微量毒素

黄の魔歌 〜幸福の壁〜 p.11


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1 この町では何かが起こっている p.1
2 雇用契約
3 よそもの p.2
4 賛成派と反対派 p.3
5 三ヶ村へ p.4
6 要は、皆が幸せになれれば(1) p.5
要は、皆が幸せになれれば(2) p.6
7 本当に、いいのかな。揺れるアザミ p.7
8 住民の総意 p.8
9 始まった工事(1) p.9
始まった工事(2) p.10
10 夜釣り p.11
11 キャッチャー・イン・ザ・ライ p.12
12 天の海に雲の波たち月の船 p.13
13 アザミは決めた p.14
14 道行き

★ 夜釣り。

 8月の初めに、工事は完成した。だが、コジローは駅前のおばちゃんのところに居候し、町を去らない。チヒロさんは何か聞いているのか、サコミズが聞いても何も言ってくれない。サコミズはやきもきしたが、コジローはどうやらダム湖に夜釣りに行っているらしい。それも毎晩。

「何なのよ。つりが好きなんて、全然気付かなかったわよ」

 がっくりしながらも、サコミズは安堵していた。コジローは毎日、7時くらいからダムに向かう。夜釣りにしては早すぎるし、帰りは朝方だ。しかし、おばちゃんは、毎晩弁当を作り、コジローを送り出す。

 おばちゃんが弁当を作ってくれている間、コジローとおばちゃんは話をする。

「おばちゃん、前に息子さんの話をしたよな。どんなところに勤めてるんだい」

「普通の会社じゃないように聞いたけど。」

「役人かい」

「いや、そうじゃないね。半官半民みたいなもんなのかね。ぜんぜん詳しい話はしてくれないのさ。けっこう大きい組織みたいなんだけどね」

「ふうん……」

 やがて弁当は出来上がり、コジローは出て行く。出際に、おばちゃんの目を見て、コジローは頷く。おばちゃんは頷き返し、コジローに両手を合わせる。コジローは出て行き、すぐに自転車のスタンドを外す音がして、きこきこ漕ぎ始める音がする。音は次第に遠ざかって行く。おばちゃんは手を合わせ、目をつぶって呟く。

「今夜も、何事もありませんように」

 おばちゃんはじっと目をつぶっている。コジローは、ダムへ続く道を、自転車で飛ばしている。

「今日も何もないように」

 コジローの呟きは、風に散る。きょうは見事な三日月だ。空にかかりギロチンのような月の下を、コジローは自転車を飛ばして行く。


 サコミズは、気付かれるといけないので、坂の途中に車を止めてきた。聞こえるはずはないと思うのだが、自分の足音が気になる。今は夜の10時。懐中電灯だけでは、夜道はかなり怖い。

「だから、バカだってのよ」

 サコミズは自分をののしっていた。コジローの夜釣りが、いくらなんでもおかしいように思えるので、様子を見にきたのだ。堂々と来てもいいのだが、今のコジローは隠し事をしている。正面から行ったら、ぜったいに誤魔化されるだろう。それで、サコミズは、こんな馬鹿げた隠密行動をしているのだ。サコミズは、石を蹴ってしまった。転がった石は動き出し、ブーンという羽音を立てて、飛んだ。どうやら石と思ったのは、カブトムシか何かだったらしい。

「ったく!」

 ののしりも小声だ。サコミズは情けなくなった。このままユーターンして、帰って寝ようかとも思ったが、せっかくここまで来たのだから、夜の湖面を行くコジローの姿だけでも確認しようと思って前に進んだ。ようやくダムの近くまでたどり着いた。ダムの上は、終夜電気が点いている。サコミズはほっとして歩いたが、電燈には山中の虫が集まっているようだ。サコミズは大きく電燈を迂回した。サコミズは展望台に向かった。ここからなら、湖面が一望できる。展望台に昇り、湖面を眺めたが、コジローの乗っているはずの船の姿はない。

