微量毒素

黒の魔歌3 〜恋は狂気〜 p.6


魔歌 back end

1 次の町へ p.1
2 ユカルの憂鬱
3 驟雨、再始動
4 キスゲ、フィールドワークへ
5 キスゲ、ムサシと接触する p.2
6 バッカスの悪戯 p.3
7 キスゲ、前へ p.4
8 墜落 p.5
9 ヴァルハラ p.6
10 コウガの言い分

★ ヴァルハラ

 ユカルはヴァルハラのへやの戸を叩き、声が返るのも待たずに、ドアを開け、飛び込んだ。

「なんだい、騒がしいな。勝手に僕の部屋に入ると、全身の皮膚が溶けるガスをかけちゃうぞ……おや、ユカルじゃないか。きみは無作法だったのかい?」

「ごめんなさい、ヴァルハラ。作法を気にかけてる余裕がないの。あなたなら、できるわよね。死にかけた人間を生き返らせる薬。お願い、作って」

 ヴァルハラは、驚いたような目で、ユカルを見つめた。右の耳の中を捏ね回している。

「僕が驚くとは、驚きだな。君は本気で考えてるの?僕がそんな薬を作れるって」

「できるでしょ。あなたなら」

 ヴァルハラは、さらに大きく耳を掻いた指を取り出し、その指先を、眉をひそめて見た。

「できるよ」

 ユカルは目を大きく見開いた。ヴァルハラは、立ったまま、ユカルを見ていた。ユカルが喋りだす前に、ヴァルハラは口を開いた。

「その代償として、おまえは何を差し出せるんだい。おまえのその美しい声か、それともそのおまえの美しい瞳か?」

 ユカルは一瞬も迷うことなく、答えた。

「どちらでも。両方でも構わない」

 ヴァルハラは、ユカルの瞳を覗き込んでいた。ユカルはヴァルハラの瞳を見つめていた。ヴァルハラは、ふっと笑った。ヴァルハラが感情を見せることなど、金輪際なかったのだが。

「今のは、アンデルセンの人魚姫。代償なんていらないよ。そう約束しただろ」

「ええ、そうね、ヴァルハラ。ありがとう」

「それじゃあ、教えておくれ。死にかけている原因は何なの?」

「崖から落ちて、水面と浅い水底で全身を強く打ったの。全身打撲で、内臓に損傷のある疑いがあるらしい。年齢は16歳。身体の機能は通常並か、それ以下。事務屋なんで、トレーニングもそこそこしかしていない」

「外科的な処置はされているんだね」

「せんせいが見てくれた。できる処置はみんなしてもらってる。後は、本人の身体の回復力に頼るだけ、って言われた」

「わかった。内臓の損傷は、程度によるね。これは、僕でもどうしようもない。とりあえず、疑いのある臓器を賦活させるようなことができればいいか。本人が若いから、かなりの回復力は望めるね。そこをサポートする機能。どの程度の強さにすればいいかな……」

 ヴァルハラは、ユカルを振り返って言った。

「それで、どのくらいの間、生きていさせれば、いいのかな」

「もちろん、本来の寿命が尽きる時まで」

「君は無茶を言うねえ。しかたがない。大サービスだ。せんせいのところに行って、一緒に状態を確認しながら、考えるよ。本来、往診はしないんだけどね」

「副作用は?」

「もちろんあるさ。塵に帰ろうとしている肉体に、もう一度生きようとする意欲を起こさせなきゃならないんだから、並みの手当じゃ追いつかない。ギリギリのところで、生きる方向に持ってくるんだから。でも、大丈夫。今回は説明書が準備できないから、ちゃんと口頭で、せんせいに確認しながら調合するよ」

