黄の魔歌 〜幸福の壁〜 p.1
魔歌 | start | next |
1 | この町では何かが起こっている | p.1 |
2 | 雇用契約 | |
3 | よそもの | p.2 |
4 | 賛成派と反対派 | p.3 |
5 | 三ヶ村へ | p.4 |
6 | 要は、皆が幸せになれれば(1) | p.5 |
要は、皆が幸せになれれば(2) | p.6 | |
7 | 本当に、いいのかな。揺れるアザミ | p.7 |
8 | 住民の総意 | p.8 |
9 | 始まった工事(1) | p.9 |
始まった工事(2) | p.10 | |
10 | 夜釣り | p.11 |
11 | キャッチャー・イン・ザ・ライ | p.12 |
12 | 天の海に雲の波たち月の船 | p.13 |
13 | アザミは決めた | p.14 |
14 | 道行き |
黄の魔歌 〜幸福の壁〜 |
李・青山華 |
★ この町では何かが起こっている |
時間に見捨てられたような、いかにも田舎らしい駅。駅のそばには、物憂い、夏の午後の空気の中で、向日葵が大きな、重たげな顔を太陽に向けている。熱気にもめげず、揺らす風もない中、向日葵は雄々しく、真っ向から太陽を見据えている。その向日葵を優しく揺らして、二輌しかない列車が駅に入ってきた。終点のこの駅では、降りる影もない。いや、男が一人、列車を出てきた。コジローである。 コジローはぶらぶらと歩きながら改札口を抜けた。駅前には人影もない。真夏の日は、真上から駅前の広場に照り付けている。濃い影が建物の隙間に蟠っている。 「なんっか、雰囲気悪いな」 駅前など、町の入り口に当たるところには、町の雰囲気が現れているものだ。どこがどうということではないが、この町の駅前は、どうも荒れている。コジローはどことなく、とげとげしい雰囲気を感じた。 「何かあるな。この町」 コジローは首を振ったが、その顔は好奇心に溢れている。ダッフルバッグを揺すり上げ、とりあえず腹ごしらえが出来そうなところを捜した。いかにも鄙びたこの町の駅前に、喫茶店という看板がある。どう見ても一膳飯屋のような構えだが、コジローは入ってみることにした。開け放ってある入り口から、暖簾をくぐって入ると、おばあさんが一人いて、元気よく声をかけてきた。 「いらっしゃいませぇ〜」 カウンター席もあるが、コジローはテーブル席の方に腰を落ち着け、メニューを見る。コーヒー、紅茶に続いて、カレーライスとカツ丼、天丼が並んでいる。コジローは迷わずカツ丼を頼んだ。威勢良く返事をして、おばちゃんはカツ丼を作り始めた。カツこそ冷凍だが、ちゃんとここで卵でとじるらしい。とりあえずは、ちゃんとしたものが食べられそうだ。コジローは料理しているおばちゃんに声をかけた。 「ねえ、おばちゃん。この町って、雰囲気悪くないか?」 「やだねえ、町なんて。村に毛が生えたようなもんだよ、ここは。でも、わかるかい?そうなんだよねえ。大した町でもないのにさ、真っ二つに分かれちゃってねえ。ちょっとした意見の相違ってやつだあね」 「お?学があるねえ。なかなか言えないよ、そんなセリフ」 「もう、耳にたこだからねえ。今度ここにダムを作るって話が出てんのさ」 「なるほど、そりゃ大変だ」 「町としちゃ、ありがたい話だよね。村興しにもなるかもしれないしさ。でもねえ、三つくらいの村が沈んじまうのさ、ダムの底に。住んでるもんには堪んないよねえ。先祖代々、何百年も住んできた村だもの。そりゃ補償金はいっぱい出て、町の近くに家も建てられるっていうけど、ちょっと話は違うもんねえ」 「そうだよなあ。家もそうだし、まわり全部、村全部に昔っからの思い出がこもってるもんなあ。はい、さいで、ってわけにはいかないだろう」 「そうなんだよねえ。それで町はまっぷたつってわけでさ。もう、商売がやりにくいったらありゃしない。ま、うちなんかは旅行客相手だから、それほどでもないけどねえ」 「旅行客って...旅行客なんて来るのかい。いや、失礼。でも、なんか観光地でもあるのか?