微量毒素

黄の魔歌 〜幸福の壁〜 p.4


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1 この町では何かが起こっている p.1
2 雇用契約
3 よそもの p.2
4 賛成派と反対派 p.3
5 三ヶ村へ p.4
6 要は、皆が幸せになれれば(1) p.5
要は、皆が幸せになれれば(2) p.6
7 本当に、いいのかな。揺れるアザミ p.7
8 住民の総意 p.8
9 始まった工事(1) p.9
始まった工事(2) p.10
10 夜釣り p.11
11 キャッチャー・イン・ザ・ライ p.12
12 天の海に雲の波たち月の船 p.13
13 アザミは決めた p.14
14 道行き

★ 三ヶ村へ

 次の日曜日、コジローは山道を登っていた。ダムが出来たら、家が沈んでしまう人たちの話を、実際に聞いてみたかったからである。舗装はされており、2車線は確保されているが、崖を切り崩したような道を、コジローは自転車で登っていた。

「これは、けっこう。きつい、ぞ」

 コジローは力をこめて漕ぎながら、山側の崖から木の差し掛かる道を登っていった。幸い、その木が日除けになり、直射日光は免れるのがありがたい。いい加減上ってきたと思っていると、不意に視界が開けた。峠の上にたどりついたのである。見渡すと、眼下は山また山である。振り返ると、そちらは町があり、人の暮らして居る場所という感じがするが、前方は明らかに、人よりも山の領域である。手をかざして見通すと、集落が何ヶ所か見える。下って最初の集落が、沈む三ヶ村のひとつの伏岩(ふせりいわ)である。反対派のリーダーのヤマシタさんが、そこに居を構えているはずである。サコミズさんの家は、さらに奥の三瀬火(みつせび)だと聞いている。コジローはしばし山上の風に吹かれ、疲れを癒した。身体のほてりが治まってから、コジローは再び自転車に跨り、山道を下り始めた。


 両足を踏ん張って立っているヤマシタさんの前で、コジローは弱り切っていた。道端の村の人に聞いて、ヤマシタさんの家にたどり着いたのはよかったのだが。

「あんたはヤマネのとこに居候している若い衆だな。噂は聞いたことがある」

 その噂がいいものでありますように、とコジローは願いつつ、話を始めた。

「ええ、それでですね、きょうはちょっと、ヤマシタさんにお聞きしたいことがありまして、伺いました」

「何だ」

「ダム建設のことなんですが」

「何だと?なんでよそもんがそんなことを聞いて回る?」

「いえ、ちょっと興味がありまして…」

「おまえ、会社の回しもんだな?いいか、よく言っとけ。俺はぜったい反対だ。誰が何を言ってこようと、変えん。戻って言っとけ。謀略は失敗したと」

「謀略って…違いますよ。俺はどこともつながってません。ただ、意見がいろいろあるって言うんで、聞いて回ってるんです」

「学生の自由研究か?人の不幸を宿題のネタにしようたあ、いい根性だ」

「違います。学生でもありません」

「学生じゃねえ?じゃあ何のためにそんなことを聞いて回ってんだ」

 コジローは詰まった。何のため、といえるようなものはない。何となく、聞いて回っているだけと言えば、その通りなのである。

「何のため、でしょう」

「バカか。こっちが聞いてるんだ」

「バカかもしれません…」

 コジローは答えに窮した。不思議なもので、窮したコジローを見て、ヤマシタさんの態度は少し軟化したのである。

「大きな声で言えるような理由はないのか」

「そうですね。町で聞いた話で、ダムをどう考えるか、もめていると言う話を聞いて、なんか助けになるようなことは出来るかと思って聞いて回っているんです」

「おまえ、そういうのを何ていうかは知っているだろうな」

 仕方なく、コジローは答えた。

「思い当たるところだと、お節介って言葉がありますが」

「おまえ、バカだな」

 しみじみとヤマシタさんに言われて、コジローは情けなくなった。ここでは、これ以上は聞けそうもない。コジローは辞去することにした。

「どうも、お騒がせしてしまいました。きょうはこれからサコミズさんのお宅にも伺って見るつもりですので、これで失礼します」

 ヤマシタさんは驚いたらしく、固く締め付けていた腕組みを弛めた。

「これから三瀬火に行くのか」

「はい」

「やめとけ。日が暮れるぞ」

「大丈夫です。自転車だから」

「山一つ向こうだぞ」

「わかってます」

 ヤマシタは家のものを呼んだ。

「おい。ヤスシ。おまえ、これからこのあんちゃんを三瀬火まで送ってやれ」

「おう」

 若い男は軽トラックのエンジンをかけ、支度を始めた。コジローは驚いてヤマシタに言った。

「いいですよ。そんな迷惑はかけられませんから」

 ヤマシタはコジローをじろりと見て言った。

「迷惑だと思うんなら、最初からうちに来るな。うちに顔を見せたもんが、夜の山道を歩き回ってるなんて思ったら、気伏せりでしょうがねえ。迷惑かけたくないんなら、乗っていけ」

