微量毒素

緑の魔歌 〜 Eccentric Firebomb Girl 〜 p.6


魔歌 back end

1 エミーリアの夢 p.1
2 クリスのダイブ
3 エミーはご機嫌斜め p.2
4 ジョン・タジディ
5 キーワードを捜して p.3
6 ユーレイカ! p.4
7 甘い香りのピーナッツ・バター p.5
8 お掃除 p.6
9 恋は眠気

★ お掃除

 エミは、クリスを風呂場に追い込んでから、居間に来て、クリスのお母さんに声をかけた。

「どうしたの? おや、それ」

 エミの服の前に、べったりとピーナッツバターがついている。クリスの母親は、カウチから身体を起こした

「洗ってあげるよ」

「いえ、自分で洗いますから、大丈夫です。ついでにお願いしたいんですけど、掃除道具をお借りできますか?」

 クリスの母親は目を丸くしてエミを見つめ、ついで大笑いして掃除機とバケツとウェスを持ってきてくれた。エミは礼を言って、巨大な掃除機をクリスの部屋に両手で引きずっていった。


 エミが掃除道具を抱えて廊下を歩いてゆくと、クリスがバスルームの前でうろうろしている。

「お風呂に入りなさいって言ったでしょ!」

「いや、掃除、きっとすごく大変だよ。手伝おうと思って」

「あんたが部屋の中を歩き回ったら、動いた後が全部また汚れちゃうわ! いいから、まず自分自身を綺麗にしなさい!」

 クリスは一言もなく、すごすごとバスルームに入った。追い討ちをかけるように、背後からエミの一言が飛んだ。

「わかってるわね? 徹底的に綺麗にするのよ。いいわね!」

「なんか、かあちゃんより怖いな……」

 クリスは呟き、大きな溜息をついた。


 エミはクリスの部屋に戻り、まずはカーテンを開け、窓を開いて、鎧戸を開け放った。乾いた風が吹き込んでくる。4ヶ所ある窓をすべて開けると、それだけで風が部屋の空気を入れ替えてくれる。

「無残よね、ほんとに」

 部屋はほぼ満遍なく、何かに覆われている。唯一の例外は、コンピュータが置いてあるエリアで、ここだけは神経質なほど片付けられている。

「ここは、触れないからな...」

 エミはコンピューター関係のケーブルをチェックした。これもきちんとまとめられており、引っ掛かってしまうようなところは這わせていない。むしろ、電源と電話線のために、コンピューターエリアが決められているようだ。エミはまず、床の上に散らばっているものの分別に入った。まず、一ヶ所を開けて、そこに掃除機をかけ、仮置きエリアを作る。そして掃除機を止め、床の上のものを集め始めた。

「これは書類。これは服。これはゴミ」

 作業を始めたエミは、首を傾げて自分の服を見下ろした。

「これじゃあ、2次汚染が発生するな...」

 エミは頷き、部屋を出て行った。


クリスはお風呂につかってボーっとしていた。まったく睡眠が足りていない。クリスが湯船に浸かったまま、うとうとし始めた時、ノックの音がした。クリスが何かを判断しようとしている間に、返事を待たずにエミが突然入ってきた。エミはちらとクリスの方を見て、洗面台の前に行き、べったりとついたピーナッツバターに気をつけながら、シャツを脱いだ。下は当然、ブラジャーだけである。クリスは貧血を起こしそうになった。

「な、何やってんだよ」

「服を洗ってんのよ。あんたのピーナッツバターのせいよ」

 エミは洗面台で、シャツの部分洗いを始めた。クリスはどうしていいやらわからず、湯船の中でおたおたしていた。エミはシャツを洗い終わり、ハンガーにかけた。クリスが縮こまっていると、エミは挑むように胸を張り、クリスのほうを見た。

