微量毒素

黄の魔歌 〜幸福の壁〜 p.5


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1 この町では何かが起こっている p.1
2 雇用契約
3 よそもの p.2
4 賛成派と反対派 p.3
5 三ヶ村へ p.4
6 要は、皆が幸せになれれば(1) p.5
要は、皆が幸せになれれば(2) p.6
7 本当に、いいのかな。揺れるアザミ p.7
8 住民の総意 p.8
9 始まった工事(1) p.9
始まった工事(2) p.10
10 夜釣り p.11
11 キャッチャー・イン・ザ・ライ p.12
12 天の海に雲の波たち月の船 p.13
13 アザミは決めた p.14
14 道行き

★ 要は、皆が幸せになれれば

 とりあえず、農作業は一段落付き、しばらくコジローは午前中だけ手伝えばいいことになった。コジローは、町に出かけ、久しぶりにマグノリアに行き、チヒロさんの顔を見ながら、コーヒーを出してもらった。

「けっこう、よくやっているそうだね」

「だから、どこで聞くんだよ、そういう話。こないだも、サコミズさんに似たようなことを言われたし」

「まあ、小さい町だからね。どこの誰が南野小町の誰それに袖にされたとか、どこのどの奥さんが、隣りの親父とできてるかとか、すぐに町中にひろまっちゃうんだよ」

「そういうの、ほんとにあるの?浮気とか」

「うぶだねえ。そういう好き者は、どうしてもしちゃうのさ。浮気とか、本気とか。慣れてない奴の方が怖いけどね。ちょっと抱かれていい思いをすると、すぐに本気になっちまって、刃傷沙汰を起こしたりするからさ」

「刺激の強い話だな」

「あんた、みかけより随分若いんだね」

「それは秘密です」

「けっ」

 コジローとチヒロさんが話を弾ませていると、暖簾を分けてアザミが入ってきた。大きな麦わら帽子を手に持っている。コジローもよくかぶる、作業用のものだ。

「クリームソーダ」

 アザミはコジローに目もくれず、漫画をとって読み始めた。コジローはアザミの方を向いた。

「こないだは、すぐ帰ったみたいだな。安心したぜ」

 アザミはちらっとコジローを見て、漫画を読み続けた。

「いいから、ほっといておやりよ」

 クリームソーダを作りながら、チヒロさんがコジローに言う。アザミはクリームソーダを受け取り、この前と同じように飲んだ。コジローはチヒロさんが、何となく落ち着かなくしているのに気付いた。(やっぱり、訳ありか)。コジローはいろいろな可能性を考えてみたが、どれもありそうでいながら、まったく合っていないような気もしていた。アザミはクリームソーダを飲み終え、漫画を置いた。

「ごちそうさま」

 アザミは暖簾をくぐって出て行った。コジローは少し考えていたが、思い切ったように立ち上がった。

「ごちそうさま。お代はここね」

 コジローは、金を置いた。

「つけでいいのに」

 チヒロさんは言ったが、コジローはもう出てしまっていた。チヒロさんは溜息をつき、アザミのクリームソーダを片付けた。流しに置き、水を出して、洗いながらチヒロさんはぽつんと言った。

「私が心配なのはあんただよ。アザミを気にかけてるのが全面に出てるじゃないか」

 チヒロさんはコジローのコーヒーカップを取り上げ、流しに置いた。チヒロさんは、カウンターの上を拭きながら呟いた。

「あんたが傷つくんじゃないか、ってのが心配なんだよ」


 出て、少し行ったところで、コジローはアザミに追いついた。アザミはコジローに気付いたそぶりも見せなかったので、コジローも声をかけずに、少し距離をあけて、そのままついていった。

 アザミは町のはずれの田んぼの中で、広めの用水路の脇の、少し低くなっているところにしゃがみこんだ。しゃがみこんでしまうと、アザミの姿は大き目の麦わら帽子のつばに隠れたようになってしまう。アザミは、そのまま用水路を流れる水を眺めているようだ。ぽこぽこぽこん、と眠くなるような音を立てて水は流れている。コジローも、不断に変わる水の表面と、反射される日の光を眺めていた。