 言葉は悪いが、心配してくれているのだ。コジローは頭を下げた。

「ありがとうございます。お世話をかけます」

 ヤマシタはそっぽを向いて言った。

「まったく、大世話だよ。二度と来るなよ、青二才」

 コジローはにやっと笑って軽トラに乗り込んだ。荷台には、コジローの自転車が積まれている。

「お願いします」

 コジローが頭を下げて言うと、ヤスシさんは軽く頷いて、アクセルを踏んだ。砂利道をがたがた揺れながら走る軽トラのミラーに、一瞬ヤマシタさんの姿が映り、舞い上がる土埃の中に消えた。


 確かに、三瀬火までは結構な道のりだった。

(サコミズさんは、いつもこの道を町まで行っているのか)

 コジローは見事な山の景色に見とれながら思った。

(精神の健康にはいいだろうけど、けっこう大変だな)

 ヤスシさんが左手を上げて、前方左の渓流を指差した。

「あれが一之瀬。今、この車が通ってる山から三之瀬が流れている。右の奥から来る二之瀬とぶつかるところが、三瀬火だ」

 道は山に沿ってぐるりと回っている。その先で左に下りていく道があり、軽トラはそちらに向かった。傍若無人に生い茂る木のトンネルを抜けると、赤い橋が見える。その橋を渡った先に、村があった。

「仙境みたいだな…」

 コジローが呟くと、ヤスシさんがにやっと笑って言った。

「天女が住んでるぜ、この村にはな」

 コジローが意味を図りかねていると、軽トラは一軒の農家に突っ込んだ。


 サコミズさんのうちも、ヤマネさんのところと同じ、立派な古民家だ。佇まいの風情に見とれていると、ヤスシさんが玄関から呼ばわった。

「ちゃあ、チィさん、客人だ」

「はぁーい」

 サコミズさんの声がして、ばたばたと走ってくる音がした。

「ヤスさん、珍しい。ずいぶん久しぶりだけど、自分を客人呼ばわりはないでしょう」

「ちがう。客人はあっちだ」

 ヤスシさんは、コジローのほうに顎をしゃくった。

「コジローくん!」

 コジローは頭を下げた。サコミズさんはヤスシさんとコジローを見比べた。

「どうにも、接点がわからないな。ヤマシタ家の総領と、ヤマネさんとこの手伝いと」

 ヤスシさんはにやりと笑って、家の裏に向かった。

「ヤスシさん、自転車は降ろしますから。帰りはいいです」

 コジローが慌てて声をかけると、ヤスシさんは振り向きもせず、言った。

「送る」

「いいのよ、ヤスさんはヤスさんで、大事な用事があるんだから」

 サコミズさんが言った。コジローが首を傾げると、サコミズさんはころころ笑った。

「それで、きょうはどういうわけで、ここに?」

「ああ、実は…」

 コジローがヤマシタさんのところに話を聞きに言った顛末を話すと、サコミズさんは目を丸くして言った。

「驚いた。けっこう本気で調べてるのね。で、どんな話を聞けた?」

「いやあ、少し感情的になられているみたいで…俺の切り出し方も悪かったんですけど」

 サコミズさんはけらけらと笑い出した。

「いや、それは違うよ、少年。ヤマシタさんなら、菩薩様とだって喧嘩するだろうってのが、このあたりのヤマシタさん像だよ。叩きだされなかったんなら、気に入られてるんだよ」

「そうでしょうか。でも、そうかもしれませんね」

 わざわざ車を出してくれたのだ。悪感情はないだろう。

「でも、ダム建設を反対する理由を聞きたかったんですが、ちゃんとした話にならなかったのは残念です」

「理由なんてないのよ」

 サコミズさんは、寂しそうに言った。

「それはヤマシタさんもわかってるの。ダム建設にはね、賛成派も反対派も、ちゃんとした意見なんてないのよ。なんせ、話が大きすぎるからね、いいことも、悪いことも」

「ああ、それは私も感じました」

「だから、後は覚悟だけなの。ヤマシタさん自身は、ダムが出来てもいいと思ってるんじゃないかな。でも、近所のお年寄りが嘆くのを聞いているとね…三ヶ村の大きな声で反対できない人たちの代弁を引き受けてるんじゃないかな」

