黄の魔歌 〜幸福の壁〜 p.14
魔歌 | back | end |
1 | この町では何かが起こっている | p.1 |
2 | 雇用契約 | |
3 | よそもの | p.2 |
4 | 賛成派と反対派 | p.3 |
5 | 三ヶ村へ | p.4 |
6 | 要は、皆が幸せになれれば(1) | p.5 |
要は、皆が幸せになれれば(2) | p.6 | |
7 | 本当に、いいのかな。揺れるアザミ | p.7 |
8 | 住民の総意 | p.8 |
9 | 始まった工事(1) | p.9 |
始まった工事(2) | p.10 | |
10 | 夜釣り | p.11 |
11 | キャッチャー・イン・ザ・ライ | p.12 |
12 | 天の海に雲の波たち月の船 | p.13 |
13 | アザミは決めた | p.14 |
14 | 道行き |
★ アザミは決めた。 |
アザミは、考え続けていた。自分がどうすべきか。考え続けながら、でも気づいていた。そうすべきか、という問いに対する答えなど、絶対的な解としては存在しないと言うことを。 その答えは、あるいは他人に、あるいは思想に、あるいは自分自身の欲望により、決められてゆく。その匙加減は答えを出そうとする者の主観でしか決められない。だとすれば、考えるだけ無駄である。なぜなら、それは自分のやりたいようにする、ということに他ならないからである。 アザミは、その部分で行き詰まっていた。私は本当に、何をしたいのか。でも、どうしても自分だけの事を考えることは出来ない。なぜなら、人間は、独りだけで行動することは出来ないから。独りで何かをするだけなら、判断はいらない。条件反射だけで十分だ。人間が他の人間との絡みで行動する場合、程度はいろいろあるが、どうしても他人に負担をかけ、あるいは他人を傷つけることになる。それを承知の上で、行動しなければならない。 普通の人間は、どこかで妥協することで、方針を決めることが出来る。しかし、アザミにはそれが出来ない。妥協という概念が理解できないのだ。もし、自分で判断できないのなら、判断してくれる誰かを捜さなければならない。アザミのことを判断できる誰かは、やはりアザミのことを一番よく知っている者しかいない。でも、それはアザミがいちばんその話を持っていきたくない人たちだった。なぜなら、アザミがそういうことを考えていると知るだけで傷ついてしまうだろうから。 しかし、このままでは、アザミが壊れてしまう。こんなに考え続けたのは、アザミにとっても初めてのことだ。既に、このことを考え続けているつもりが、いつのまにか尋常でない世界のことを考えていることがあるからだ。そちらの世界に行ってしまったら、多分帰ってくるのは難しいだろう。そうしたら、自分の事を一番よく知っている人たちはやはり悲しむだろう。 だとしたら、今、ここで、こちらの世界にいるうちに、相談することにしよう。たとえ、それで両親が、どんなに悲しむことになったとしても。そして、アザミは判断を、両親の考えに委ねることにした。それがどんな結論であろうと。それが、自分にとってつらい結論でも。あの、優しい目を、もう二度と見られないことになろうとも。 アザミは決めた。決めたのだ。そしてアザミは歩き出す。次の場所へ。もし、そんなものがあるとしての話だが。 |
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コジローはヤマシタのおじいに、見回りを頼んだ。危なそうだった連中は、もうコジローが押さえた。たぶん、もう大丈夫だろうが、念を入れるに越したことはない。これが済んでしまえば、もう残す心はない。コジローはチヒロさんに礼を言い、憎まれ口を叩いて店に入ったチヒロさんに向かって、深く頭を下げ、歩き出した。もうここには、二度と帰ってくる気はない。もっとちゃんと挨拶をしたかったが、おばちゃんは泣くだろう。涙は苦手だ。遠くなるが、きょうはダムのところから、山に向かうつもりだった。泊まりはもちろん野宿。明日か明後日には、向こうの町に出られるだろう。