ここ」 「それがねえ、ないんだよ。だからさ、ダムが出来りゃあ、観光客も呼べんじゃないかってさあ。ダム湖も出来て、遊覧船なんかも出来るって話だからねえ」 「なるほどねえ」 話をしまくっているから、カツ丼が出るのは先になるかと思いきや、手の方はちゃんと休まず動いており、湯気のあがるカツ丼が出てきた。みそ汁とおしんこもついている。コジローは手を合わせて、割り箸を取って割った。コジローががつがつと食べていると、暇になったおばちゃんは、カウンターの向こうで椅子にかけて、話を続けた。 「あたしなんかはいい話だと思うさ。でもねえ。家が沈んじゃう人たちにとっては、冗談事じゃあないからねえ。実は、もう何年も前から、調査は入ってるのさ。地盤がどうとか、地形がどうとかね。で、よさそうだって話になって、いよいよ本格的な話になってくると、いろいろ切ないじゃないか。なんたって、何百年も前から住んでたとこなんだし」 「ばあちゃんのうちは?」 「あたしゃね、外から来た人間だからさ。ここをやってた親父にめあわされてさ。親父がちょっと前にあちら側に行っちゃってから、ずっと一人で切り盛ってんのよ。まあ、よそもんだよね、やっぱり。どことなく、垢抜けてんだろ?わたし。」 「垢抜けすぎて、水分もなくなっちまったみたいだね」 「そこにお直り。この包丁は年季入ってて、切れ味は保障付きだからさ。」 「冗談だよ。まるで都会の妖精のようだよ、おばちゃん。」 おばちゃんはしなを作った。 「おやまあ、やっぱりわかるかねえ。なんて思うわけないだろ。年寄りだと思ってバカにして」 「やあ、ごめん、ごめん。おばちゃんが話をうまく滑らすもんだから、ついのりすぎちゃったよ。ほんと、話がうまいんだからさ。」 「ま、客商売だからね」 おばちゃんは満更でもないようだ。コジロ−はかつ丼を食べ終わった。手を合わせて、感謝を捧げる。ついでにカウンターのほうに食べ終わった食器を運び、そのままおばちゃんの前のカウンター席に陣取る。 「おばちゃん。この辺りで、見慣れない子供を見かけたって話を聞かないか」 「聞かないねえ。この町であったことなら、たいがいの話は知ってるけど、そういう話はないよ。男かい、女かい」 「女の子だ。10歳くらいの女の子」 「聞かないねえ。目新しい子供が来たりすれば町じゅうで噂になるから、やっぱりないよ」 「そうか……」 コジローはまた頭の中で×印を付けた。ここでもない。それほど期待をしていたわけでもないが、やはり可能性が減っていくのはつらい。コジローが一番恐れているのは、目星をつけたところすべてを訪れて、その結果、どこにも妹がいないとわかることである。そうなったら、次にどういうアクションをとっていいか、全くわからなくなってしまう。 大きな都会なら、ある程度公的機関で状態がつかめる。特に義務教育の就学期の子供なら、確実な情報があるし、情報がなければしかるべき機関が調査に入る。田舎町では、まだ昔ながらの超法規的措置がとられていることもある。それを狙って探し回っているのだが…… 「訳ありだね。大したことは出来ないけど、ちょっと気にして訊いてみてあげてもいいけど。もうここに来ることはないんだろ?」 「もう用事は済んじまったからね。でも、かつ丼がうまいし、また来てもいいかな」 「馬鹿だね。一秒でも惜しいだろ。無理しなくていいよ。どうせ情報なんてありゃしないから。ここ二十年くらいで、住民管理はけっこうしっかりしてきたからね。昔みたいに、何時の間にかどこそこの家に、知らない顔が増えてた、なんてことはなかなかないよ。」 「そうだよね……」 コジローは顔を伏せた。おばちゃんは慌てている。 「だからさ、逆に目立つってことじゃないか。ここじゃ、そういう話はないけど、よそに行けばすぐ見つかるかもしれないよ。身内かい?」 「…妹なんだ」 「そりゃ……」 おばちゃんは絶句した。しばらくして、言葉を選んで話し出した。 「頭はよさそうだから、やるべきことはやったんだね。お上の方にも話は通してるんだね」 コジローは頷いた。 「今のこの国で、人一人を消しちまうのはそんなに簡単じゃないだろ?」 