「ねえ、シャツの替えは持ってきてる?」

「ああ...」

 クリスは洗面台の脇を指した。エミはそれをちらと見て、言った。

「貸して」

「いいけど...」

 エミは頷き、クリスのTシャツを被った。さすがに大きく、膝の上までくる。エミはごそごそと何かしている。

「エミ?」

「スカートも汚れちゃったのよ」

 エミはスカートを脱ぎ、洗い始めた。シャツと同じように、ハンガーにかけて干す。エミはクリスの方を向いた。クリスはおずおずと言った。

「エミ、そろそろ上がりたいんで、出てってくれない?」

「ちゃんと洗ったの?」

「洗ったよ…頼むから出てくれよ」

「いいわよ。あがれば? 別に気にしないから」

「こっちが気にするんだよ!」

「ふーん。ま、いいか」

 エミはクリスをじろりと見て、出て行った。クリスはほーーーっと溜息をついた。

「東洋人は何を考えてるかわからん……」

 クリスはのろのろと立ち上がり、シャワーを出した。いきなりドアが開き、エミが顔を出した。

「ね、掃除でこのシャツ、汚しちゃうと思うけど。いいよね?」

 クリスは滑って湯船で溺れかけた。ようやく顔を出して、言った。

「いいよ。いいから、早く出てってくれ」

 エミの顔が引っ込み、ドアが閉まった。頭からシャワーを浴びながら、クリスは再び大きな溜息をついた。



★ 恋は眠気

 クリスが部屋に戻ると、エミがコンピュータ用の椅子に座って待っていた。クリスの目に、白い足が飛び込む。Tシャツの下は下着だけなのだ。クリスはそう考えて、貧血を起こしそうになった。睡眠が足りていないせいさ。クリスはそう考えることにして、エミの服の件は、頭の中から追い出した。

 窓が大きく開かれて、風の通っている部屋の中は、見違えるほどに秩序を取り戻している。カーペットの地は見えるし、机の上も、それなりにまとめられている。ベッドもシーツも毛布も替えられて、きちんとメイクされている。はっとしてクリスはコンピューターエリアに目をやったが、ここはいじられていないようだ。クリスはほっとした。

「コンピューターのところは、怖いからいじらなかったよ。床の上の山は、右から書類っぽいもの、ゴミかどうか迷うもの、ゴミであろうと思われるもの。いちおう、クリスに見てもらってから、処分を考えようと思って。散乱していた衣類は、今洗濯機に放り込んで回してる。隅から隅まで確認したけど、見たところムシは見当たらなかった。どこかに潜んでいるんだろうけどね」

 クリスは呆然として回りを見回した。

「大したもんだよ、エミ。かあさんだって、この部屋をこんなには片付けられなかったんだ」

「それは、おかあさんがあなたの資料だの何だのをごちゃまぜにしちゃ悪いと思ってるからよ。私はそんなこと考えないで引っ掻き回しただけだからね」

「それにしたって...」

「おかあさんの気持ちをわかってあげなさい。今後はちゃんと大事なものとそうでないものを分けて置くのよ。いいえ、それより、自分で掃除するようにしなさい。いいわね? クリス」

「やっぱり、かあちゃんより怖いな」

「わかったの? クリス」

「はい、わかりました。今後は出来るだけ、掃除するようにします」

「週に2−3回は来てチェックするからね?」

「そんなに?」

「もっと来て欲しい?」

「うーん、微妙です」

「まあ、とりあえず後は分別作業だね」

 エミは回りを見回し、椅子から立ち上がった。


 エミは立ち上がって、腰に手を当てて、クリスを見つめた。

「さすがに、この部屋を片付けたら、借りたシャツが汚れちゃったよ」

 エミの声が、少しかすれている。埃のせいかな、と思いながら、クリスは言った。

「替えを出そうか?」

「うん。お願いしたいな」

 エミに頷きかけて、クリスは目を剥いた。エミはクリスの目の前で、クリスのTシャツをたくし上げて、手をクロスさせ、頭からすっぽりと抜いてしまったのである。クリスの目に、紺色の下着が飛び込んで、次いで白く平たい腹の、可愛く凹んだへそが焼き付いてしまった。エミの身体は、部屋に射し込んでいる明るい光の中で、隅々まで惜しげもなく曝け出されている。エミは脱いだTシャツを、椅子の背にかけた。

