微量毒素

緑の魔歌 〜 Eccentric Firebomb Girl 〜 p.5


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1 エミーリアの夢 p.1
2 クリスのダイブ
3 エミーはご機嫌斜め p.2
4 ジョン・タジディ
5 キーワードを捜して p.3
6 ユーレイカ! p.4
7 甘い香りのピーナッツ・バター p.5
8 お掃除 p.6
9 恋は眠気

★ 甘い香りのピーナッツ・バター

 カーテンの引かれた室内は、むっとするような温気と、甘ったるいような匂いに満ちていた。壁の2面を丸々占有している机の上は、個々のものが判別しがたいほど複雑に絡み合っている。床の上もコンピュータのパーツらしきものや、出力用紙や、たぶんお菓子の包み紙のようなものが散乱しており、足の踏み場もない。

「なるほど、ゴミ捨て場だわ」

 そう呟いたのはエミだった。昨夜、クリスの母親から電話を受け、両親に断って、学校帰りにクリスの家を訪ねてきたのだ。

「いったい、何をやっていたっていうのよ、クリス」

 エミは不安げに目を彷徨わせる。明るい屋外に慣れていた眼は、この暗い室内では、ほとんどものを見分けることが出来ない。クリスの母親は、自分が行くと、中のものをかき回してしまいそうなので、エミ一人で行ってくれというのだ。少し躊躇したが、けっきょくその通りにしたのだ。

「クリス?どこにいるの?」

 暗い部屋の中では、活発に点滅するコンピュータの明かりと電子音が、いよいよエミの見当識を奪ってゆく。

「クリース?」

 この部屋の中では、大きな声を出すこともよくないような気がして、ついつい囁きになってしまう。エミの囁きに、背後から寝返りを打つ音がした。

「うーん」

「クリス!」

 エミはベッドに近寄った。クリスは何だか滅茶苦茶になっているベッドの中で、ぐっすりと眠っている。ベッドの乱れようは、荒れた茂みのようにも見える。

「何だか、いばら姫みたいだね...」

 エミはベッドの横に跪いて、クリスの寝顔をしばらく見つめていたが、やがてそっとクリスの名を呼んだ。クリスは唸りながら目を半分開いた。クリスはまだ半分目覚めていない。ぼーっとしたまま回りを見回して、すぐ横でエミがじっと見つめているのに気づいた。クリスは左手を伸ばして、エミの頬に触れる。エミはじっとしている。

「ぼくの天使……」

 クリスはエミの方に身体を寄せ、エミを抱きしめる。エミはクリスを見上げて、黙っている。クリスはエミの髪が頬をさらさらと流れるのを感じながら、眉間に強くしわを寄せる。

「あー...」

 クリスは次第に意識がはっきりとしてきた。自分は今、ベッドの中で寝ていて、目の前にエミがいる、と。これはよろしい...いや、よろしくない?クリスはエミを見下ろした。エミはじっとクリスを見ている。

「うわあっ!」

 クリスはばっとエミから離れ、驚くべき早さでベッドの横の壁まで後退した。

「なななんでエミがここに?なんで?」

 クリスは軽いパニックに陥っている。無理もない。家族以外と顔を合わせるのは2週間ぶりなのだ。それに...