おばちゃんは、けっこう突っ込んだ話をしてくる。 「最悪の事態も覚悟してるさ。でも、そっちでも今のところ情報はないから、後はできることをしてるだけでね。いろんなところを回りながら、稼げるところで稼いで、また回ってる。ま、じっとしていられないだけなんだけどね」 「あんたが諦めていないんなら、大丈夫だよ。あんたは完全に絶望してるわけじゃない。ってことは、絶望しなくていい、なんかの見込みがあるんだろ?」 「おばちゃん、なんでそんなに鋭いんだよ。こんなに鋭い人には、そうそうあったこともないよ」 「因果と、頭の回りは速くてね。ま、これもいいことばかりじゃないんだけどさ。うちの総領息子は、あんたよりちょいと上かねえ、頭がよくってさ。都会の学校に行って、そのまま帰ってきやしない。金は送ってくるんだけど、それだけでさ。一年に一回も帰ってこない。頭がよくっても、これじゃあ寂しいだろ。あら、お客さんに愚痴を言っちゃったよ。ごめんね。ばばあの戯言だと思って、聞き流してよ」 「おばちゃんも大変なんだね」 「大変でない人間なんていないさ。あんたの見込みがどんなもんでも、生きてるんだったら、ずっといいさ。いつかは、きっと元に戻るからね。あたしがこんなところでのんびりと店をやっていられるのは、息子がどんなに薄情だと思ってても、元気でやってるってのがわかってるからさ。あんたもそうなんだろ?」 「ああ、そうだね、おばちゃん」 「ずいぶんと立ち入った話をしちゃったね。まあ、聞き流すもよし、もっと話したいなら付き合ってもあげるよ」 「サンキュ、おばちゃん」 コジローは外を眺めて思案した。働き口さえあれば、ここでしばらく過ごすのも悪くない。ダム工事とかがあるのなら、働く場所もあるかもしれない。コジローがおばちゃんに尋ねて見ようとしたとき、暖簾をあげて、もう一人入ってきた。 「?」 コジローは首を傾げた。どう見ても中学生くらいの子供が、ふらりと入ってきたのだ。Tシャツに半ズボン。いかにもガキ大将といった感じの子供である。頭は、刈り上げた頭が中途半端に伸びたように、ぼさぼさである。夏休みにはまだ早い。学校の終わる時間でもない。病気で休んだという感じでもない。創立記念日とかなら、一人しか出歩いていないのはおかしいだろう。コジローは判断しかねたが、何を言う立場でもないので、黙っていた。子供は、カウンターの端に座った。おばちゃんは声をかけた。 「よう、アザミ。きょうはなんか食べるかい?」 子供は顔をあげて、言った。 「クリームソーダ」 そのまま、カウンターの下から漫画を出して読み始めた。おばちゃんはクリームソーダを作り、子供に渡した。汗をかいているグリーンのグラスが、暑さにぴったりだった。 「おばちゃん、俺も」 おばちゃんは驚いたようにコジローを見て、クリームソーダを作った。 「はいよ」 カウンター越しに渡されたグラスを受け取る。氷で冷やされたグラスが心地よい。コジローは久しぶりの清涼飲料を楽しんで味わった。子供はクリームソーダを飲み終わると、漫画を片付けて立ち上がった。 「ありがと、おばちゃん」 そのまま出て行った。どうやらつけで飲んでいるらしい。コジローは緑色のソーダを吸い上げ、子供を見送った。おばちゃんはコジローに言うともなく呟いた。 「捜さなきゃいけないのも切ないけどさ。いるのにいないのも切ないんだよ」 コジローには、おばちゃんの謎のような言葉は、理解できなかった。 |
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★ 雇用契約 |