そこから、また妹探しを再開するつもりだ。 コジローはダムの下の変電所の脇を通り、柵で囲まれた入り口についた。インターフォンを鳴らすと、聞き慣れた声が返事をした。 「コジローです」 それ以上言う前に、事務所の戸が開いて、一緒に最後の仕上げをしたおじさんの一人がまろび出てきた。 「おお。コジロー.元気そうだな」 「ザイさんこそ。酒、控えてますか?」 「んなわけないだろ!」 「ああ、いつものザイさんだ」 二人は笑い合った。 「きょうはどうした」 「ああ、ここを離れるんで、最後にダムの中を通ってみたくて」 ザイさんはコジローの背中をバンと叩き、言った。 「また来いよ。マージャンで稼がせてもらうから」 「こっちが、ですよね」 ザイさんはまた笑い、コジローの背中をバンバンと叩いた。 「ちょっと待て」 ザイさんは事務所に入って、すぐに出てきた。鍵を上げてチャリチャリ言わせ、コジローを促した。 「行くぞ」 コジローは頷き、歩き出した。歩いて行きながら見上げると、覆い被さって来るように思える、巨大な、巨大な壁。どれほど大きなものであっても、これは人間が、人間の知恵と力を使って作り上げたものなのだ。コジローは、人間という種の偉大さを、改めて認識していた。これは、人間の文明を守るために作られた建造物である。大勢の人間の喜びをもたらすために作られた、幸福の壁なのだ。その背後で、あまたの涙もあり、苦しみもあったが、人々はすべてを受け入れて、この建造物の創造に力を貸してきた、その結果がこれである。そのダムの中に入る扉の鍵を、今、ザイさんが開けた。 |
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コジローとザイさんは、ダムの中を通り、今はダムの上にいた。ダムの中はひんやりとしていたが、ダムの上の口から外に出ると、けっこう暑い。しかし、ダム湖の上を渡る風が吹き抜けており、体感温度はそれほど高くなく、気持ちがいい。ダムの上から、水の溜まったダム湖を眺め、また、下流を眺めて見る。町は、山に遮られて見えないが、方角は分かる。 「三瀬火はどのあたりだったでしょう」 ザイさんは、左の方をさした。 「あの山と山の間あたりだな」 既に水が満ちている。かつて、コジローがサコミズさんの一家と食事をした家の上、30メートルくらいに水面があるのだろう。コジローは目が回りそうになった。あの家は、今はずっと水の下なのだ。 「三瀬がなくなったら、神様はどこで遊ぶんでしょうね」 コジローは呟いた。ザイさんは、それを耳聡く聞きつけた。 「神さんは水が好きなんだよ。こんな水が出たら大宴会だろうよ」 ザイさんの言葉を聞いて、コジローは瞬間、想像する。この広い湖面全体で踊る神の火。サコミズさんも、ミィさんも、息を呑んでそれを見ている。 「そうならいいですね」 コジローが呟くと、ザイさんは、コジローの背中をバンバンと叩いた。 「じゃあな」 ザイさんは言い、振り返らずにダムの中に入っていった。コジローは頭を下げ、荷物を揺すり上げて展望台のあるほうに向かった。 |
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「もう、観光客が来てるのか?」 ダムの端に人がいる。近づくにつれ、誰だか分かった。アザミである。コジローを見送りに?いや、アザミは旅支度をしている。 「おう、アザミ。旅行か?」 「あんたについていく。決めたんだ」 コジローは足を止めた。 「冗談はよせ」 「冗談じゃない。連れて行ってくれ」 「ばかやろう!来い!うちまで連れてってやる!」 「すいませんが、コジローさんかい」 会話に割って入ってくる者がいる。見れば、おじいさんだ。 「そうですが、どなたですか?」 「アザミのじじいです。孫がお世話になっとります」 「いやいや、こちらこそ。聞きましたか、今の話。早く連れて帰って、お尻を叩いてやってください。家出をしようなんて、とんでもない悪ガキだ」 「いや、コジローさん。この子の願いを聞いてやってくれんか。このままじゃ、この子は壊れちまいそうなんだ。連れてってやってくれ。