「どうして学校に来なかったんだ?」


 エミはクリスに聞いた。ごく当たり前の顔をしてエミが聞いたので、クリスのパニックも、それ以上拡大することなく、納まっていった。

「いや、どうしてと聞かれても...」

 エミはクリスの顔をじっと見つめていった見つめて言った。

「病気じゃなかったんでしょ?」

「ああ、うん。まあ」

「じゃあ、何で来なかったんだよ?来たくなかったの?」

「いや、そういうわけじゃないよ」

「じゃあ、何で?何をしていたの?」

 クリスはエミの顔を見た。エミは真剣な顔でクリスを見ている。クリスは言うのをためらった。これじゃあ、点数稼ぎみたいじゃないか。

「私に言えないことなら、それでもいいよ。無理に聞こうとは思わないから」

 エミは目を伏せ、寂しそうに言った。

「どうせ、私はクリスにとって友達でも何でもないんだから...」

 クリスは慌てた、というより、むかっときた。

「何でそんなことを言うのさ!エミが友達でなけりゃ、ぼくはブラックホールの中のマイティマウスだよ!」

 エミは顔を上げて、まっすぐにクリスを見た。その目には迷いなんかない。

「じゃあ、話して。学校からも、(特にこれが大事なんだけど)私からも完璧に遠ざかって、いったい何をしてたっていうんだよ」

「くそ、嵌められた...」

 クリスは悔しそうに言った。

「だから東洋人は...」

「話しなさいってば。私はあんたの友達なのよ。そこんとこ、よろしく」

 クリスは忌々しそうにエミの澄んだ瞳を睨んだ。エミはまったく、小指の先ほどの後ろめたさも感じていないようだ。クリスは首を振り、話し出した。


「覚えてるかな。ずっとずっと前。友達になった日に、エミがぼくに頼んだこと」

「友達になった日?」

 エミは不思議そうな顔をした。

「それって...本屋さんで会った時のこと?」

「うん」

「クリスが私をロボットだって言った日のこと? 超合金製の」

「ああ...何でそんなことを覚えてるんだよ」

「忘れるもんですか。傷ついた乙女心は、そう簡単に癒されやしないのよ」

「傷ついた...すんませんでした」

「う・そ・よ。初めて友達ができた日のことだもん、忘れるわけないでしょ」

「そ、そう。ならいいんだ。覚えてない?」

「ごめん。友達になったばっかりのクリスに、何かお願いなんてしたっけ...」

 エミは考え込んでいる。

「別れ際にさ、言ったでしょ。人捜しのこと」

 エミははっとした。

「あ、ああ、お兄さんのこと...でもあれはお願いじゃなくて、出来るかどうか訊いただけだよ...クリス?」

 クリスは肩をすくめた。エミはクリスに近づき、毛布の上のクリスの腕を掴んだ。

「まさか、クリス? そのためにずっと?」


 クリスはずっとエミのために、兄の、コジローの追跡をしてくれていたということなのだ。学校を休んで、昼夜なく没頭して。

「バカ...本当にバカ。そんなの、ついでにやってくれるだけでよかったのに。それで何かわかったら教えてくれるだけでよかったのに」

「そうもいかなかったんだよ、ファントムレディ。君自身がシークレットになっていたんだから」

「?」

「エミの入国のあたりで情報が得られるかと思ったけど、エミの入国あたりの情報は、とても厳重に隠されていた。普通ならあり得ない養子縁組が通っているのも妙だ。アメリカでは、虐待とかを考えて、養子縁組にはかなりの調査期間がかかるものなんだ。なのにエミの場合は、アメリカに来た翌週には養子縁組が決まっている」

 エミの眉が翳った。

「まさか、今のおとうさん、おかあさんも何か関わっているの?」

「いや。それはなさそうだ。そっちも調べたけど、君のご両親はしごく真っ当で、養子の申請も、かなり前から出されていたものが受理されているからおかしくはない。問題は君の方だけ。何らかの超法規的措置がされている可能性が高い」

「それ、私が何かの重要人物だってこと?」

 エミは怪訝そうである。

「そんなことはないと思うけどな。別に犯罪者一家でもないし、お姫様でもないし」

 そう言ったエミは少し残念そうだった。

「ねえ、ねえ、ひょっとしたらなんかあるのかな。エミお嬢様の出生の大秘密とかさ」

「そこまではわかんないけど、たぶん、お兄さんがらみの秘密じゃないのかな」

「何でよ」

 エミは大秘密の中心人物になれなかったのが不満らしく、唇をとんがらしている。クリスは自分が得た情報をかいつまんで話した。アメリカ入国前後に、エミの面倒を見ていた人間たちの存在が、ほとんど見えないこと。その中で唯一漏れた情報から、「org」という単語が抽出できたこと。その言葉から日本の情報を探って、コジローという人物が炙り出されてきたこと。

「つまり、エミのお兄さんが何かに巻き込まれていることは間違いないってことだよ」

「お兄ちゃんが...」

 エミは物思わしげに目を宙に彷徨わせたが、ふとその動きが止まった。エミはクリスの顔をまじまじと見つめる。

「って、クリス?」

 クリスは肩をすくめた。

「まだ、はっきりはしてないよ。本当にこれがエミのお兄さんかどうかもわからないし」

「でも、見つけてくれたんだ」

「あ?だからまだ...」

 クリスはいきなり襲ってきた衝撃で、後頭部を壁にぶつけた。クリスは唸り声をあげたが、自分が何かに包まれていることに気づいた。エミがクリスに抱きついたのである。


「馬鹿クリス!...そんなことのために、こんなに...一ヶ月もだよ?」

「いやあ、最初はエミとの約束で始めたんだけど、やっているうちに夢中になるほど面白かったから、どうってことないよ。とにかく、エミが日本に立つまでに、もう少し役に立ちそうな情報を集めておくから。もう、後はこいつらに任せておいても、勝手に情報を集めてくれるから」