「ごめん、疑うようなことを言って。じゃあ、お願い。私は、私のできることをやりに行くから」

「わかった。すぐに準備して、せんせいのところに行くよ」

「ありがとう。頼んだわ」

 ユカルは出て行きかけ、一瞬とどまって、ヴァルハラを振り返って言った。

「わたしの声でも、瞳でも、必要になったら言ってね。さっきの言葉は嘘じゃないし、薬の技術はわからないけど、あなたの力は信じてるから」

 ユカルは出て行った。ヴァルハラは薬剤棚を物色して、必要なものを薬剤ケースに入れながら、呟いた。

「君のできることをやりに行くって?君のできることったら、人殺ししかないじゃないか。それでいいのか?人魚姫」



★ コウガの言い分

 薄い緑色の壁に、青白い光が反射している。その下の茶色いビニールレザーの背もたれのない椅子に、プラタナスは腰掛けている。膝に肘をつき、両手で額をつかんでいる。青白い光の下で、プラタナスは老人のように見える。固いリノリウムの床に、靴音が響く。これは、これから近づくということを知らせるために、わざとプラタナスに聞かせているのだろう。なぜなら、普段その人物は靴音など立てないのだから。しかし、プラタナスは身じろぎもしなかった。靴音はプラタナスのそばで止まった。

「どうだ」

 コウガが低い声で訊いた。

「厳しい。せんせいが診てくれているから、後はお任せするしかない」

「ヴァルハラが治療に参加しているそうだな」

「ああ。ユカルが頼んだということだ。せんせいと相談しながら、化学療法を担当してくれている」

「信じられんな。大丈夫なのか?」

「せんせいが確認しながらやっているが、問題ないそうだ。せんせいは療法のユニークさに驚いているが、効果は望めるそうだ。しかし、まだ生命がつながるかどうかは、予断を許さない。」

「確率は?」

「生存確率は、すべてがうまくいって30%いくかどうかだ」

「理論てのは、結局標準論だからな。ユカルは大丈夫だと言っていた。その後、部屋からまったく出てこないが」

 プラタナスは搾り出すような低い声で言った。

「ユカルは、キスゲのことがよくわかっていた。俺なんかより、ずっと深く」

「女同士だからだろう。そういう面もある。しかし、そうでない面もある。俺はおまえに厳しい話をしたい。今、受けられるか?」

 プラタナスは額の指を解き、暗い笑みを浮かべて言った。

「なんであれ、気を紛らわしてくれるだろう。言ってくれ」

「ユカルは自分のせいで、キスゲが判断を誤ったのだと言っていた。確かにそういう面もある。しかし、それだけじゃない。これは、驟雨全体の問題だ。」

「ほう?」

「おまえたちが島から帰ってきたとき、俺は言ったはずだ。キスゲがチームに入れ込みすぎているから、注意しろと。覚えてるか?」

「『だが、チームに親しみ過ぎているように見える。チームのメンバーを理解するのは必要だが、親しむのは望ましくない。オペレーション上、悪い影響がある。』とおまえは言った。現場はあくまで駒であるべきだ、と」

「その調子で全部覚えているんなら、話が早い。今回の件について、俺の言いたかったことはわかってくれるな?」

「ようやくわかったよ、俺が馬鹿だということが。取り返しのつかないことになるまで、俺はまったく理解できていなかった。このお菓子の家で、キスゲを食べようとしていたのが、組織だと思っていたのだから」

 コウガは黙って聞いている。

「組織はあくまで組織でしかない。その組織の行き方に異なる要素が混じり込んだときに、その要素をひき潰そうとするんだな。それが魔女だ。魔女は一定の人格を持ったものではない。流れであり、うねりだ。外から見ると、とても魅力的に見える社会が、そこに入り込んだものを許容範囲外とした時に、それを、そのエリアに紛れ込んだ異物を排除するんだ。それが、お菓子の家のシステムだ」