おまえさんなら、任せられる」 あまりと言えばあまりの話に、コジローも切れた。 「なに言ってんだ。そんなこと、出来るわけないだろう!」 「頼む。この子から相談された。この子の両親も、娘がそんなに言うのなら、と認めている。頼むから、この子を連れて行ってやってくれ」 憮然とするコジロー。アザミを睨む。アザミの目は、何度か見た必死な色を湛えている。コジローはこの目が苦手なのだ。コジローは地面に向けて、言葉を吐きつけた。 「どいつもこいつも、なに考えてやがんだ!」 コジローはとっとと一人で歩き出した。アザミは、一瞬迷い、おじいさんに小さく手を振って、コジローの後を追った。おじいさんは、深い哀しみと無力感に溢れた眼差しで、遠ざかってゆくアザミを見送っていた。コジローとアザミの姿が見えなくなってからも、おじいさんはそのまま、そこに立ち尽くしていた。 |
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★ 道行き。 |
コジローは黙々と歩く。アザミは田舎育ちなので、山歩きは得意のようだ。少しも遅れずについてくる。コジローは、ちらりと忌々しそうに見やった。 「疲れたら、家まで送って行ってやるぞ」 「ぜんっぜん。コジローこそ、疲れたら荷物を持ってやろうか?」 「よけいなお世話だ」 コジローは歩き続けたが、とうとう振り返って言った。 「何で来たんだ?なんでおまえの親御さんは、俺なんかにおまえを預けるんだ?」 一瞬、目に哀しそうな色を見せて、アザミは答えた。 「ぼくが壊れちゃいそうだからさ」 「壊れるって、何だよ」 「ああ、ぼくはおかしいんだって。小学生の時、プールの水がどれくらい入ってるか知りたくなって、スプーンで掬い出してたんだ。何杯分になるか。1万7千873杯目になった時、親が捜しに来た。もう暗くなってたんだ。ほかにもいろいろあってさ。親が連れて行った病院で、偉い先生が、ぼくは騒乱性自閉症だって言ったんだ」 コジローは立ち止まった。 「おまえ...」 「それから、ぼくはいるところがなくなっちゃってさ。みんなが、ぼくと一枚皮を隔てて話をするようになっちゃったんだ。親も、どうしていいかわかんないみたいで。どうしたの、コジロー。早くしないと、今夜の泊まりは山の中だよ」 アザミは振り返ってコジローを見た。 「それでおまえは、誰にも何も言われずに、どこにでも顔を出していたのか」 「ぼくは、みんなとは違うんだよ。だから、どこに行ってもいいし、どこにいなくてもいいんだ。だってぼくはおかしいんだもん」 「おまえは、おかしくなんかない。おまえは、村の誰より、ほんとのことを見通していたじゃないか。スプーンでプールの水を量ってどこが悪い?計量のカウントが違うくらいで、人を人じゃないみたいにいう奴の方が、よっぽどおかしいぜ」 アザミは、笑った。今までに見せたことがないくらい、疲れて、翳った表情で。 「ガキ。ぼくが本当にどうなのか、が問題じゃないのさ。他の人がぼくをどう見るか、が大事なのさ。それが、人間社会、ってもんじゃないの?おにいさん」 コジローは何も言えない。言えない自分に腹が立ち、コジローは言った。 「おまえはものすごく頭がいい。でもな、だからって、他人の言う通りに振舞うことなんかないんだぞ?俺が保障する。おまえは、俺なんかよりずっと素晴らしい人間だ」 アザミは優しく笑って言った。 「コジローはさ、自分で基準を決められるんだね。自分の重さや、居場所や、行くべき場所を。ぼくはそれが出来ないの。だから、他人に逆らったり、自分の我を通したりすることなんて出来ないの。それが、きっとぼくの病なのさ。でもね、コジロー。ぼくがコジローと初めて話をした時を覚えてる?あの話を聞いて、ぼくは自分が要らない人間だって考えを、やめられそうな気がしたんだ。僕みたいな人間でも、生きている意味はあるのかもしれないって。それで、僕は学校に戻って、いっぱい勉強したんだ」 コジローは黙って聞いている。 「でも、コジロー、ダムは出来ちゃった。コジローは探し物がある。コジローが定住するのはここじゃない。そうしたら?