 その人物評は、コジローにも頷けた。

「ここの人たちは、自分たちの故郷を失ってしまうわけですからね。これは大きいです」

「それで、ここの意見も聞きたくて、遥か仙人の村までやってきたわけなんだ」

「まあ、そうです。ヤスシさんは天女の村だって言ってましたけど」

 サコミズさんはぷっと噴き出した。

「あの無口な朴念仁がそんなことを?まあ、ちょっとこっちへ来て御覧なさい」

 重い話題から離れて、サコミズさんもほっとしたらしい。コジローを家の裏に誘う。コジローがついていくと、ヤスシさんが、掘り抜き井戸の縁に腰掛けている。その前の、掃き出し窓を開けて腰掛けている女性と話していたらしい。ヤスシさんが照れたように片手をちょっとあげた。

「ミィよ。うちの4番目の妹」

 女性は頭を下げた。サコミズさんに似ているが、もっとおっとりした感じで、笑窪が可愛い。服は飾り気のない開襟シャツにジーンズ。

「もうちょっと装えばいいのに」

 サコミズさんが言うと、ミィさんは頬を赤らめた。

「いきなり、来るんだもの」

「この兄ちゃんのおかげでな。なかなか、親父がうるさくて。ダムの件で」

 サコミズさんが推進派なのが気に入らないのだろう。

「でも、連れてきていただくのに、ヤスシさんを呼びましたよね」

「親父も気が差してんだろう。関係ないからな、ダムがどうでも」

「そうよそうよ、人の恋路を邪魔する奴は、ってね」

 サコミズさんが油を注ぐ。ミィさんは真っ赤になって、サコミズさんをたしなめた。

「お姉さん!」

「わりぃ、わりぃ。邪魔者は消えますよ」

「もう!」

 サコミズさんはコジローを手招きして、表に戻った。

「と、言うわけなのよ。だから、ゆっくりしていきなさい。人助けだと思って」

「はあ」


 コジローは家に上がらされ、サコミズさんの家族ことごとくに紹介され、話を聞かされた。やはりここでも、出来れば家を離れたくないが、いつまでも横棹を差してはいられないという、諦めにも似た空気を感じ取れた。

 前に進まなければいけない。しかし、大事なものを失いたくないという、両立することの出来ない問いの中で、この町は揺れている。しかし、どこかで踏ん切りをつけなければならないのだ。駄目なら駄目で、何の問題もない。ただ、その場合、この町は次第に衰えていくだろう。若い人が働くところがなければ、外に出て行かざるを得ない。人が出てゆけば、町は政治・経済・産業全ての面において、衰退していかざるを得ない。表に向かった掃き出し窓の前で、前に聳える山を見ながら、考え続けるコジローを、同い年くらいの女の子が食事が出来たと呼びに来た。かなり照れているらしい様子が微笑ましい。

「学校はどこ?」

 と聞くと、町からさらに電車で向かう高校だと教えてくれた。毎朝、サコミズさんの車に便乗して、町まで行くらしい。学校は楽しいかと聞くと、頷いてころころと笑った。電話を借りて、ヤマネさんのところに連絡する。ヤマネさんは気をつけて帰ってくるように言った。

 まだ4時前だが、せっかくだからと急遽宴席をしつらえたらしい。食事は、ヤマネさんのところと似たようなものだが、渓流の岩魚が出た。先ほど、ヤスシさんも一緒に取りに行って来たらしい。先が三叉になったヤスという銛で、水めがねで覗きながら取るそうだ。二之瀬の上流には、大きな沼があり、主がいるらしい。ダムが出来てもそこまでは沈まないが、水面が近くなって、主さんがびっくりするだろうといって盛り上がった。三之瀬には滝があるが、これは沈んでしまう。一之瀬は、ダム湖に水を供給する主流になる。いずれにしても。このあたりは水没して、水が溜まれば、今いるあたりから30メートルくらい上にボートの底が見えるようになるらしい。

(ここの人たちは、つらいことを乗り越えていこうとしている)