「なるほど。それがおまえの目から見える、今の事態の解釈か。でもな、俺の言いたいのは、そういうことじゃない」

「俺が悪いんだと、そう言ってくれ。そのシステムを理解していなかった俺を」

 コウガはじれったそうに手を振った。

「そんな面倒なことを言いたいんじゃない」

「俺の頭はもう真っ当に働いてくれる気がないらしい。教えてくれ。何をしろって言うんだ?」

「今度こそ、あの子を守ってやれ。とやかく考えずにな」

 プラタナスは目を見開いた。ゆっくりと顔を上げる。

「...なんだと?」

「繰り返す気はない」

 プラタナスは右手をゆっくりとコウガに差し伸べた。手がぶるぶると震えている。

「あの子は助からない。生存確率は30%だ」

「ユカル嬢は助かると言った。キスゲの口から、いきたい、という言葉が聞き取れたと」

「いきたい?生きたいか。いや、行きたい、かもしれん」

「生きたい、だ。そう思え。考えずに、思うんだ」

「生きたい、か...」

 プラタナスは、震える手を、自分の目の前に持ってきて、見つめた。震えは次第に治まってきた。プラタナスは、自分の指先を見つめた。

「生きたい、ね」

 コウガは頷いた。プラタナスは、コウガに尋ねた。

「コウガ、奴らはどうしている」

「次の町に向かっている。また野宿をしているようだ。とりあえず、従前の体制を維持している。しかるべき指示が、戦略チームから出るまではな」

「感謝する。とりあえずは監視を継続し、動向を報告してもらおう。コウガ?」

 立ち去ろうとしていたコウガは立ち止まり、顔だけをプラタナスに向けた。

「約束しよう。今度こそ、本当に自分が思う通りの行動をとる。これでいいな?」

 コウガは、プラタナスの目を見つめ、笑った。

「頼むぞ。しくじったら、今度こそユカル嬢があんたを殺すだろう。身内の葬式には出たくないんでな」

「ユカルは大丈夫なのか?」

 コウガは顔を戻し、歩き始めた。左手を肩のあたりまで上げ、歩いてゆく。

「人のことまで心配できるなら大丈夫だな。ユカルは大丈夫だ。あいつはタフだからな。あんたの何百倍も」

「そうでもないと思うんだが...」

 プラタナスの呟きは、コウガまで届かなかった。プラタナスは立ち上がった。

「キスゲは助かる。それは、せんせいとヴァルハラに任せよう。とりあえず、俺はムサシの始末をつける。コウガ!」

 プラタナスは廊下の端のコウガを呼び止めた。

「1時間後に、ユカルといっしょにブリーフィングルームへ来てくれ。準備は不要。資料はこちらで準備する。いいか?」

 コウガはわかったというように手を振って見せた。プラタナスはそれを確認し、コウガとは逆の方向に歩き出した。

(今回のキスゲの件で、相手がこちらが存在することを想定していたことがわかった。つまり、やはりムサシは他のワンダラーとは違う特性を持っていることがわかった。問題は、その特性だが、それを分析している暇はない。危険性が高いとみなし、とりあえず、消去する方向で検討する)

 プラタナスは足早にキスゲの執務室に急いでいる。今回の件に関する、一件書類を確認するためだ。俺なら読み取れるだろう、キスゲの意図を。歩いてゆくプラタナスの脳裏に、既に迷いはない。

(キスゲは助かる。キスゲの意識が戻るまでに、この件を片付けておこう。すべてはその後だ)

 プラタナスはキスゲの執務室のドアを開いた。


 寝苦しいのは、夜になっても引かない蒸し暑さのせいか。いや、日が落ちてから、夜気は肌寒いくらいになっている。ムサシは、苦しい夢を見ていた。

 一瞬、ほんの一瞬だけ目が合った、あの女の子の哀しい目が、ムサシの脳髄から去ってくれないのだ。何かが違う。ムサシの想定していた敵のプロファイルとは、違っている。違いはわずかだが、ひょっとしたら、根本はまったく別なのかもしれない。その引っ掛かりが、ムサシに迷いを生じさせている。

 隣で寝ているイガは、安らかな寝息を立てている。もちろん、イガには今日のことは話していない。人殺しの重荷を背負うのは一人で十分だ。ムサシは夢の中、現の中、また苦しい寝返りをうつ。落ちてゆく人形は、アメリカ生まれだったか、大事にしまわれた雛人形だったか。セルロイドは砕け散る。雛人形は首が抜ける。哀しい眼。青い目をした人形?赤い靴を履いている?いや、それは人形じゃない。落ちてゆくのは、人形じゃない。自分と、同じ、人間。

海にいるのは人魚ではない。果てもなく、空を呪い続ける波。でも、その波間に紅の花が見え隠れする。みかんの色の部屋の中で、陽に透ける耳たぶ。愛するものが死んだときには、一緒に死ななきゃならない。業が深くて、ながらうならば、奉仕の心になることなんです。テンポ正しく握手をしましょう...

 ルカが何かを訴えている。まったく読み取れないけれど、ルカが手真似で何かを伝えようとしている。その目つきは、あくまでやさしい...幾時代かがありまして...茶色い戦争...ありました...今夜ここでの一盛り...ムサシは再び苦しい眠りの中に、引きずり込まれていった。


魔歌 back end
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