おばちゃんに聞いて、コジローは役場に行ってみることにした。そこの人材開発課というところに行けば、仕事を紹介してもらえると言うのだ。 「ただねえ。こんな季節だし、あんまり期待しないほうがいいよ。ダムのほうだって、しばらくは決まんないだろうし、工事が始まるのも先の話だろうからねえ」 コジローはおばちゃんに礼を言って、とりあえず教えてもらった道をぶらぶらと歩いていった。やはり、町全体にとげとげした雰囲気がある。コジローは風景を楽しみながら役場への道を進んでいった。役場につくと、2階から大きな垂れ幕が下がっている。 「ダム工事誘致。ダム湖の町 南野」 なるほど、ここがダム誘致賛成派の本拠地というわけか、とコジローは思った。古い大きなドアは、風を通すために開け放してある。コジローが明るい屋外から中に入って、目が慣れず、目をぱちぱちさせていると、声をかけられた。 「何かご用事ですか」 「ああ、仕事を見つけようと思ってきたんですが」 「それなら、人材開発課です。どうぞ、こちらに」 いわゆるお役所仕事ではなく、案内までしてくれる。コジローはこの町の行政は、きちんと機能していることを知った。 「悪くない」 コジローは呟いた。役場の右手前に人材開発課はあった。コジローは挨拶した。前の椅子に座るように言われる。担当者は、きびきびした対応の若い男である。 「このあたりの方じゃないですね」 「はい」 「なぜこちらに?」 「ちょっとした用事のついでに来たんですが、働き口があれば紹介してもらおうと思いまして」 男は少し考えているようだったが、紙を一枚、コジローに渡してよこした。 「こちらに記入をお願いします。わからないところは聞いてください」 コジローは記入したが、自分で見ても怪しい。決まった住所はあるのだが、保護者、後見人のような者はいない。普段の住所・連絡先は不定。まったく特記できるいいところはない。おかしくなって笑いをこらえながら、担当者に渡した。担当者は、目を通し、困惑している。コジローは相手が気の毒になった。 「すいません。やっぱり、いいです」 「いや、そうもいかないでしょう。できれば働かれたいんですよね。確かに、このあたりにこの時期じゃ、あまり仕事もないんですが……」 男は助けを求めるように、後ろの女性を振り返った。けっこう年配の女性だが、男の表情を見て、すぐに立ってきた。 「どうしたの、コウノくん」 「サコミズさん、何かいいお仕事はありますかね」 コウノは目立たないようにコジローの記入した紙を見せた。サコミズは、腕を組んだ。 「そうね……」 サコミズはコジローを眺めた。 「身体は丈夫そうね。体力には自信ありますか?」 「はい」 「きつい割に、安い仕事しかないのよ。夏休みになったら、高校生がアルバイトでやるような、農家の手伝いとか。住所がここなら、ハンバーガー屋や牛丼屋でも、もっと楽で、お金を稼げるのを知ってるでしょ?そっちのほうがいいと思いますけどね」 「このあたりにちょっと興味を惹かれまして。ダム建設の話があるそうですね」 「ええ。よく知ってるわね」 「駅前の喫茶店のおばちゃんに聞いたんです。ここで仕事を紹介してもらえるって話も」 サコミズは少し興味を惹かれたようだった。 「喫茶店って、定食喫茶?マグノリア?」 「そんなにしゃれた名前だったんですか。ええ、確かに定食喫茶です」 「チヒロさんと話をしたの?」 「おばちゃんとは話をしましたけど。頭のいい人でした」 「なら、チヒロさんだわ。チヒロさんがねえ……」 サコミズはもう一度コジローをじろじろと品定めした。 「言った通り、安くて重労働よ。それでもいいの?」 「かまいません」 「住み込みのほうが良さそうね」 「できれば」 サコミズはコウノのほうを振り返って言った。 「ねえ、ヤマネさんのところがいいんじゃないかな。あそこは息子も外に出てて、けっこうきついって言ってたから」 コウノは綴じてある分厚いファイルをひっくり返して、確認した。 「そうですね。すぐにでも人が欲しいっていっていましたから」 コウノはコジローのほうを見て言った。 「条件は学生の夏季アルバイトと同じですけど、よろしいですね」 「ええ。よろしくお願いします」 サコミズが口を挟んだ。 「本当に人手がなくてきつい家なの。よろしくね」 コジローは頭を下げた。 「さて、と。どうするかな。コウノくん、私がついていくわ。所内は任せていいかな」 サコミズがコジローをヤマネさんのところまで案内してくれるらしい。コウノはあいまいに手を振った。 