゲ、ムサシと接触する p.2
6 バッカスの悪戯 p.3
7 キスゲ、前へ p.4
8 墜落 p.5
9 ヴァルハラ p.6
10 コウガの言い分

★ 墜落

 ムサシは崖の端に座っていた。遠くに目をやってはいるが、その目は何も映してはいない。ムサシは誰も近寄らないこの場所に来て、自分の考えをまとめようとしていたのだ。少女が妙な依頼をしてきた。それは、ムサシの行動に対する、何らかの悪意が形をとって現れてきたものであると、ムサシは確信していた。でも、何かがおかしい。悪意の方向性が違うような気がしたのだ。もし、ムサシの行動を排除するつもりなら、いくらでも方法はあったはずだ。しかし、彼らはムサシのはったりを受けて、手を引いたのだ。これは、ムサシが考えていた相手のプロファイルと一致しない。ムサシは、もう一度考えなおす必要があったのだ。

 キスゲはムサシの行動パターンを読んでいた。この男は、十分に考え、そして行動の指針を決めたら、すぐに行動に入る。そしてその結果を受けて、再度次の行動パターンを検討する。今回のキスゲのアクションは、ムサシに大きな疑惑を持たせたはず。だとすれば、次はかなり深く検討に入るはずだ。その際、おそらく一時的に、イガとも別れるはずだ。意思を持って行動しているのは、ムサシの方だけ。こちらだけ何とかすれば、破綻は回避できる。

 キスゲは、自分のチームのメンバーを思い浮かべていた。あのメンバーに、危険な橋を渡らせたくない。それは、今、自分が少し無理をすれば、何とかできそうだ。

 しかし、このキスゲの判断は、大きな問題をはらんでいる。本来、戦略立案者であれば、できそう、やれそう、ということを戦略に組み込むことは避けなければいけない。確かな裏打ちを持った行動計画がなければ、戦略立案者として失格である。キスゲは、本来優れた戦略立案者であった。それが、仲間という意識を持ったがために、判断を誤ることになった。

 これは、キスゲが、感情面で未熟であったためであろう。若いうちに、頭脳の優秀さで組織に入ったキスゲにとって、感情のコントロールはアキレス腱だったのだ。


 ムサシは瞑想している。ムサシがこういう時に一人になるのは、高度に集中したときに、全く無防備になってしまうことを嫌ってのことである。この状態になったときには、イガですらそばにいてほしくなかった。篭っていると、うまく考えをまとめられないので、いきおいこういう場所に来ることになる。大地と自然の息吹に包まれて、ムサシは極度に集中している。ムサシは、近づくキスゲに気づけなかった。

 キスゲの前に、ムサシがいる。キスゲでもわかるほど、今のムサシは無防備な状態だ。キスゲの予想通りである。キスゲは決意していた。キスゲはナイフを構え、走り出す。全身の体重をかけて、ムサシの背に、ぶつかっていった。

 ムサシは、気配を感じたが、極度に思考に集中していたため、反応が遅れた。背後からの殺気に、逃げるルートがない。ムサシは座ったまま、後ろに身体を倒した。肩口に刃物が刺さる。しかし、持っている手がしっかりしていないため、刃ごと倒れるムサシに持っていかれ、向きが逆になって肩から抜けた。相手の身体は勢いが止まらず、そのままムサシに躓いて、ムサシの上を飛び越えてゆく。その先は崖だ。ムサシは止めようと手を伸ばした。その手が一瞬相手の手に触れ、目があった。ムサシはキスゲを捕まえようとしたが、届かない。キスゲの目には憎しみのようなものはなく、ムサシの手が触れ合った瞬間に驚きがあった。キスゲの口が動きかけるのが見えたが、次の瞬間、キスゲの姿は崖の縁を越えて消えた。

「...そんな...」

 ムサシがすばやく身を起こし、乗り出そうとした時に、鈍い打撃音が聞こえた。ムサシは、目を閉じ、動くことができなかった。


 キスゲは投げ捨てられた空き缶のように落ちていった。キスゲは、ムサシに感じていた違和感を理解した。それをプーさんに伝えなければ...しかし、キスゲはもう手遅れであることを理解していた。キスゲは死にたくなかった。まだまだ生きて、仲間と...そう、仲間と同じ時間を共有していきたかった。自分が死んだら、泣く人たちがいる。私はとんでもないことをしてしまった。