「何を見てる?」

 あまりに突然だったので、コジローは、誰が、誰に向けてその言葉を発したのか一瞬わからなかった。

「あ?あ、俺か。水。水を見ていた。おまえこそ、何を見てたんだ」

 コジローの言葉には答えず、アザミは麦わら帽子を持ち上げ、つばの下からコジローを見た。帽子の翳からも、光るような瞳が、コジローの目に向けられている。

「水は面白い?」

「ああ、面白いな。ずっと同じように流れているような顔をしながら、その実、一瞬として同じ顔はしていない。他にすることがなければ、ずっと見ていても飽きないと思うぞ」

 アザミは顔を戻し、光る瞳は帽子の陰に隠れた。コジローは、ほっとした。アザミの視線は、コジローを圧迫していたのだ。帽子が、コジローに尋ねた。

「他にすることがあるの?」

「山ほどあるさ」

「何をするの?」

 コジローは考えた。

「いろいろ。楽しいことや、つらいこと。つらいことも、実際は楽しいのかもしれないけどな」

「僕にはない」

 帽子が呟いた。

「僕はいても、いなくてもいいんだ。だから、することがない。だから、流れていくのを見ている。水は、なぜ、なんのために流れていくの」

「水の事情は知らないが、おまえがいなくてもいい、なんてことは絶対にないぞ。いなくてもよければ、この世に生まれちゃ来ない」

「間違って生まれたら?」

「間違いなんぞ、ない。なぜなら、生まれてきたこと自体が、事実なんだから。誰かが生ませるんじゃない、生命がそれ自身で生まれてくるんだ。誰の顔色を窺うこともない」

 アザミはじっと川を見ている。ややあって、アザミは言った。

「そうなのかな。だとしたら、生まれてくることはしんどいね」

「どうしてそう思う?」

「自分の責任で生きてかなくちゃいけないってことだろ、それ」

 コジローは感心した。

「すごいね、おまえ。そうくるんだ」

「あんたはしんどくないの?」

「しんどいさ。山ほど問題を抱えてる。でも、それでも、生まれてくることは最高にいいことの一つだぜ。なんせ、しんどさを味わうこともできるんだから。生まれてこなけりゃ、何一つ味わうこともできないからな」

「最高にいいことはいくつあるの?」

「それも、山ほどさ。人は苦しんでても、悲しんでても、怒ってても、笑ってても、それを受け入れている。そして、その一つ一つに、最高にいいことは入ってるんだ」

 アザミはまた黙り込んだ。コジローも黙って、今度は風に吹かれる草を眺めていた。草は目には見えない風に吹かれて、翻り、日の光を反射して、またいっせいに首をうなだれ、と見る間に全身をくねらせて踊る。風に煽られているだけの草が、どうしてあんなに生命を喜び、たたえているように見えるのはなぜかとコジローは訝った。

「きょうは、これだけ。もう、お腹いっぱいだ」

 呟きと共に、アザミは立ち上がった。大きいつばに隠れ、顔は見えない。コジローは、今のがアザミの別れの言葉だとわかった。コジローは言った。

「おまえ、学校に行きたくないのか?」

「行きたくない訳じゃないよ」

「そうか。なら、いいんだ。またな」

 麦わら帽子が揺れたのは、肯定か、否定か。どちらか判断する必要もないので、コジローはそのまま踵を返した。コジローの後ろでは、麦わら帽子に隠れたアザミが、風に煽られて揺れていた。


 コジローは、サコミズさんから、推進派の会合の予定を聞いていた。

「興味があったら参加してもいいわよ」

 サコミズさんにはそう言われていたが、今回、コジローが参加するのは、リスナーとしてではない。サコミズさんには迷惑をかけることになるが、それを承知でコジローは会合をかき回すつもりでいた。