「?」

 サコミズがもっとよく見ようと身を乗り出したとき、後ろから押し殺した声がかかった。

「下よ」

 サコミズは付近の山々にこだまするような悲鳴をあげかけて、慌てて口を押さえた。押さえられたのは、聞こえたのが馴染みの深い声だったからである。サコミズは振り向いて名前を呼んだ。

「ミィ!」

 ミィが指をブイの形に開いて、しゃがんでいた。


「何なのよ!何であんたがこんなところにいるのよ!」

「いやあ、お姉ちゃんが夜中に家を抜け出していくもんだから」

 ミィはにっこりと微笑んだ。

「てっきり、男と会いに行くんだと思って、後をつけてきたの。ぜひ、お相手を見届けて、からかってやろうと思って」

「ミィ!」

「そしたら、山道に車を置いて、そのまま登ってくんだもん。これはまずいかな、と思ったわよ。でも、どうせここまで来たんだからと思って、後をつけてきたの」

「男と会ってたらどうする気だったのよ」

「もちろん、顔を確かめたら、直ちに撤退するつもりだったわよ。何が始まるか、わかりゃしないんだから」

「コロスー!」

 サコミズはミィの首を締めにかかった。しばらく無言で揉み合った後、二人は離れて睨み合った。そこで、思い出したようにミィが言った。

「そうそう、それで、コジローくんならダム際の陸のそばで、船に揺られてるわよ。ダムの上からだと、よく見えるの」

「陸のそば?」

 サコミズはわけがわからなかった。

「釣り竿は?」

「釣りはしてないよ。ずっと船の中で座ってる」

「???」

「まさか、お姉ちゃんを待っているんじゃないでしょうね」

 サコミズはミィに剣呑な目を向けたが、何も言わずに考え込んだ。毎晩、早い時間からここに来て、朝方まで船に揺られている?チヒロさんも一口噛んでいる以上、絶対に何かある。少なくとも、夜釣りでないことだけは確かだ。

「ミィ、撤退するわよ」

「え?いいの?」

「よくないけど、ここでこうしていても、何もわかんないってこと。娘が二人も家を空けてたら、親が心配するでしょ」

「大丈夫。お母さんには言ってきてあるから。相手がわかったら教えてくれって。邪魔すんじゃないよ、とも言っていたわね。行き遅れの娘が心配なのね」

「あんの親!」

 サコミズはミィを追い立てて、展望台を離れた。


 コジローは、船の中で苦笑していた。夜の山で、人の声は予想以上に通るものなのだ。

「サコミズさん...」

 サコミズさんが、コジローのことを心配してくれているのはわかった。心配をさせないようにと思ってチヒロさんにしか話していないのだが、逆に心配をかけてしまったようだ。

「話してみるか...」

 コジローは、明日チヒロさんに相談してみることにした。サコミズさんたちはもう帰ったらしい。山はまた、人間の気配をなくしてざわめいている。

「全山、風揺らぎ、神、その頤を開く、か」

 夜の山の中は、何か恐ろしい気配を孕んでいる。

「これに耐えるのも、けっこうな修行だな」

 修行といって、コジローはアザミを思い出した。

『目隠しドッチで修行すんだろ』

 アザミの声が、つい今発せられたかのように甦る。

「いけない、いけない」

 コジローは頭を振った。これも、山の魔魅。記憶が、本物よりも鮮やかに、頭の中に甦るのだ。そんなことに気を取られていては、コジローがここにいる意味がない。コジローは再び気を引き締めて、湖全体の気配を感じ取ろうとし始めた。向かいの岸で、魚が跳ねる。右奥1キロあたりで。水面を滑っているのは蛇か。コジローは意識をさらに広げた。はるか先の岸に大きなものが近づいている。コジローはそちらに意識を集中したが、どうやら猪か何からしい。水を飲み始めた。コジローはほっと気を抜き、ふたたび、全体に意識を拡散させた。今のところ、何も起きていない。今は、とりあえず。コジローは、再び待ちに戻った。


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