 クリスは誇らしげに、暗い部屋の中で明滅を繰り返すコンピュータ群を示した。

「だから、もう学校にも行けるから。ジョンの様子はどうだい?もう大丈夫かい?」

 エミはクリスから身体を離したので、クリスはほっとした。

「もう、すっかりウラシマタロウだね、クリスは」

「何、それ。ニホンの人?」

「ニホンのフォークロアでね、タイムトラベルしちゃう男の人。故郷に戻ってきたら、数百年の時が過ぎていて、知っている人はひとりもいなくなっちゃってたの」

「おお、何かハードSFだな。ニホンの子供たちはそんな話を聞いて寝かしてもらうの?」

「ほかにも、ハットを被せられて、移動することが出来るようになる石像の話とか、フルーツから産まれて、動物たちと一緒にゴブリンと戦う男の子とか、熊を投げ飛ばしてしまう怪力の男の子とか、罠にかかった鳥を助けたら、その鳥が人間に化けてやってきて、恩返しをする話とか、小さな貝の中に封印されていながら、お嫁さんをもらって知恵を使って成功するお話とか、いろいろあるよ」

「うーん、ファンタスティックだな。驚異の感覚に満ち満ちている。子供の頃からそんな話を聞かされて育つなんて、やはりニホン人、おそるべしだな...」

「そうそう、雪の精が奥さんになる話もあった。正体を知られたら、その人間を殺さなきゃいけないんだけど、子供まで出来ちゃったので、殺せないまま消えてしまうの」

「うんうん、いい話だ」

「...話が思いっきり逸れてるぞ。だから今、学校はずいぶん変わったんだよ。ジョンは私の友達になったんだ」

「え? え...ジョンが君のステディになったの?」

 エミは思いっきりクリスの頭を平手で叩いた。

「い、痛っ?」

「あまり馬鹿なことを言うから。私のステディはクリス以外いないんだからね」

「ああ、そうなの...ええっ?」

 クリスはさりげなく聞き流して、言葉の重大さに気がついた。

「エ、エミ? それって...」

「だから、クリスが来るのをみんなで待ってるんだからね。明日は来られるよね?」

「ああ、それはいいんだけど...ねえ、エミ、今のセリフって...」


 確認を取りたいクリスは、エミは涙をぽろぽろと零し始めているのに気づいた。クリスは混乱した。

「あの、エミ? 嬉しくて泣いてるんだよね?」

「半分はね。もう半分は、クリスは私と離ればなれになっても平気なのかな、って思っちゃった分だよ。私が行っちゃうのが悲しくないのかな、って」

「僕は一緒についていくよ。危ないからね。」

 エミは驚き、もう一度クリスの顔を見つめた。

「当たり前だろ。いくら昔住んでいたからって、一人で行って捜すなんて無理だよ。ぼくが一緒に行って、情報を確認しながら捜せば、ずっと早いよ」

「クリス...」

「ぼくと行きたくないなんて言っても、ついていくからね。幸い、お小遣いはけっこう溜めてあるんだ。パソコンも廃品利用がほとんどだし、お金を使わないタイプなんで」

「クリス!」

 エミはまたクリスに飛びつき、きつく抱きしめた。

「ちょ、ちょっと、エミ? おい、離れろったら。こんな暗いところで抱きつくなんて、不謹慎だよ、ねえ、離れてくれないと、自制心というものが...エミ? エミったら!」

 エミはいよいよきつく、クリスを抱きしめる。クリスの腕の上を、エミの長い黒髪がさらさらと流れる。クリスは戦慄した。クリスは叫び声を上げた。

「おかあさん?おかあさん!ちょっと来てよ!お願いだから、助けて」

 クリスの母親は、叫び声を聞いて顔を上げたが、動こうとはしなかった。

「女の子の悲鳴なら駆けつけるけどねえ。まあ、クリスだし。どうでもいいでしょ」

 クリスの母親は、テレビに向き直り、再びクイズ番組を見続けた。エミはクリスを抱きしめ、涙をぽろぽろ零しながら言った。

「ありがとう、私のために...って、これ何」

 どうにも不愉快な感触があった。エミが脇腹に触れると、ぬるぬるしたものがべったりとエミの手についた。

「この甘い匂い...あんた、ベッドでピーナッツバターパン、食べてたわね!」

「あ、いや、時間がもったいなくて...」

 エミは立ち上がり、憤然として言った。

「冗談じゃない、アリがたかるわよ! 駄目。我慢できない。クリース、今すぐにシャワーに行って来なさい! いや、シャワーだけじゃ無理。お風呂よ!東洋風にずっぽりつかって、すべて洗い流して!」

 エミはクリスを追いたてながら、バスルームに向かった。


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