微量毒素

黄の魔歌 〜幸福の壁〜 p.12


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1 この町では何かが起こっている p.1
2 雇用契約
3 よそもの p.2
4 賛成派と反対派 p.3
5 三ヶ村へ p.4
6 要は、皆が幸せになれれば(1) p.5
要は、皆が幸せになれれば(2) p.6
7 本当に、いいのかな。揺れるアザミ p.7
8 住民の総意 p.8
9 始まった工事(1) p.9
始まった工事(2) p.10
10 夜釣り p.11
11 キャッチャー・イン・ザ・ライ p.12
12 天の海に雲の波たち月の船 p.13
13 アザミは決めた p.14
14 道行き

★ キャッチャー・イン・ザ・ライ

 9月のある朝、サコミズの家の戸を、早朝に叩く者があった。サコミズは目を覚ましたが、まだもうろうとしていた。ようやく明るくなりかけたぐらいであり、サコミズの母親が応対に出たようなので、もう一眠りすることにした。しかし、早朝にも関わらず、サコミズの母は大きな声を出して、ばたばたと騒いでいる。それが押し留められたかのように、突然静かになった。小声になっても、緊迫した気配は伝わってくる。サコミズは眠い目をこすりながら、起き上がった。

「なんだってのよ、まったく」

 サコミズが玄関に向かうと、曲がり角のところで、ミィがネグリジェ姿のままで、怯えた顔をして、両手で口を押さえて立っていた。

「!?」

 サコミズが小走りに曲がり角を曲がると、玄関には母親と、コジローと、祖父がいた。母親はおろおろとして、言った。

「ミィちゃん、バスタオル!」

 目を見開いていたミィは、弾かれたように振り返って、走って行った。母親は、目でサコミズを呼んだ。サコミズは早足で、祖父の下へ近寄った。祖父は全身濡れ鼠で震えていた。母親はその祖父を抱きしめながら、小声で繰り返し、祖父の名を呼んでいた。母親は目を上げ、サコミズと目を合わせた。その目は恐怖で濡れていた。サコミズは、母親の目から視線を離せなかった。信じられないことだが、母親は怯えており、サコミズの視線を必要としていたからだ。そこへ、ミィがばたばたとタオルを持って走ってきた。タンスの中の、取れるだけのタオルを持ってきたらしく、後ろに点々とタオルを落としながらである。母親はミィを見て、ようやくいつもの元気を取り戻した。

「早く、タオルを。おじいちゃんを拭かないと」

 母親にタオルを渡し、ミィも一緒に祖父の身体を拭き始めた。祖父は震えてはいるが、意識はしっかりしているようだ。サコミズが顔を上げると、コジローが、縦格子のガラスの引き戸から差し込む朝日を背後から受けて、黒いシルエットになって立っている。その影が、サコミズの家へ不幸を招き寄せたように感じ、さらにその影が拡がり、覆い被さってくるような妄想を感じて、サコミズはブルッと震えた。

「おじいさんは大丈夫。少しショックを受けているだけだから」

 影が気遣わしそうにサコミズに語りかけるのを聞いて、悪霊の幻想は消え、馴染みの顔が見分けられてきた。コジローは、サコミズを差し招いた。サコミズは、まだ謂れのない恐れを感じながらも、パジャマのまま玄関に下り、サンダルをつっかけた。

「お姉ちゃん」

 ミィの声には、まだ、恐怖と混乱が溢れている。サコミズはだいぶ落ち着いてきていた。ミィを宥めるように曖昧に手を振り、コジローの開けた戸から外に出た。


 太陽が顔を出し、あたりを穏やかに照らしてはいるが、サコミズは、今日、死がサコミズの家に立ち寄ったということを確信していた。サコミズはコジローと正面から向き合い、言った。

「ダム湖なの?」

 コジローは頷いた。

「夜釣りをしていたら、おじいさんが、ダム湖に飛び込んだんです。それで慌ててボートを寄せて引き上げました。幸い、そんなに水を飲んでいなかったので、すぐに元気になりました。気持ちはしっかりしているようだったので、自転車に乗せてきました」

 何となく、これまでに何度も同じ言葉を繰り返してきたようなコジローの言い方に、サコミズは嘘を直感した。

「何人目なの」

 サコミズは言った。コジローの目が揺れ、サコミズから逸らされた。

「そうそう、飛び込みがあったら、のんびり夜釣りなんてしてられませんよ」

「何で隠すの?」

「隠してなんか…」

 言いかけて、コジローはサコミズの顔を見た。神々を惜しみながらも、ダム建設がみんなの幸せになると信じて、それを推進した女。その女の真剣な瞳は、コジローにこれ以上の隠し事を思いとどまらせる力を持っていた。

「おじいさんで、8人目です」

「そんなに...」

 サコミズの眉が曇った。自分はいったい何を見ていたのだろう。

「騒ぎになると、せっかくみんながダムが出来たことを前向きに考えているのに、それにブレーキをかけてしまいそうなので、助けた人と、その家族には、触れ回らないようにお願いしています。それで、サコミズさんの耳にも入っていないんでしょう」

(コジロー君が悪いわけじゃない。言い分ももっともだし、おじいちゃんを助けてくれたんだから。でも...)