 コジローは顔を知っている職員に会釈をして入った。サコミズさんから聞いているらしく、文句は言われなかった。きょうはサコミズさんは別の仕事で来られないと言っていた。だからこそ、この日を選んだのだ。サコミズさんに問い詰められたら、ちゃんと目的を果たせなくなってしまう。コジローは、戦闘準備を整えて待っていた。しかし、少し困惑させられたのは、アザミが続いて入って来たときだ。

「おいおい、子供が入ってきていいのかよ」

 しかし、誰もアザミを注意することなく、アザミもコジローから少し離れた席に座った。もう8割ほど席が埋まっている。そこへ町長が入ってきて、見回すと、横にいた職員に声をかけた。職員は立ち上がり、
会の開始を宣言した。町長は、町の意見がまだまとまっていないが、慎重に、誠実に話し合いをして、南野山の鬼が面岩のように、頑丈な一枚岩にしていきたいと思っていると述べた。続いて、職員による現状報告が行われ、質疑応答に入った。進め方について、いくつかの質問が出て、説明があった。コジローが立ち上がったのは、それ以上の質問もなく、質疑応答が打ち切られそうになった時だった。

「ええ、これ以上の質問もないようですので...」

「無関係のものだが、ちょっといいか」

 コジローが声をかけると、職員は目を丸くした。町長が穏やかに言った。

「どうぞ」

 コジローは立ち上がって言った。

「俺はコジローという。この町には、ちょっと世話になっているんで、意見を言わせてくれ。反対している連中はどうするんだ。ここに反対している人間は来ているのか?」

「反対している方々は見えていません。お呼びしてはいるのですが、来てくださらなくて」

 コジローは回りを見回して言った。

「実際に来ても、これじゃあ入れないんじゃないのか。本当のところは、出席させる気がないんだろう」

 職員が怒って立ち上がろうとしたが、町長が手を上げて抑えた。

「まあ、俺が言いたいのは、反対派を呼べっていうことじゃない。呼ばないのが正解だってことだ」

「どういうことでしょう」

 町長はあくまで穏やかに聞く。

「町が明らかによくなるのに、それを嫌がる連中は何を考えているか。それは、自分たちの利益だ。町のことや、電気が必要なところのことなんて、まるっきり考えていない。」

「そんなことはないと思いますが...」

「だったら、こういう場に呼ばれなくてもでてくるだろう。出てこないのは、まともに勝負をしたら、負けるのが分かっているからだ。なんせ、自分たちがよければいいんだ、とは言いにくいだろうからな」

「…」

「うちが沈む人間のことなど考える必要はない。十分に補償されるんだから。あいつらがぶーぶー言うのは、もっと補償金が欲しいと値を吊り上げてるだけなんじゃないのか」

「そんなことはないでしょう。みんなは、自分たちのふるさとがを離れなければならなくなる。それがつらいのではないでしょうか」

「どうして、そうおためごかししか言わないんだ。本当の所は金だろう。そんな連中は無視して、どんどん進めてしまえばいい。そうしないと、いつまで立ってもダムが作れやしないし、作る側だって他の場所に作ろうって気になっちまう。この町だって、ろくに産業も何もありゃしないんだ。このままじゃ、ジリ貧だろう。ダムが行っちまってから騒いだって手遅れだぜ」

 コジローは回りを見回した。ほとんどの人間は、反対派より、コジローに怒りを感じているようだ。コジローはもう一言、捨て台詞を叩きつけた。

「まあ、よそもんの俺が何を言っても詮がないが、のんびりし過ぎて、次に来た時に廃村になっていないことを祈ってるぜ」

 コジローはそのまま踵を返し、議場から出て行った。アザミは驚いたような顔で、コジローを見つめていた。コジローが議場を出て行く時、その背中にいくつも声が叩きつけられた。

