微量毒素

黄の魔歌 〜幸福の壁〜 p.13


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1 この町では何かが起こっている p.1
2 雇用契約
3 よそもの p.2
4 賛成派と反対派 p.3
5 三ヶ村へ p.4
6 要は、皆が幸せになれれば(1) p.5
要は、皆が幸せになれれば(2) p.6
7 本当に、いいのかな。揺れるアザミ p.7
8 住民の総意 p.8
9 始まった工事(1) p.9
始まった工事(2) p.10
10 夜釣り p.11
11 キャッチャー・イン・ザ・ライ p.12
12 天の海に雲の波たち月の船 p.13
13 アザミは決めた p.14
14 道行き

★ 天の海に雲の波たち月の船。

 しばらく前から、ヤマシタのおじいは元気がないように見える。外からはどこが変わったとは言えないが、元気が抜けたように見えるのだ。サコミズは役場の仕事で、何回かヤマシタさんのうちに行く機会があり、おじいさんの様子がおかしいことに気付いた。もっとも、そういう目で見ない限り、それとわからぬほどの変化ではあるのだが。サコミズはコジローに言われていたとおり、できるだけその考えを表に出さないようにした。自分でも驚くほどうまくいったのは、コジローに対する見栄もあったのかもしれない。

(私だって、やれば出来るのよ)

 しかし、やはり長いこと矯めておくことは出来そうもない。ヤマシタのおじいが心配でしょうがないのだ。

(コジロー、後は任せたからね。ちゃんとしてよ!)

 サコミズは祈ることしか出来ない自分が歯痒かった。


 ヤマシタのおじいは、新しい家の縁側で、うつらうつらしている。ふと、目の後ろ側に広がるのは、段になって広がる田んぼ。今年は暑いから、稲もいいだろう。庭で地面をつつきながら、なにやら食べているのは鶏たち。夏の焦げ付くような暑さの中でも、家の中はひいやりとしている。裏の畑から聞こえる、蜂の羽音。山に囲まれたここには、下界の音はまったく聞こえない。

「おじいちゃん、おじいちゃん。そんなところで寝ると、調子を壊しますよ」

 この里では、調子を壊したりすることなどない。そう言おうと思うが、なぜか口が粘っこい。この里とは、どこだったろう。ずっとずっと昔からここに住んでおり、ずっとずっとここに住み続けることになっている、この里。この里に住むこと自体が、神々の祝福なのだ。

 ただ、もう一人、口うるさい男がいる。ここに住むこと自体が祝福なんじゃない。住んでいる人間が祝福されたものなんだ、とその男は言う。だから、そこに住む者たちが幸せになれるのなら、ここより別の場所に移り住むことも、喜ぶべきものなのだ、と言うのだ。そんな話は認められない。この男は、いつももっともなことを言うし、正しいのかもしれないが、正しいことがいつも良いとは限らない。声高に正論を述べるこの男が、おじいは本当は嫌いだった。

 本当のことを言って、みんなに煙たがられ、嫌われていては割に合わない。自分でも嫌なことを、率先してやってどうするのだ。本当は。こんなことはしたくなかった。いつまでも、自分のいるべき里で暮らし、老い、死んでいきたかったのだ。おじいの前には、暗い家の中から見える、窓の形に切り取られた夏の真昼の景色が広がっている。蜂たちが眠たげな音を立てて飛び交い、時折の風に揺れる向日葵と、あまりに多く、一つの音になって耳鳴りのように聞こえる油蝉の声が聞こえる。こここそが、自分のいる場所、この後千年でも二千年でもいるべき、終の住処なのだ。

「おじいちゃんったら!」

 娘がヤマシタのおじいを揺り起こした。

「あ、ああ。寝とったか」

「お昼寝するなら、お部屋で寝てくださいよ」

「いや、眠いわけじゃないんだが...」

 おじいは目をしばたいた。

「いや、夢をみとった」

 娘は、おじいがそんなことを言うのを初めて聞いた。いつもなら、夢の話などしようものなら、そんな幻燈みたいなもんの話を喜んでするな、と一括するのがおちなのだ。興味を惹かれ、聞いてみた。

「へえ。どんな夢?」

「覚えとらん」

「なんだ」

 娘は拍子抜けした。

「でも、いい夢だったんじゃないの。おじいは嬉しそうだったよ」

「そうか」

「天国の夢でも見てたんじゃないの?」

 軽い気持ちで言ったこの言葉を、娘はこの後、自分を責めるために何度も思い出すことになる。怒鳴られることを期待して首を竦めていた娘は、今度こそ本当に驚いた。

「そんな感じだったな」

 おじいもそろそろ丸くなる歳なのかしら。娘は訝りながら、洗濯物を干しに行くために立ち上がった。おじいは、またとろとろとし始めた。この世界に行けば、おじいはいつでも、一番好きな場所に行くことが出来るのだ。それを知ってしまったおじいは、眠くなくてもまどろんでしまう。そして昼の間、まどろみ続けた脳は、夜に寝ることが難しくなる。何日も、何日も暗闇の中で、様々なことを考え続け、考えに考えて、疲れきった脳は、一つの指令を受け入れる。

 おじいは闇の中、立ち上がった。昼になれば、また行くあの世界へ、夜になって考えつづけなければならない、もう二度と行くことのできないあの世界へ、おじいはこれから行くのだ。空中を歩き、30メートル下までゆうるりと飛び降りて、自分の家の入り口をくぐり、ずっとそこに住まうために。