「この服も、洗わなくちゃ」

 エミは掠れた声で言った。クリスは、目を逸らさなければ、と頭のどこかで考えていたが、体はまるっきり頭の言うことを聞こうとせず、特に目は、瞬きすら忘れていた。クリスのあまりの凝視に、さすがにエミも恥ずかしくなったらしく、少し身をよじった。それがさらに刺激的だったらしく、クリスの脳がようやく機能を取り戻した。

「ななななななんで服をぬ、脱いでっ!」

「だから、シャツも汚れちゃったんだもん」

 光の中で、紺色の下着にエミの肌が映える。これは暴力だ。圧倒的な攻撃力の、暴力だ。しかし、これほどに暴力的でありながら、なんとこのシチュエーションの望ましいことだろう!

「だだだだからって、ばばばばばばば、どどど、ああ、だから...」

 クリスは何でこんなところで脱ぐんだと言いたいのだ。着替えを用意してから、別の部屋で着替えるのが普通だろうと。しかし、クリスの口から出る言葉は、とてもそうは聞こえなかった。クリスの様子を見て、エミは腰に手を当て、小首をかしげた。

「どうしてこんなことをするんだよ、ぼくは男だし、子供じゃないんだからあんまりこんなことをしてると...」

 エミは大きな瞳でクリスを見つめた。目が潤んでいる。クリスは、おそまきながら、はっと気がついた。

「エ、エミ、きみ、まさか誘惑してるつもりなんじゃないだろうね」

 エミは、にいっと笑った。花が風に揺れるように、少し首をかしげて。

「そのつもりなの」


 エミはそのまま、風に吹き寄せられるようにクリスに近寄ってきた。

「ちょっと待て。それ以上近づくな。話を聞け」

 エミは少し身体を揺らして、素直に止まった。

「エミが言っている誘惑がどういうもののつもりだかわからないけど、ぼくはそういうことをするつもりはない! 一切ない!」

 エミは不審そうな顔をして訊いてきた。

「なんでしないの?」

 クリスはびびった。エミの言葉は、直接クリスの延髄に斬り込んできたのだ。これほどの誘惑にあったことは、これまでの一生で一回もなかった。恋人もいなかったのだから、当然といえば当然なのだが。

「なんでしないって...」

 エミの言葉を繰り返して、その言葉の持つ直接的、間接的、暗喩と隠喩をすべて感じ取り、クリスはあまりの刺激に貧血を起こしそうだった。しかし、クリスは気付かなかったが、クリスの様子を見て、エミは躊躇(ためら)いを感じ始めているようだった。エミは言葉を励まして言った。

「私は行っちゃうんだよ。何があるかわからないんだ。だからせめて、クリスのことを覚えていたいの」

 クリスは頭を抱えた。

「ぼくたちはまだ若すぎる」

「若すぎやしないわ」

 そう言いながらも、苦悩の表情を浮かべるクリスを見つめ、ふっとエミの顔に影がよぎった。

「違うと思うんだ、そういうのとは。もっと、今は別の...」

「わたし...」

 エミはしゃがみ込み、身体をきつく抱きしめた。クリスの視線から、自分自身を隠そうとするかのように。

「私、失敗した? ごめんなさい、あなたの気持ちも考えずに...どうしよう...」


 またまた呆然とするクリスの前で、しゃがみこんで下を向いたエミの目から、大つぶの涙がぼろぼろと転げ落ちた。事情がまったく呑み込めないクリスに、エミは言った。

「わたし、わかんなくって。どうしたらクリスがうれしいかわかんなくって。いろいろ研究したんだけど...男の子は女の子の裸を見たいんだって思ったの。だから恥ずかしいけどやってみようかって...」