「何で言ってくれなかったのよ!」

 食ってかかるサコミズに、コジローは困りきったように笑った。

「サコミズさんに言ったら、どうしました?」

「そりゃ、いろいろあるでしょ。自殺したい気持ちになっている人をケアしたり、立て札を立てたり、柵を作ったり...」

 サコミズの声は尻すぼみになっていった。

「お分かりになったようですね。不可能なんですよ、自殺しようと思った人を、普通できるような対策で止めるなんてことは」

 コジローは疲れたように言った。

「それに、今回の一連の自殺衝動は、家族の方々もほとんど気がついていないんです。ちょっと元気がないかな、と思うくらいで、外見上はほとんど普段と変わりません。本人も、死にたいと思ったことはないと言うんです。ただ、村に帰りたかったんだ、っていうだけで」

 サコミズも、おじいちゃんの心が、そこまで追い詰められていたということを、まったく気付いていなかった。

「まったく気付かなかった。元気がないようだから、昨日はおじいちゃんの好きな料理をたくさん作って、おじいちゃんも、とても喜んで食べていた...」

 そこまで言って、サコミズは愕然とした。村に帰りたかった、って。それじゃあ、おじいちゃんの好きな料理をいっぱい用意したせいで、おじいちゃんは余計村が懐かしくなって、それでダムに行ったのかもしれない。

「大丈夫ですか?」

 コジローが聞いてきた。自分は随分、ひどい顔をしているらしい。サコミズはかろうじて頷いた。

「ひょっとして、昔から好きだった料理を出したから、村に帰りたくなったのかしら」

 サコミズは不安をあえて口に出すことで、それに対峙することにした。コジローは寂しそうに笑って言った。

「それはあるかも知れませんが、あくまできっかけですから、そんなに気に病むことはありません。心に大きな喪失感を持ってしまったら、いつかどこかで、必ずそれが溢れ出てしまうでしょう。それが早くなって、私が助けられたんだから、かえって良かったんですよ。そう思っていかないと」


「あなた、そのためにずっとダム湖に行っていたの」

 コジローは笑って答えない。

「夜釣りなんて嘘。釣りなんかしていなかったもん」

「いつぞやの夜ですね。あの時はびっくりしましたよ。誰か来たと思って神経を尖らせていたら、サコミズさんが来たから、まさか、と思ったらどうも様子が違う。ミィさんまで来て、一騒ぎでしたね」

「…気付いてたの?」

「逆に、俺が心配されていたなんて、二重に驚きました。嬉しかったんですけどね。余計な心配をかけちゃっているから、サコミズさんには打ち明けようと思ったんですけど」

「打ち明けてくれればよかったのに。町の人間でもないあなたにここまでさせて、こっちが恥ずかしいわよ」

「町の人間でない方がいいんですよ。どうしても大騒ぎになってしまうだろうし、騒ぎになってしまったら、つらさを心の奥にしまいこんでしまって、みんなが用心を忘れた頃に、突然帰りたくなったりしたら困りますからね。それに、地元の人間同士だと、いつまでも変な意識が残ってしまうし、俺ならいつかいなくなって、そのまま忘れられてしまえばいいんだから」

「そんなことはないでしょ」

 言いながら、サコミズはコジローの言うことに納得している自分もいることに気付く。自然に腫れ上がってきた時に、そのまま膿を出してやった方がいいのかもしれない。

「サコミズさんに打ち明けるのは、チヒロさんと相談してやめました。サコミズさんのおじいさんも、危ないと思われる人の一人だったので、それを意識させると、気持ちを隠されてしまうから、と」

「危ないと思われる人?何か判断できる基準があったの?あったんなら...」

「あったのなら、どうします?その人たちみんなにメンタルケアと称するものを施して、本当の気持ちを隠させてしまいますか?それとも、自殺など出来ないようにずっと監視するようにしますか?いずれにしても、町の雰囲気はとても悪くなってしまうでしょうね。中には、ダムを作ったこと自体が悪かった、と言い出す人たちも出て来るでしょう」

 サコミズは返す言葉がなかった。あなたは危ないから監視をつけます?そんなことをしたら、かえって死にたくなってしまうだろう。

「どうして分かったの?危なそうな人たちが...」

「去年あたりから、工事に入っていると、工事の様子をじっと見ている人たちを見かけたんです。いつの間にか来て、じっと見ていて、いつの間にかいなくなって。その人たち全員の様子を、チヒロさんに見ていてもらったんですよ」