「ごめんなさい、ユカルさん。コウガさん。プーさん...プラタナス、ごめんなさい...エツコ、おかあさ」

 激しい衝撃を受け、キスゲの思考は途絶えた。


 ユカルの連絡を受け、展開した組織は、ようやくキスゲの位置を確認する。ユカルが来たとき、キスゲは浅い流れの中に、こわれた人形のように捨てられていた。

 ジルを連絡に向かわせ、ユカルは流れに駆け込み、キスゲを抱き上げた。ぞっとするような生気のなさに、死に慣れているはずのユカルの全身が震えた。手足も何本かは折れているようで、抱き上げたのが人間でなく、昆虫のように折れ曲がる。できるだけこれ以上の損傷を避けるように抱き上げ、キスゲを河原に運び、下ろす。

「実行部隊じゃないくせに。素人の癖に、無理するから……大バカ野郎!」

 ユカルは悪態をつきながら、応急処置をした。折れている骨を調べ、添木をあて、固定する。右足が2箇所で、左足は1箇所、右手は二の腕が折れている。ユカルの救急セットでは添木がまったく足りない。流木を探し、それで固定する。固定テープも足りない。キスゲは自分の服を裂き、それで縛り上げた。幸いなことに首は折れていないが、不安になるほどぐらぐらである。背骨は損傷があるようだ。

「くそっ!」

 ユカルに、これ以上出来ることはない。ユカルは待つしかなかった。秒針が一目盛り動く間に、ひとつの建物の中にいる者を皆殺しに出来るほどの時間がかかっているようだ。


 ムサシは崖の上で、肩の傷を縛った。

「なんてこった……可哀そうに。正面から来れば、俺は戦うことなんてできなかったのに」

 ムサシはひょっとしたら助けられるかもしれないと、崖の縁までより、下を覗いた。その時、男と女が走ってくるのが見えた。キスゲは既に引き上げられ、別の女が手当てをしているようだ。

「大丈夫なのか?」

 ムサシの顔に、希望の光が浮かんだ。


 ユカルの首筋がちりちりする。

「?」

 その原因を確かめようとした時、ジルに連れられて、プラタナスが到着した。プラタナスはキスゲに駆け寄り、ユカルにキスゲの容態を確認した。

「危険な状態だが、息はある」

「遅かった……また失敗した。どこで間違ったんだ?」

「反省会は後。応急処置は終わったから、キスゲを動かせる。出来るだけ早く、病院に運ばないと」

「ありがとう。ここから撤退しよう」


 男は、キスゲを背負い、動き出した。ムサシはそのまま崖の上から見ていた。

「キスゲさんにも、見つかる危険も顧みずに、助けに駆けつけてくれる仲間がいるんだ。助かるといいんだが」


 プラタナスはキスゲを背負って移動を開始した。ユカルは振り向き、見回した。その視線が崖の上で止まる。一瞬、射すような視線を送って、ユカルはプラタナスの後を追った。


「見つかったな。今回がこれだ。次にはどうなるんだ……」

 ムサシは、どうしていいのかわからなくなっていた。キスゲの行動は想定していた対象のものとは違っていたし、自分は人を手にかけた。それが事故であれ、自分がいなければ、あの子はあんな目に会うことはなかった。おそらく、自分より年下の少女。ムサシは、自分がこの十字架を、一生背負っていかなければならなくなったことを知った。


 キスゲは青く澄み切った世界にいる。ここは静かだ。風すらもない。キスゲは自分の身体の感覚も感じていないのだが、気づいていない。

(私はしなければならないことがあったはず)

 海の底のように、微かな流れがある。押したり、引いたりする流れ。これは、実はキスゲの心臓の脈動と一致しているのだ。不安定で、弱い脈動の中で、キスゲはたゆたい、考えをまとめようとした。しかし、長い時間考え続けることが出来ない。考えていると、疲れてしまうのだ。

(誰かが来るのをずっと待っているんだけど、それが誰だか思い出せない)

 キスゲは考えるのをやめ、流れに身を任せた。

 キスゲは危篤状態である。組織の中にある、特別治療室の中で横たわっている。プラタナスがすぐそばにいるのだが、キスゲは生きているようには見えない。体中からチューブを伸ばして、キスゲは生命を持たないあやつり人形のように見えている。


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