 コジローは切ないながらも、力強さを感じた。町のためには、やはりダム建設が必要なのかもしれないと思った。


 日も翳り始め、コジローはサコミズ家を辞去することにした。ヤスシさんは、たっぷりの時間をミィさんと過ごしたが、さらに名残を惜しんで、軽トラの運転席で、ミィさんと言葉を交わしている。コジローが軽トラに近づくと、サコミズさんがコジローの腕を押さえた。

「?」

「これは、誰にも言ったことないんだけど」

 サコミズさんは視線を一之瀬の方に向けたまま、コジローのほうを見ずに言った。

「三瀬火の名前の由来を知っている?」

「ヤスシさんから。三つの瀬がぶつかるところにできた集落だからなんでしょう?」

「うん。でも、それだけじゃないのよ。この瀬がぶつかるところにはね、時々、山の神様が遊びに来るの。昼間は人間が居るから姿を見せないんだけどね、夜遅くに瀬のぶつかるところに来て、そこで遊んでいるの。暗いから、火をつけて。それが見えるときがあるのよ」

「だから、火なんですか」

「ええ」

「ほんとうに火は灯るんですか?」

「ええ。普通の火とは違う火がね。よくお化け話で出てくる、火の玉みたいなものかもしれないわね」

「…見たことがあるんですね?」

「うん」

 そう言ったサコミズさんの横顔は、まるで幼い少女のような表情を浮かべていた。

「この村の者は、みんな見たことがあるの。でも、ここにダムが出来たら、三瀬はなくなっちゃうのよね。そうしたら、山の神様はどこで遊ぶのかしらね…」

 サコミズさんは黙り込んだ。コジローは、サコミズさんが泣いているのかと思って、そっと顔を見た。サコミズさんは、泣いてはいなかった。大人の女の憂いに満ちた表情、たとえば、心から愛している相手と、二度と会えなくなることを予感している女の表情を浮かべていた。いつの間にか、ヤスシさんとミィさんも話を止めて、こちらを見ていた。話が聞こえていたはずはないのだが、サコミズさんの哀しみ、あるいは喪失感のようなものに満ちた空気を感じたのだろう。サコミズさんは、コジローのほうに向き直り、いつもの向日葵のような笑顔を見せた。

「それが、私の、本当の気持ち。これだけ。私はこの気持ちを背負って、ダム建設の推進派でいるの。三ヶ村の人たちは、みんなこういう気持ちを心の中に抱いていると、それだけは、コジローくん、君の胸の中にしっかりと刻み込んでおいてね。あーあ、恋人にもしたことのない話をしちゃったよ」

 コジローは、そう言って笑うサコミズさんの匂うようなあでやかさに、すっかり中てられ、どぎまぎしてしまった。照れ隠しか、サコミズさんはコジローの背中をぱあんと叩き、トラックに誘った。

「じゃあ、また。楽しかったわよ」

「今度は俺も岩魚を取りに連れて行ってください」

 サコミズさんとミィさんと、家族みんなに送られて、軽トラはがたがたと発車した。山を回る道をたどり、山の中の隠れ里の灯がすっかり見えなくなった頃、コジローは前方の闇を見たまま、ヤスシさんに言った。

「天女の村だ、って意味がよくわかりましたよ」

 ヤスシさんは頷いた。

「俺も、便利がよくなるのはいいと思うが、あの村がなくなるのはつらいな」

「ほんとうに、つらいですね。なくなってしまうというのは」

 騒ぐ山の声を耳にし、闇に包まれた山の全貌の、ほんの一隅をヘッドライトで照らし、切り抜いてそれが流れてゆくのを見ながら、コジローは危惧をもって考える。

(あの村の人たちは、未だに人間よりずっと神様に近いのかもしれない。里に出てきたら、どうなってしまうんだろう)

 山はさやぎ、また静まる。その合間を縫って、コジローを載せた軽トラックが、人里に向けて走って行く。


 コジローは、される側の話だけでなく、する側の話も聞いてみることにした。町の一軒を借りて設置されている、準備事務所に電話してみたところ、翌日の午前なら、話をする時間が取れると言う。翌日、ヤマネさんに作業を休ませてもらって、コジローは自転車で出かけた。

 ダム建設について質問したいという話を聞いて出てきたのは、30代くらいの男だった。コジローが若いのにとまどっているようだったが、質問の意図を理解してからは、けっこう突っ込んだ話をしてくれた。

 コジローの質問は、「ダム建設は住民のためになるか」ということである。建設しようとしている側に聞くのも如何なものかという質問だが、要は『ためになる』という見込みがあればいいのだ。まだ30代という若さのせいか、担当者は率直な意見を述べてくれた。