 クリスは呆然としてエミの告白を聞いていた。

「私、恥ずかしい...」

 泣きじゃくるエミを見ているうちに、クリスは次第に落ち着いてきた。

《なんだよ、まだまだガキじゃん》

 クリスはエミを立ち上がらせ、ベッドに座らせた。クリスも横に座って、エミの肩を抱き寄せ、エミが落ち着いてくるまで、ずっとそのままでいた。時折しゃくりあげるものの、ようやくエミが落ち着いてきてから、クリスは言った。

「ばか」

「ごめんなさい...」

 クリスの腕の中で、エミの体がさらに縮こまった。

「なんでそんなに急ぐんだよ」

「え?」

 エミは泣き濡れた瞳をクリスに向けた。こんな表情でも色っぽいから、女は始末に困る。クリスはそう思いながら、言葉を継いだ。

「こういうことは自然のままに進めたほうがいいんだよ。15で誘惑の手口なんか研究すんじゃないよ。しかるべきときがきたら、黙ってたって進んじゃうんだから、慌てることなんてないんだよ」

「そうなの?」

「そうだよ...たぶん...」

「クリスはまだ私の裸を見たくはないの?」

「いや、それは...」

 言い淀むクリスを尻目に、エミは勝手に納得していた。

「そうよね、見たくて興奮すると、男の人はここが...あれ?」

 クリスは目を瞑って耐えた。エミが息を呑む気配が伝わってきている。さあ、どうしよう?


「...クリス、これが普通なの?」

「......いや」

「興奮してるの?」

「......してる」

「じゃ、やっぱり見たいんじゃないの?」

「見たいけど、見ないほうがいいんだ」

「我慢してるの?」

 クリスは目を開けて、身体を横に向け、エミと向かい合った。

「ちがう。エミのことを考えると、すごく興奮するんだよ。いつでも」

「いつでも?」

「そう。いつでも、どこでも」

「じゃ、見る?」

 クリスは頷きそうになりながら、それでも首を振ってエミに言った。

「でも見ないほうがいいんだ。まだ見るだけの、見てもいいだけの心の準備が出来てないんだ。今見たら、きっとぼくはエミと本当に理解しあうことが出来ないような気がするんだ」

「いつ準備が出来るの?」

「だから、しかるべき時さ」

「それはいつなの?」

「そりゃ、たぶん、これから二人で探していくのさ。その時を」

「ふたりで?」

「ああ」

 いつのまにかふたりは、ベッドに横になっている。仰向けになっているクリスの腕に、エミはすがりつくようにしている。クリスは突然、猛烈な眠気に襲われた。

「あ、やべ...ここ何日か、ろくに寝てないから...」

 思考を巡らせ終わる前に、クリスは眠りに落ちた。寝息を立て始める。その規則正しい寝息を聞いているうちに、泣き疲れたエミも、寝入ってしまった。二人は寄り添い合い、兄弟のように寝ている。そこへクリスの母が飲み物をもってやってきた。

「失礼。のどが渇いてるかと...!」

 クリスの母は、寝ている二人を見て眉を吊り上げた。エミは下着姿である。眉を吊り上げて、しばらく二人の様子を眺めているうちに、クリスの母は吹きだしそうな顔になった。そしてトレィを机に置き、二人に毛布をそっとかけてやる。もう一度振り向き、二人の様子を確認してから、飲み物のトレィを持って、そっと部屋を出た。部屋の外に出て、息を吐いて、おおげさに肩をすくめて台所に戻っていった。

「ま、あと1時間くらいしたら、大声をかけて起こしてやるさ」

 二人はすやすやと寝入っている。窓からは相変わらず優しい風が入り込み、花壇に植えられた花の、甘い香りを運んできている。家の外では、底抜けに明るい、青い空が広がっていた。


魔歌 back end

微量毒素