 気がつくと、おじいはダムの横に出来た道を通って、ダム湖のずっと奥にいた。車で来ていたのだが、自分がどうやってここまで運転して来たのか、まったく記憶がない。だが、そんなことはどうでも良かった。山の中、闇の中でおじいを呼ぶ声が聞こえる。すぐ下の水の中、ずっと下で、おじいを呼んでいるのだ。おじいは性急に2−3歩踏み出した。足元が滑り、おじいは湖に滑り込む。驚くほど微かな音を立て、おじいは水の中へ消えた。

 おじいはしばらく、浮いたり沈んだりしていた。空の月が湖面に映り、水が白く見えた。おじいには、懐かしい家は見えない。目に映るのは、天にかかる冴え冴えとした白い月だけだった。結局、これが欲しかったものなのかもしれない。もう一度沈んだら、このまま家に行けるのだろうか。沈みかけたおじいの目に、手漕ぎの船が見える。おじいの頭の中に、万葉集のなかで好きだった句がよぎった。

 −天の海に雲の波たち月の船 星の林にこぎ隠る見ゆ

 そしておじいは沈んだ。しかし、そのおじいの手を掴む手があった。その手は力強く、おじいを引き上げた。

「やめろ、呼んどるんじゃ」

「こんなところに呼び込む奴がいたら、それは悪いもんだ。行くな」

 船がひっくり返りそうに傾いだが、その男は構わずおじいを一気に船の上に引き上げた。


 おじいは船底に手を着き、水を吐いた。

「げぇーっ、げほっげほっ」

 引き上げた手の持ち主は舳先に座っておじいを見ている。雲が切れ、月の光が顔を照らし出した。コジローである。コジローは、穏やかな顔でおじいを見ていた。

「お、おまえ、なぜ...」

 コジローは低い声で言った。

「あんたは死んじゃいけない。みんな、あんたがいなくなったら悲しむだろう」

「ほっといてくれ!もうどうでもいいんだ」

 コジローはしばらく黙り、また言った。

「あんたのふるさとは沈んだけど、あんたが沈んだわけじゃない。家族もみんな元気で頑張ろうとしている。ここであんたがいなくなったら、誰がみんなを引っ張れるんだ?」

「でも、わしは...こんなふうになるとは思わなかった。こんなふうに、何もかもが、すべてが失われたみたいになるなんて...」

「村のみんなの幸せのために、つらいのは承知の上で決めたことだろう?」

「わしは間違っていた。里を沈めたりしちゃならんかったんだ。ずっと守らにゃならんかったんだ」

「あんたが言うのか、それを?」

 コジローは静かに続けた。

「村のために、陰口を叩かれながらも、ダムをつくると決めたあんたが?」

「だから間違っとったんじゃ。わしが間違っていたんじゃ」

「間違ってないさ。町は、ダムのおかげで活気を取り戻した。子供たちはみんな、元気に学校で暴れまくっている。若い奴らも、生き生きとして働き始めている。あんたのやったことは間違っちゃいない」

「なら、何でこんなに哀しいんじゃ。なんでこんなにつらいんじゃ」

「つらさなら、他のみんなが感じていないと思うのか?」

 ヤマシタのおじいは愕然とした。おじいは理解したのである。三ヶ村の人間は、誰一人としてつらくないものはいないのだということを。

「みんなが前に向かって進もうとしているのに、ここであんたが死んだら、村のみんなが幸せでいられると思うのか?」

 つらいのは、自分だけではないし、これからも、折りにふれ、つらく思い出すことだろう。でも、もう、みんなで、前に向かって歩き出したのだ。ヤマシタのおじいは、それを考える余裕もなく、自分の悲しみだけに飲み込まれて、みんなのことを少しも考えることができなかった。元より、つらいと言うことはわかっていて、みんなのために自分が決めたのだ。そのつらさが、思っていたよりひどかったとしても、それで投げ出してはいけないのだ。

「あ、あんた、すまない。ありがとう。わしは、とんでもないことをするところだった...」

 おじいの様子を見ていたコジローは、にやっと笑った。

「大丈夫そうだな、じいさん。じゃあ、うちまで送るぜ。いいな?」

「ああ。もう大丈夫だ」

「その頑固面を見たかったんだよ。もう大丈夫だな」

「なんだと?人の顔を...」

 怒り出してから、ヤマシタのおじいは呆然とした。

「もう雷かい。いい調子だぜ」

「今、泣き言を言っておったのに...」

 コジローは微笑みながら櫂をこぐ。ヤマシタのおじいはもう大丈夫だ。

「怒鳴り声なら前に進めるさ。もっともっと、怒りまくってな、じいさん」

「いや、ほんとうにすまん」

「気にするなって。夜釣りをしてたら偶然見つけたんだから。夜遊びの好きなさかなに感謝するんだな」

「でも、何でこんなところで」

「車の音が聞こえたんでな、漕いで来たんだ。そしたら、丸いものがぷかぷか浮いたり沈んだりしてるんだもんな。河童かと思ったけど、河童は車を運転しないだろう。だから慌てて引き上げたんだよ」

 実際のところ、コジローは冷や汗をかいた。自分の家のそばまで行って入水する律儀な人間がいるとは思わなかったのだ。少なくとも、今まではみな、ダムの近くだったのだ。伏せり岩でまだよかった。三瀬火だったら、間に合わなかったかもしれない。これ以上はないくらい必死でボートを漕いで、何とか間に合ったのだ。コジローはそのあたりを、山の神に感謝した。

「まあ、間に合ってよかったぜ」

「本当に、助かった。ありがとう」

「よせやい。でも、せっかくだから、一つ頼みを聞いてくれるか?」

「いくつでも聞いてやるわい。まっとうなことならな」

「うーん、頑固さは健在だな」

「何だと」

「いいから、落ちるなよ」

 船はぎしぎしと音をさせながら、次第に岸に近づいて行った。


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