「ダム建設が、即住民のためになるかというと、これは難しいでしょうね。工事の時に、一時的に人手は要りますが、あくまで一時的なものですし、この町のようにお年よりが多い町では、外から人を雇うことになるので、雇用の足しにはなりません。ただ、外から来たものは、それなりに町で飲み食いするわけだから、多少は町が賑やかになると思います。工事が終われば、観光客も望めるようになるでしょうが、観光船をダム湖に浮かべるなど、投資も必要になります。リスクもありますね。一番大きいのは道路かなあ。資材搬入のために、ちゃんとした道路が作られますから、これはずっと町のためになると思います」

 どうも、それほどのメリットはないようだ。道路ができても、運ばれてくる物や人がなければ、活性化は望めない。コジローが考え込んでいると、男は、これは個人レベルの感想だが、と言って話をしてくれた。

「造らせてもらう側が言うと、宣伝めくんですが、町は活性化すると思います。このあたりでも、いくつかのダムが、既に建設されています。その町に行ってみれば分かりますが、町は活気がありますよ。道路は、敷かれるだけで、人を運んでくるものです。それに、自分たちの町でできた電気が、他のところに住んでいる人たちの役に立っているという意識が、自然に浸透して、ダムのある自分たちの町に、誇りのようなものが出来てきています。これは.私の口先だけでなく、実際に見ていただけば、すぐに実感できると思います」

 これはコジローの心の琴線に触れた。コジローは、ダムが作られたという町の名前を教えてもらった。男は、それぞれの町のダムを紹介する案内書を分けてくれた。礼を言ってコジローが辞去するとき、男は言った。

「ぜひ、先輩の町を見てきて、宣伝してください。私たちのためというのではなく、きっとこの町にとって、ダムを造ることは悪いことじゃないと思うんです。個人的な意見ですがね」


 開発会社の人の話を聞いて、コジローはいくつかの町を回ってみた。特に目的があったわけではないが、町の雰囲気を見たかったのである。コジローの印象では、どの町も活気があるように感じた。個人の感じだから、正しいかどうかはわからないが、その活気が地に付いたものであることは感じ取れた。町の人とも話してみたが、ダムの話になると、みんな胸を張って喋るのだ。

「ダムは、町の住人の誇りになっている」

 ここで作られた電気が大勢の人の役に立つという意識が、町の人間に誇りをもたせている。この誇りは、なまじな利得より、町を活性化しているようだ。これが永久に続くものかどうかは分からないが、コジローは前向きなメリットと受け取った。

 コジローは気になっていた、沈んでしまった村の人にも、話を聞く機会を得た。何人もの人に聞いたが、答えはだいたい共通している。

「そりゃ、つらいさ、今でもな」

 みんなこのように言う。

「だけどさ、仕方ないさ。電気はいるんだろうし、自分のことばっかり考えてはいられないし」

 けして、恨み言にはならないのだ。みんな前向きに考えている。ただ、気になる話も中にはあった。

「すっかり納得していた人が、突然水に入ってな。大騒ぎで助けたことがあったな。あれはびっくりしたわ。ほかにも、何人か自殺未遂を起こしてな。やっぱり、切なかったんだろうな」

 この話は、コジローの胸に黒い滴を落とした。あり得ることだとは思っていたが、現実に目の前に突きつけられると、不安は予想以上に大きい。とりあえず、有効な対策案も思いつかない。

「仕方ない。出たとこ勝負だ」

 コジローは頭の中に、この件をしっかりと刻みつけておいた。


 不安要素はあるものの、コジローの中で、基本的な方針は決まった。後は、賛成派と反対派を、どうやって近づけていくかだ。よそものであるコジローにとって、これを実現できる手段はあまりない。

「仕方ない。逆荒野の用心棒でいくか…」

 コジローは呟いた。電車の窓の外は、美しい山並みと、線路に沿って流れている、大きな川が見える。もうそろそろ南野の駅というあたりで、コジローは川原にアザミが一人きりでいるのを見つけた。何をしているのか、川の流れに手を浸している。川の流れは、緩やかではない。コジローは、なんとなく不安な感じを覚えた。

「あんなに川の近くで、一人っきりで」

 電車は駅に向かって走っており、アザミの姿は、あっという間に見えなくなった。

「あいつはいったい何なんだろう」

 いつのまにかアザミの存在は、コジローの心の中に、小さな棘のように住みついていた。


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