「おじいちゃんも、見に行ってたんだ...」

「ええ」

 サコミズは、工事をうつろな目で眺めているおじいちゃんのことを考えて、涙を零した。

「やっぱり、チヒロさんは知っていたのね」

「チヒロさんにはよくしていただいています。三ヶ村から町に来た人の話を聞いてもらったり、ちょくちょく用事を作って様子を見に行ってもらったり」

 サコミズは思い出した。こちらに来てから、チヒロさんは何度となくサコミズの家を訪れて、町の暮らしについて、細かいことや裏話を教えてくれていたのだ。サコミズはコジローとチヒロが、町のためにそこまでやってくれているとは思わなかった。サコミズは、チヒロさんは思ったより世話好きなんだな、くらいに思っていたのだ。

「そうだったの...ありがとう。ほんとに、ありがとう」

「好きでやってるんですから。チヒロさんにそんなことを言っちゃ駄目ですよ。怒り出すから」

 サコミズは少し笑った。少し歪んではいたが。

「二人だけでやってたの?」

 コジローは少し言い澱み、決心したように言った。

「アザミにも助けてもらいました。あの子はとても頭がいいんです。やっぱりみんなの家を訪ねてもらって、様子を見てもらいました」

 それもサコミズは覚えていた。何度かアザミがふらりと遊びに来て、ふらりと帰っていった。サコミズは、また前のような状態に戻ってしまったのかと危惧していたのだが。

「私は、何も見えていなかったのね...」


 コジローは笑った。

「それでいいんですよ。俺たちは、気づかれないようにしていたんだから」

 わかっている。わかってはいるのだが、「俺たち」という言葉に、サコミズは悔しさを感じた。そして、それを気取らせまいとするだけの見栄も持っていた。

「それで、危ない人はあと何人いるの?」

「これで全てかどうかわかりませんが、俺たちの考えているのは、あと一人です」

「だれ?」

 コジローは今までと変わり、少し厳しい目をサコミズに向けた。

「教えられませんし、考えもしないようにして下さい。そうでないと、うまく気持ちを吐き出せなくなってしまうかもしれませんから」

「あたしは信用できない、ってこと?」

「思ってもない言い方はやめてください。俺がサコミズさんを信用していないわけないでしょう。ただ、サコミズさんは、それを知ったら何とかしてあげたくなってしまうでしょう?それがまずいんです。これをやれるのは、それを知って自分の気持ちを隠し通せるだけの冷血漢だけなんですよ」

「チヒロさんも?アザミくんも?」

 分かってはいるが、どうしても出てしまう皮肉。本当の意味は分かっているのに、「俺たち」の中に入れてもらえない疎外感が、サコミズの口を勝手に動かしている。コジローも察してはいるのだが、サコミズさんにここまで言われると、受け入れることが出来ない。

「そんなわけないでしょう!頭がいいから、感情を抑えられるんです!」

「私は頭が悪いからね」

「サコミズさんは頭、いいですよ!でも、頭以上に心が優しいから、感情に負けちゃうのが心配なんです!負けたら負けたで、また後でぐずぐず泣くでしょうが!」

 喧嘩腰のコジローの剣幕に、離れた玄関から、ミィが顔を出す。

「お姉ちゃん?」

「ああ、大丈夫。男の趣味のことで、意見が合わなかったのよ。おじいちゃんは?」

「大丈夫。今、お風呂に。」

「よかった。私もすぐに家に入るから。あんたも着替えなさい。その寝巻き、日の下だと透けるわよ」

 ミィは慌てて引っ込んだ。サコミズは、目を瞑った。疎外感は消えなかったが、ここまで言ってもらえれば十分だった。サコミズは目を開き、いつもの調子で言った。

「うん、わかった。この件に関しては、私は蔵の中にしまって置くわ。少年、大変だけど、最後までよろしくお願いするわね」

 サコミズは、完全にいつもの調子で言えたことに満足を覚えた。コジローは、サコミズの様子に少し戸惑っているようだったが、いつものサコミズに戻ったことを納得し、非礼を詫びた。

「言い過ぎました。悪いけど、これで納得してください」

 サコミズは頷いた。

「ねえ、最後の一人が助けられたら、この問題は終わるのかな」

 コジローは、ゆっくりと首を振った。

「そうと言い切れるだけの材料はありません。この一人を助けるまではいるつもりですが、その後は皆さんに目を光らせておいてもらわないとなりません」

 サコミズは虚をつかれた。

「そうか...コジローくんはまた行くんだね」

 コジローは少し寂しそうに笑い、自転車を置いてあるところに取りに行った。

「そう言えば、人探しをしているんだっけ。それなのに...」

 いつもならもうとっくにこの町を出ているのに、コジローは今年はまだこの町に留まっている。そして、不寝番で2ヶ月も費やしているのだ。

「じゃあ、おじいさんをお大事に」

 自転車を押して、道路に出ていくコジローに、サコミズは聞いた。

「ねえ、どうしてこの町の人間のために、そこまでやるの?」

 サコミズは、この町の人間じゃないのに、という言葉を呑み込んだ。しかし、コジローには呑み込んだ言葉もはっきり聞こえていたろう。

「さあ、わかんないですね。たぶん、性分なんでしょう」

 少し寂しげな顔をサコミズに向けて言い、コジローは自転車に跨って去った。


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