ぼくはもうコジローと会えなくなる。それは、ぼくにとって死ぬのと同じくらいの意味があるんだ」 「そんなわけないだろう」 言いながら、コジローは自分の言葉が、何の意味も持っていないのを知っていた。 「だから、これは全部ぼくの言い分。一方的な言い分だから、聞くだけ聞いてもらった。今度はコジローの言い分をどうぞ。無理やりついてきたけど、前に教わった通り、コジローにはコジローの都合があるよね。だからコジロー、いやなら言って。ぼくはここからでも家に帰れるし、あんたにまで負担に思われるのはいやだからさ。人間は、お互いを理解するために言葉をもってるんだよね。ぼくを説得して。ぼくがうちに帰りたくなるように。コジローを困らせないでも済むように」 コジローは立ち尽くした。アザミが気高く見えたのは、やはり、神に近かったからなのだ。神は、その属性として、聖性を持ち、崇められ、敬われる。しかし、神にはもうひとつの属性がある。忌み嫌われ、差別されると言う属性。アザミが気高く見えていたのは、普通の人々と区別されていたが故であった。精神の病を持つ、ひとつの稀人として扱われていたからなのだ。しかし、アザミの考え方は、確固として潔い。自らを稀人として受け入れ、その上で自分の行くべき道を模索している。 コジローは、熱くなった頭を振り、考えた。自分の基準で、自分にとって恥ずかしくない道を。やがてコジローは顔をあげた。 「アザミ。おまえは俺についてきたいのか」 アザミは頷いた。 「おまえの親御さんは、本当に俺がおまえを連れて行ったほうがいいと、心から思ってるのか?」 アザミは頷いた。 「おれは、おまえが病を持っているとは思わない。だから、助けないし、かばわない。自分のことは自分で出来るか」 アザミは頷いた。コジローは体を前に倒して、膝に手をつき、大きくため息をついた。 「決めた。おまえを連れてゆく。どこまでかはわからないし、どこかでおまえを放り出すかもしれない。それでよければ、連れて行ってやる。文句はないな?」 アザミは頷いた。 「でも、ひとつだけ、おまえは間違ってるぞ」 アザミは首を傾げた。コジローはアザミの目を覗き込むようにして言った。 「おまえの親御さんは、俺におまえを連れて行って欲しいなんて、これっぽっちも思っちゃいない。今のままじゃ、おまえは生きながら死んでいってしまう。そんなおまえを見ていられずに、これがおまえに一番いいと思ったから、俺に預けたんだ。わかるな、これが?これがわからないようなら、連れては行かん。どうだ?」 アザミはぽかんとしたが、次第に頬が紅潮してきた。目は、しかし、コジローから離さない。目を離さないまま、頷いた。コジローはふっと目を下げ、言った。 「いい親御さんだ。俺は、おまえを預かることにする」 コジローの目が逸れた時からアザミは涙を流していた。コジローは近寄り、アザミの頭を抱いた。身を固くしたアザミは、やがて力を抜き、泣き出した。わんわんと。大声を上げ、身をよじって泣いた。コジローは全てを受け止め、抱きしめていた。 |
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陽がもう傾き始めている。アザミはもう、落ち着いていた。 「このあたりで、野宿できそうなところはあるか?」 アザミは頷いた。コジローは荷物を担いだ。アザミも、自分の荷物を担ぎ上げた。 「案内しろ。きょうはそこで泊まる。たいした飯はないが、いいな?」 「わかった」 歩き出そうとして、コジローはアザミを見た。アザミは首を傾げた。コジローは笑っていった。 「ちゃんと挨拶してけよ」 アザミは頷き、ダム湖の見えるほうに向かって、両手をメガホンのようにして叫んだ。 「行って来まーす。きっと、帰って来るから。心配しないで」 振り向いたアザミは、明るい顔をしている。コジローはあごをしゃくった。 「行くか?」 「おう。ぼくについて来い」 アザミはとっとと先に立って歩き出す。コジローはにっこりと笑い、その後を追った。 |
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