「この時期は、まだ人が来ませんからね。私だけでも大丈夫でしょう。いってらっしゃいませ」 「よろしくぅ」 語尾を跳ね上がらせて、サコミズが机に戻り、用意を始めた。コジローは、思いもよらぬ展開に、声をかけた。 「あの、場所さえ教えてもらえれば、一人で行きますよ。わざわざ案内してもらうなんて」 コウノがコジローにウインクした。 「いいんですよ。サコミズさんは、あなたを案内した後、そのままうちに帰るつもりなんだから」 「コウノくん、余計なことは言わない。まあ、そういうわけなんで、案内させてね」 「はあ」 役所勤めには、いろいろと約束事があるようだ。コジローは言葉に甘えることにした。 |
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コジローはサコミズの軽自動車に乗り、稲の青々とした田んぼの間の道を、山に向かって進んでいた。 「仕事はいわゆる農家の手伝い。何でもさせられるから、そのつもりでね。アルバイトというより、親戚の手伝いくらいのつもりでいないと、不満も沸いて、毎日がつらくなるから。難しいかもしれないけど、そういう気持ちになるように努力してね」 「はい」 サコミズはしばらく黙ったまま車を走らせた。 「喫茶店の、おばさん。チヒロっていう人なんだけどさ、どんな話をしたの」 「まあ、いろいろです」 「切れるでしょ、あの人」 「ああ、それは驚きました。すごい洞察力で」 「ふうん。けっこう立ち入ったみたいね。あそこのうちは、息子も理屈が服を着て歩いているような子でね。面白かったなあ。今は都会で働いていて、滅多に帰ってこないみたいだけどね。あの人、人を見る目もあるの。本当なら、あなたの経歴書じゃあ、絶対雇ったり出来ないんだけどね。人を入れるのは、けっこう気を使うのよ。ま、私の見たところと、チヒロさんの話で、まあいいかな、って感じなの。くれぐれも、顔に泥を塗らないでね」 「ええ。自分の顔には、田んぼの泥を塗ることになりそうですけどね。美容にはよさそうだから」 サコミズはふっと息を吐くように笑った。 「今、この町はけっこう大変なのよ」 「ダムのことですか」 「ビンゴ。それもチヒロさんに?」 「はい。どちらの主張ももっともですから、これからが大変でしょうね」 「ほんっとにわかんないのよね。どっちがいいか、なんてさ」 「でも、聞いた限りだと、この町には将来大きな発展が望めそうなものはないんですよね」 「そうね。昔ながらの第一次産業頼りの町だからね」 サコミズは、また黙って運転を続けた。ややあって、赤い橋が見えてきた。 「やっぱり、新しい風を入れるべきなのかな」 ほとんど独り言のように、サコミズは言い、目の前の橋の向こう、山と山が連なるあたりを指し示した。 「あのあたり。あのあたりにダムが出来ることになるの。もし、ダムが作られることになれば」 「村がいくつか沈むことになるそうですね」 「そうね」 車は赤い橋を渡った。 「ここから少し行ったところが、ヤマネさん家よ」 「サコミズさんのお宅はどちらなんですか?」 サコミズは少し蓮っ葉に笑った。 「あたしんちは、もう少し山の方に入ったところ。沈むのよ、ダムが出来たら」 「それは……」 「だから私は、客観的な判断が出来ないの。ずいぶん頑張ってきたつもりだけど、やっぱりこういうときは駄目ね。プラスでも、マイナスでも、主観がちらついちゃって、自分が公正な判断をしようとしているかどうかがわからなくなっちゃう。人間、なかなか覚りきれないもんだよね」 コジローには答えようがなかった。元より、答えのいる問題でもなかったのかもしれない。すぐに車は一軒の、藁葺き屋根の農家の前で止まった。手前には川は流れており、涼しげな水音を立てていた。鶏小屋の中で、鶏たちが騒がしく餌をあさり、庭に続く畑の中で、蜂たちが、真夏の午後の、眠くなるような空気の中を、ぶんぶんとうなりながら勤勉に飛び回っていた。 |
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