「よそもんが、何言いやがる!」

「反対派だって、大変なんだ。知りもしないで、バカ野郎!」

「保証金もらったって、家に代わるわけなかろうが!」

 荒れている議場の中で、町長だけは不思議そうな目をしてコジローを見送っていた。そして、おっとりと首をかしげて呟いた。

「どうも、何か、考えているようだ。後でサコミズさんと話してみよう」


 次の日、コジローはふらりと学校を訪れた。柵にもたれて、遊んでいる子供たちを見ていると、一人の子が気がついた。

「コジローだ」

 子供たちはわっと寄ってきたが、離れてじっとコジローを見ている子供たちもけっこういた。

「どうした」

 コジローが声をかけると、小さな声で返事があった。

「うちのとうちゃんが、お兄ちゃんに近づくなって」

 コジローは微笑んだ。

「それでいいんだ。俺はよくない奴だからな」

 昨日、コジローと最後までボールを争った男の子が、その子に食ってかかった。

「何でよくないんだよ。ぜったい違うよ」

「喧嘩はするなよ。どっちも正しいんだ」

 コジローは言って、振り返った。振り返ると、すぐ後ろに大きな麦藁帽子が風に吹かれていた。風に飛ばされないようにか、両手で縁を押さえている。

「びっくりしたあ。アザミか」

「話をしたい。相手をしてくれる?」

 コジローはにやりとした。

「俺はよくない奴だからな。近づかない方がいいぞ」

「よくないの?」

「ああ」

「じゃあ、よくない話をして」

「だめだ。よくないからな」

「なぜ、あんたはよくなくなるの。今までは、いい人だったのに」

「いい人だったか?でも、今はよくない人だ。そのうち、町中の人間が、俺のことを悪く言い出すだろう」

「あんたは悪いことをするの?」

「そうだ」

「じゃあ、なぜそんなに嬉しそうなの?」

 コジローはぐっと詰まった。どうもこいつには驚かされる。勘が鋭いのか、頭がいいのか。見てすぐに判断するのではなく、こちらの話を聞いてから判断しているようなので、頭がいいのだろう。ガキの癖に。コジローはようやく返す言葉を見つけた。

「そりゃ、俺が悪いことをするのが好きだからさ」

「ふうん」

 アザミはそれ以上追求しては来なかった。コジローが黙ると、アザミもしばらく黙っていたが、また顔を上げて言った。

「コジローはこの町を出るんだね」

 ぐさあ。何でこいつは…

「出るよ、もうすぐ。何でそう思った」

「悪いことをした人が、その場所にずっといるわけないじゃないか」

「そんなことはないぞ。やくざや政治家は、悪いことをしてもずっとそこにいたりするぞ」

「あんたはそのどっちでもない」

 むむっ。これが試合なら、圧倒的に俺が負けているぞ。コジローは適切な受け手を見つけられなかったので、別の文句を言って、優位を回復しようとしたが、どうも無駄らしい。

「あんたはやめろ。コジローと言え。まあな。もうじき、消える」

「もう、ここには来ないの?」

「悪いことをした奴が、その場所に戻ってくるってのか?」

「あんた…コジローは戻って来ようと思っている。でなきゃ、自分の名前を覚えさせたりしないだろう」

「あー、参りました。ああ、戻ってくる」

「どうして?悪いことをして、みんなに嫌われて、それでまた戻ってくるの?」

「ああ、その悪いことの後始末のためにな」

「コジローは、後始末をするんだ」

 麦わら帽子は下を向いて、表情が見えない。コジローが学校の向こう側に広がる金色の麦畑が、風に煽られて煌く様子に見とれていると、麦わら帽子が動いた。

「じゃあ、また会えるんだ」

 そのまま、麦わら帽子は、道を行き、学校の門に入って行った。コジローが見送っていると、校舎に入るところで、コジローのほうを向いた。コジローが手を振ると、麦わら帽子はふらりと揺れて、玄関の薄暗がりの中へ消えた。


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